第52話: わたくしがいますわ
丘の上から、王都が見えた。
白い城壁。そびえる尖塔。マリカが追放され、ルカが追われた街だった。
その王都を前に、ルカの足が止まった。
マリカは、それに気づいた。
いつも淡々と歩くルカの足が、ほんの少し重くなっていた。横顔に、隠しきれない硬さがあった。
二年前、ルカはこの街の宮廷から追われた。料理人として、すべてを否定されて。その場所へ、もう一度戻ろうとしている。
「ルカ」
マリカが、隣に並んだ。
「怖いんですの?」
ルカは、答えなかった。
ただ、その左手が無意識に握られていた。
マリカの目が、その手に留まった。
ルカの左手の甲には、古い火傷の痕があった。料理人なら誰でも持つ、火と油の傷。けれど、ルカのそれはいちばん古いものだった。
「その火傷」
マリカは静かに言った。
「いつのですの?」
「……ガキの頃だ」
ルカが、ぼそりと言った。
「初めて竈の火に触れた時の。——料理人になる、ずっと前の傷だ」
「素敵ですわね」
「……何が」
「その傷があるから、あなたは包丁を握れますの」
マリカは、その火傷の手を見ていた。
「火に触れて、痛みを知って。それでも、火のそばに立つことを選んだ。——その手が、わたくしたちをここまで食べさせてきましたわ」
ルカは、自分の左手を見下ろした。
いつも隠していた傷。恥じていたわけではない。ただ、見ないようにしていた傷。
その傷を、マリカは素敵だと言った。
ルカは、しばらく王都を見ていた。
それから、低く口を開いた。
「……宮廷の連中は、俺の料理を否定した」
ルカの声は、静かだった。
「『お前の料理は独りよがりだ』と。『誰のために作っているのか、わからない』と。——あの時は、言い返せなかった。本当に、その通りだったからだ」
ルカは、王都をまっすぐ見た。
「でも、今は違う。——俺は、お前たちのために作ってきた。飢えた村のために。各地の種族のために。誰の顔も見える料理を作れるようになった」
ルカの拳がほどけた。
「宮廷に戻るのは、あいつらに頭を下げるためじゃない。——俺の料理が間違っていなかったと、それを証明するためだ」
マリカは、その横顔を見ていた。
二年前、すべてを否定された男が。今、自分の料理を証明しに戻ろうとしている。
それでも、その横顔には、まだ恐怖が残っていた。
当然だった。傷は、一日では消えない。
「大丈夫ですわ」
マリカが、笑った。
「わたくしが、いますわ」
ルカが、マリカを見た。
「あなたの料理が独りよがりかどうか。——わたくしが、いちばんよく知っていますの。誰よりもあなたの料理を食べてきましたもの。だから、もしまた誰かが、あなたの料理を否定したら」
マリカが、にっこり笑った。
「わたくしが言ってさしあげますわ。『この料理人の味は、世界一です』って。——何度でも」
ルカは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「……ああ」
ルカの声は、低かった。
けれどその硬さは、消えていた。
「お前が、いるなら」
マリカは、その一言に目を瞬かせた。
出会った日のことを、思い出した。
追放されたマリカが、行き倒れていたルカに料理を作れと言った、あの日。ルカは、ぶっきらぼうに「勝手にしろ」と言った。
あの「勝手にしろ」が。
それが今、「お前がいるなら」に変わっていた。
二年の旅が、この、たった一言の変化に詰まっていた。
マリカは、何も言わずにルカの隣を歩いた。
うしろで、サリムがにやにやと笑っていた。ガルムが、鼻を鳴らした。フィリアが、フードの下で微笑んでいた。
誰も、何も、言わなかった。
言う必要が、なかった。
五人は、王都の門へ向かって歩いていった。
その日の朝。
王都の門前で、最後の野営をした朝。
ルカが、五人分の朝食を作っていた。
いつものことだった。けれど、その手つきはいつもより丁寧だった。
「ルカ」
マリカが、声をかけた。
「王都で、最初に何を作りますの?」
「……決めてある」
ルカは、鍋をかき混ぜながら言った。
「とっくに決めてる。——王都に着いたら、いちばん最初に作る料理は」
ルカは、そこで言葉を切った。
それから、ぼそりと言った。
「……お前が、いちばん好きなやつだ」
マリカは、その言葉に笑った。
何も、聞き返さなかった。
ルカが何を作るのか、マリカには、もうわかっていた。それは、あの辺境の村で、初めて二人で作った根菜のスープだ。子供たちが「おかわり」と叫んだ、あの一皿。
すべてが始まった、味。
朝の光が、五人の食卓を照らしていた。
その光の中で、ルカの火傷の手が、最後のひと匙を整えていた。
王都の門が、開く。
マリカのいちばん遠い場所への旅が——いちばん近い人と、始まろうとしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「わたくしがいますわ」、第四章「幻のレシピ」の、最終話です。
この回は、マリカとルカの、二人の回にしました。物語全体の、いちばん奥にある、二人の絆の回です。
ルカの、左手の火傷。実は、ずっと前から、描いていました。料理人なら誰でも持つ傷。でも、ルカのそれは、いちばん古い、子供の頃の傷です。「火に触れて、痛みを知って。それでも、火のそばに立つことを選んだ」。マリカは、その傷を「素敵」だと言う。傷は、克服するものじゃなくて、抱えて立つものなんだと思います。
「大丈夫。わたくしがいますわ」。そして、ルカの「……ああ。お前がいるなら」。出会った日、ルカは「勝手にしろ」と言いました。それが、二年の旅を経て、「お前がいるなら」に変わる。この、たった一言の変化に、二人の物語の、すべてが詰まっています。恋とは、呼びません。でも、これ以上の、信頼の言葉は、ないと思います。
最後、ルカが「王都で最初に作る料理」。それは、辺境の村で、初めて二人で作った、根菜のスープです。子供たちが「おかわり」と叫んだ、あの一皿。すべてが始まった味で、新しい戦いが始まる。円環が、閉じます。
次のアーク、Arc5で、いよいよ「大いなる宴」が始まります。六つの種族を、ひとつの食卓に。千年、誰もやったことのない宴。マリカの旅の、集大成です。
ここまで、Arc4「幻のレシピ」にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。次のアークで、またお会いしましょう。
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