第51話: 宮廷厨房へ
密書は、一羽の鳥が運んできた。
王都の、紋章の入った、封蝋。中の字を見て、マリカは、目を細めた。
エドモンドの字だった。
——王都の食が、死にかけている。連合の管理が崩れ、食の秩序が乱れた。誰も、まともな一皿を作れなくなった。マリカ・ベルモント。君の力が要る。戻ってきてほしい。
マリカは、その手紙をしばらく見ていた。
「あの方が、頭を下げる手紙を書くなんて」
マリカは薄く、笑った。
「よほどひどいんですわね。王都の食卓は」
「行くのか」
ルカが低く、訊いた。
その声には、いつもの無愛想さとは違う硬さがあった。王都。ルカが料理人として追われた場所。
「ええ」
マリカは頷いた。
「でも、エドモンド様のためではありませんわ。——黄金小麦が王都にありますもの。最後の神の食材ですわ」
マリカは、ルカを見た。
「それに。——あなたに見せたいものがありますの。あの、宮廷の厨房で」
ルカは答えなかった。
その夜、ルカが試作を作った。
五つの食材のうち、二つ。森の心臓茸と溶岩蜜酒を合わせた、一皿。
茸の、森の味。蜜酒の、火の味。本来なら決して出会わない二つの味を、ルカの技術が、ひとつの皿に編み込んでいた。
マリカが、それを一口食べた。
目を閉じる。
長いあいだ味わって——それから、目を開けた。
「……おいしい、ですわ」
マリカは静かに、言った。
「技術は完璧。火入れも、配合も申し分ありませんの。味は——正しいですわ」
「だが?」
ルカが訊いた。
マリカが何か、続けようとしているのが、わかったのだ。
「歌っていませんの」
マリカは、その皿を見下ろした。
「味は正しい。でも、この一皿は歌っていませんの。森の茸も火の蜜酒もちゃんといる。でも二つはまだ、心をひとつにしていない——隣り合っているだけで、手を繋いでいませんの」
マリカは顔を、上げた。
「わかりましたわ。レシピの『心を一つに』。——食材も調理法も、揃えるだけじゃダメ。作る人と食べる人の心がひとつにならないと、この一皿は鳴らないんですの」
ルカはその皿を、見ていた。
料理人として、自分の技術が完璧だとわかっていた。それでも、足りない。技術の、その先に何かがある。
ルカは低く、言った。
「……厄介なレシピだな」
「ええ。——でも、素敵なレシピでしょう?」
マリカは笑った。
出発を、前にした、夜。
マリカは宿の、窓辺に、座っていた。
ルカが明日の支度をしていた。背を向けて。鍋を磨き、包丁を研いでいた。王都へ持っていく道具だ。かつて追われた場所へ、もう一度持っていく道具。
マリカは、その背中を見ていた。
「ルカ」
「……なんだ」
「わたくし、一人では」
マリカの声が少し揺れた。
「この旅は、ここまで、来られませんでしたわ」
ルカの手が止まった。
包丁を研ぐ音が、消えた。
「……急に、どうした」
「ずっと、思っていましたの。でも、言葉にしていませんでしたわ」
マリカは膝を、抱えた。
「わたくしの舌は、確かに世界一かもしれません。どんな味でも読めますわ。でも——読むだけですの。わたくしには、それを形にする手がない」
マリカは、ルカの背中を見た。
「あなたの手がなければ、わたくしの舌はただの道楽ですの。おいしいものを見つけて、おいしいと言うだけの。——あなたがいるから、わたくしの『おいしい』は誰かのお腹を満たせるんですの」
ルカは答えなかった。
背を向けたまま。
その肩がわずかに、こわばっていた。
「……知ってる」
ルカが低く、言った。
たった、ひとことだった。
「お前の舌がすごいのは。——それが、俺の手がないと、ただの道楽だってのも。——昔から知ってるよ」
マリカの目に涙がにじんだ。
嬉しい涙だった。
けれどルカは、背を、向けたまま。それを、見なかった。
二人とも、それでよかった。
部屋の隅で。
フィリアがその一部始終を、見ていた。
マリカのにじんだ涙も。ルカのこわばった肩も。背を向けたまま「知ってる」と言った、その声の、温度も。
フィリアは何も、言わなかった。
ただフードの下で、そっと、微笑んだ。
味のわからない自分にも、見えるものがある。少し前の自分なら、気づかなかった。今は、わかる。この二人の間に流れているものが。
それは、たぶん、世界でいちばんゆっくりとした、恋だった。
名前をつけたら、壊れてしまう。だから、誰も名前をつけない。
明日、五人は王都へ発つ。
マリカが追放された街へ。ルカが追われた厨房へ。
最後の食材を、迎えに。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「宮廷厨房へ」、王都への、出発前夜の回です。
エドモンドからの密書。「戻ってきてほしい」。あの、凡庸な第二王子が、頭を下げる手紙を書く。前に、彼が「自分なりの一歩を踏み出す」と言った、その続きが、ここにあります。彼は、ちゃんと、動いていました。
ルカの試作が「鳴らない」場面。技術は完璧。味も正しい。でも、歌っていない。「二つが、隣り合っているだけで、手を繋いでいない」。これが、レシピの「心を一つに」の、本当の意味です。技術の、その先に、心がある。料理人のルカにとって、これは、いちばん、厄介で、いちばん、面白い謎かもしれません。
そして、マリカの告白。といっても、恋の告白では、ありません。「わたくし一人では、ここまで来られなかった」。彼女が、初めて、明確に、ルカへの依存を、言葉にします。「あなたの手がなければ、わたくしの舌は、ただの道楽」。それに、ルカは、背を向けたまま「知ってる」と返す。マリカの目に、嬉しい涙がにじむ。でも、ルカは、それを見ない。二人とも、それでいい。
このシリーズで、いちばん大事にしてきた、二人の距離です。名前をつけたら、壊れてしまう。だから、誰も、つけない。フィリアだけが、それを、見ています。
次回、いよいよ、王都へ。Arc4の、最終話です。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、「わたくしがいますわ」。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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