第55話: 最も多くの笑顔
王城の地下へ、長い階段が続いていた。
松明の火が石壁を照らしている。冬の地下は、息が白くなるほど冷えていた。
その奥に古い扉があった。
「ここが、封印庫だ」
エドモンドが燭台を掲げて言った。
「建国以来、黄金小麦はこの奥に眠っている。——だが、誰も取り出せない」
扉の中央に、一枚の石板が嵌め込まれていた。マリカはその文字を読んだ。
「この国の食を救う一皿を、作りし者にのみ……黄金小麦を開く」
「そうだ」
エドモンドが頷いた。
「歴代の宮廷料理人が挑んだ。最高級の食材を使い、最高の技術を尽くした。だが、封印は一度も開かなかった。——五十年、誰も開けていない」
マリカは石板をしばらく見ていた。
それから、くすりと笑った。
「あら。簡単ですわ」
エドモンドが、目を見開いた。
「……簡単?」
「ええ。だって、皆さん、読み違えていますもの」
マリカは石板の文字を指でなぞった。
「この石板は、最高の一皿を求めていませんの」
「だが、『食を救う一皿』と」
「ええ。だから皆さん、いちばん高い食材を集めて、いちばん難しい技術で作ったんですわ。——でも、それは違いますの」
マリカは振り返った。
「食を救うというのは。——最も多くの人を、笑顔にすることですわ」
エドモンドが息を呑んだ。
「最高の一皿は、一人の舌しか満たせませんの。でも、食を救う一皿は千人のお腹を満たし、千人を笑顔にする。——求められているのは豪華さじゃありませんわ。届く数ですの」
マリカは、にっこり笑った。
「南部の村でわたくしたちが作ったのは、根菜のスープでしたわ。高い食材なんて、ひとつもありませんでしたの。でも、村のみんなが笑いましたわ。——あれが、食を救う一皿ですの」
エドモンドは言葉を失っていた。
五十年、誰も解けなかった謎を、マリカは扉の前に立った数分で、解いてしまった。
「ルカ」
マリカが、呼んだ。
「あなたの、出番ですわ」
五人が封印庫の前に立った。
ガルムが背負った肉を下ろした。
「俺が獲った中で、いちばんいい肉だ。脂が甘い」
サリムが香辛料の包みを広げた。
「砂漠の七種を、合わせよう。寒い土地の身体を、芯から温める配合だ」
フィリアが薬草を選り分けた。
「この薬草が、肉の臭みを抜きます。——土の声が、そう言っています」
ルカがそれらを受け取った。
火を入れる。鍋をかける。旅のあいだに覚えたすべての技法が、その手に集まっていた。
「マリカ」
ルカが、低く言った。
「指揮を頼む。——俺一人じゃ、この一皿は作れねえ」
マリカが頷いた。
「ええ。任せてくださいまし」
そこからは、言葉が、いらなかった。
マリカが匂いを嗅いで、目で合図する。ルカが火を強める。マリカが舌で確かめて、小さく頷く。ルカが薬草を落とす。
二人の呼吸が完全に重なっていた。
マリカが手を上げる前に、ルカの手が動く。ルカが迷う前に、マリカの目が答えを示す。
まるで、一人の料理人が、二つの身体を使っているようだった。
封印庫が、ほのかに光りはじめた。
石板の文字が淡い金色に滲んでいく。
「これは……」
エドモンドが呟いた。
「食魔法ですわ」
マリカは鍋から目を離さずに言った。
「五人全員の力が、ひとつになったときだけ届く高さ。——祝宴級ですの」
ガルムがその光景を見ていた。
マリカとルカが、一言も交わさずに料理を進めていく。あまりに息が合いすぎて、声をかける隙間がなかった。
ガルムは何も言わなかった。
フィリアも、フードの下でただ二人を見ていた。
沈黙が地下に降りていた。
その沈黙を、サリムが破った。
「……なあ」
サリムがガルムに耳打ちした。
「お二人とも、もう少し周りを見たほうが、いいんじゃないかね」
「……言うな」
ガルムが低く返した。
「本人たちが、いちばん気づいてねえ」
マリカもルカも、その囁きを、聞いていなかった。
ただ、鍋の中の一皿だけを、見ていた。
料理が、仕上げに近づいた。
あとは、最後のひと匙。仕上げの塩をルカの手で振るだけだった。
封印庫の光が強くなっていく。あと少しで、扉が開く。
ルカが塩を指でつまんだ。
マリカが頷いた。
「ルカ。——仕上げてくださいまし」
ルカの手が鍋の上で止まった。
止まったまま動かなかった。
マリカがルカを見た。
その横顔から血の気が引いていた。
「ルカ?」
「……マリカ」
ルカの声が掠れていた。
「俺の味覚は。——本当に、正しいのか」
封印庫の光が、ふっと揺らいだ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「最も多くの笑顔」、封印の試練の回です。
黄金小麦は、王城地下の封印庫に眠っていました。五十年、誰も開けられなかった封印。歴代の宮廷料理人が、最高の食材と最高の技術で挑んで、全員が失敗した。なぜか。彼らは「最高の一皿」を作ろうとしたからです。
でも、石板が求めていたのは、それじゃない。「食を救う一皿」——それは、最も多くの人を笑顔にする一皿です。豪華さじゃなくて、届く数。マリカは、それを一目で見抜きます。彼女が南部の村で作ったのは、ただの根菜スープでした。高い食材なんてない。でも、村のみんなが笑った。あれが、食を救う一皿なんです。
五人で一皿を作る場面、書いていて気持ちよかったです。ガルムの肉、サリムのスパイス、フィリアの薬草、ルカの手、マリカの指揮。旅で集めた全部が、ここでひとつになる。封印庫が光りはじめる——食魔法、祝宴級。五人全員の力が揃ったときだけ届く高さです。
マリカとルカの息が合いすぎて、サリムが「もう少し周りを見たら」とツッコむ。本人たちは気づいていない。ガルムの「本人たちが、いちばん気づいてねえ」が、このシリーズの二人を、いちばん的確に言い表しているかもしれません。
そして、最後のひと匙の前で、ルカの手が止まる。「俺の味覚は、本当に正しいのか」。旅の最後に残った、いちばん古いトラウマです。
次回、いよいよ、ルカの番です。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、「お前の舌だけは」。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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