第54話: この厨房、汚いですわ
宮廷厨房の扉の前で、ルカの足が、止まった。
二年ぶりだった。
この扉の向こうで、ルカは料理人として——すべてを、否定された。「お前の味覚は狂っている」と。「お前の料理は独りよがりだ」と。そして追われた。
ルカは扉を、見ていた。
その左手が、無意識に握られていた。火傷の残る左手だった。
「ルカ」
うしろから、マリカの声がした。
「開けないんですの?」
「……ああ」
ルカは扉に、手をかけた。
冷たい金属の感触。二年前と、同じだった。
ルカはひとつ、息を吸って——扉を、押した。
厨房の中は、二年前と、同じはずだった。
大きな窯。磨かれた銅鍋。整然と並んだ調理台。宮廷の威信を、そのまま形にしたような厨房。
けれどその空気が、淀んでいた。
ルカには、わかった。料理人の手の入っていない、厨房の匂い。火が、本気で入っていない、窯の匂い。誰も、本気で、作っていない。ただ仕事をこなしているだけの、厨房だった。
ルカはその光景の中に、立っていた。
二年前の記憶がよみがえる。ここで罵られた。ここで否定された。手が、また震えはじめた。
その時。
マリカがルカの横を、すり抜けて、厨房の真ん中に、立った。
ぐるりと、見渡す。
それからにっこり、笑って、言った。
「あら。汚いですわ」
「……は?」
「あなたがいた頃より、ずっと汚いですわ。窯の底に灰が溜まっていますの。銅鍋の手入れも雑。調理台の隅に、古い油の匂いがこびりついていますわ。——二年前は、もっときれいでしたのに」
マリカはルカを、振り返った。
「直しましょう? あなたの、厨房ですもの」
ルカはしばらく、マリカを、見ていた。
追われた場所。罵られた場所。トラウマの巣窟。
それをマリカは、「汚いから直そう」と言った。まるで、散らかった部屋を片付けるみたいに。
ルカの口から、ふっと息が漏れた。
笑い、だった。
「……ああ」
ルカは腕を、まくった。
「直すか」
その手は、もう、震えていなかった。
ルカは二年ぶりに、宮廷の窯に、火を入れた。
火加減を見る。窯の癖を確かめる。
「……この窯の癖は、変わってないな」
ルカは低く、呟いた。
「あなた、嬉しそうですわね」
マリカが、横から言った。
「……嬉しくねえ」
「嘘ですわ。手が、笑っていますもの」
ルカは答えなかった。ただ、灰を掻き出す手が、少しだけ速くなった。
灰を掻き出し、火床を整える。銅鍋を磨き直す。調理台の油を落とす。料理人の手が、二年ぶりにこの厨房を目覚めさせていく。
マリカはその様子を、見ていた。
二年前、すべてを否定された男が。今、自分を否定した厨房を、自分の手で生き返らせている。
その背中は、もう、震えていなかった。
その時、厨房の扉が、開いた。
白い帽子をかぶった年配の男が、入ってきた。宮廷料理長だった。
ルカの手が、止まった。
この男は、二年前ルカが追われた時、その場にいた。何も言わなかった男だ。
「……ルカ・アルディーニ」
料理長はルカを、見た。
その目に、敵意はなかった。むしろ、どこか苦いものが宿っていた。
「戻って、きたのか」
「……黄金小麦を、取りに来ただけだ」
「お前の席は、まだ、ある」
料理長が言った。
「あの日、お前を庇えなかった。それは、私の後悔だ。——お前は、この厨房でいちばんの腕だった。戻れ。宮廷料理人に復帰しろ。今の宮廷には、お前の腕が要る」
厨房が、静かになった。
宮廷料理人への復帰。それは、ルカが二年前に奪われたものだった。名誉も、地位も、すべて取り戻せる。
マリカは何も言わずに、ルカを、見ていた。
ルカの答えは、即座だった。
「断る」
料理長が眉を、上げた。
「……なぜだ」
「あいつが」
ルカはマリカのほうを、見た。
「——マリカが、満足するまでは。どこにも、行かねえ」
厨房が、しん、とした。
ルカがマリカを、名前で、呼んだ。
旅のあいだ、ずっと「お前」だった。一度も名前で呼ばなかった男が。今、初めて「マリカ」と口にした。
ルカ自身は、それに気づいていないようだった。当たり前のように料理長に向き直って、火床に薪を足した。
「あいつ、って」
マリカが、首をかしげた。
「わたくしのこと、ですの?」
「……他に誰がいるんだよ」
「あら。嬉しいですわ」
マリカは、にっこり笑った。それだけだった。
マリカも、気づいていなかった。
ただなぜか、頬が、少し、熱かった。
その理由を、マリカは考えなかった。窯の火が近いせいだと思った。
部屋の隅で。
フィリアがその一部始終を、見ていた。
ルカが「マリカ」と呼んだ瞬間。マリカの頬が、ほんのり染まった瞬間。
フィリアはフードの下で、そっと、微笑んだ。
味のわからない自分にも、見えるものがある。二人とも、気づいていない。気づいていないまま、距離だけが縮まっていく。
いつか、二人が、自分で気づく日が、来るのだろうか。
フィリアはその日を、見られたら、いいと、思った。
窯の火が、厨房を、暖めていた。
二年前、冷えきっていた厨房に、料理人の火が戻っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「この厨房、汚いですわ」、ルカの回です。
ルカにとって、宮廷厨房は、トラウマの場所です。「お前の味覚は狂っている」と否定され、追われた場所。その扉の前で、手が震える。なのにマリカは、厨房を見渡して「汚いですわ。直しましょう?」と、まるで散らかった部屋を片付けるみたいに言う。この軽さが、ルカを救います。トラウマの場所が、ただの「汚い厨房」になる。マリカにかかると、世界は、いつも、こんなふうに、軽くなります。
そして、料理長の「戻れ」。宮廷料理人への復帰。二年前に奪われたもの全てが、戻ってくる申し出です。それを、ルカは即座に断る。「あいつが——マリカが、満足するまでは、どこにも行かねえ」。
ここで、ルカが、初めて、マリカを「マリカ」と名前で呼びます。旅のあいだ、ずっと「お前」だったのに。本人は気づいていない。マリカも気づいていない。ただ、頬が熱くなる。「窯の火のせい」だと思う。——フィリアだけが、見ています。このシリーズの「恋と呼ばない距離」が、いちばん近づいた瞬間かもしれません。
次回、いよいよ「黄金小麦」。封印の試練が始まります。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、「最も多くの笑顔」。
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