第49話: 精霊の雫果
復元は、夜明けから始まった。
まず、薬草を凍らせる。氷雪の里の冷気の中で、ゆっくりと。マリカが、頃合いを見極めた。
次に、煎じた茶を精霊の泉の水で割る。澄んだ、冷たい水だった。
そして、ひと晩寝かせる。
三つの工程。どれも地味で、手間のかかる作業だった。けれど、それが百年のあいだ省かれてきたものだった。
その横で、フィリアが目を閉じていた。
精霊樹の幹に、手を当てて。
「……反応しています」
フィリアが、低く言った。
「薬草を凍らせた瞬間。精霊が、ぴくり、と。——覚えているんです。この手間を。昔、人がかけてくれていた手間を」
マリカは、フィリアの横顔を見た。
いつものフィリアと、少し違った。背筋がまっすぐ伸びて、声に迷いがなかった。
ここは、フィリアの里だった。
そして、フィリアにしかできない仕事だった。
昼を過ぎて、料理が、できあがった。
復元された、エルフの、伝統料理。三工程を、すべて、戻したものだ。
ルカが、最後のひと匙を整えた。
その瞬間だった。
フィリアが、息を呑んだ。
「……来ます」
枯れかけた精霊樹の、枝の先。
そこに、淡い光が灯った。
ひとつ。ふたつ。みっつ。落ちかけていた葉のあいだに、小さな光が次々と生まれていく。冬の里に、春のともしびがともるように。
里のエルフたちが、空を見上げた。
「……精霊が」
誰かが呟いた。
「精霊の声が——戻ってくる」
フィリアが精霊樹に手を当てたまま、瞼を閉じていた。その睫毛が、光を受けて濡れていた。
「聴こえます。——はっきり聴こえます。百年ぶりの声」
マリカは、その光を見上げていた。
飢えた村に、灯った金色の光。種族を超えた屋台に、灯った光。マリカはいくつもの、食の光を、見てきた。
けれど、これは違った。
これは、百年失われていたものが戻ってくる、光だった。
里のエルフたちが、復元された料理を、口にした。
ひとり。またひとり。
みな、一口食べて動きが止まった。
いちばん年老いたエルフが、椀を両手で包んだ。
「……この味は」
老エルフの声が、途切れた。
「昔の——わたしが子供の頃に飲んだ味だ。母が、淹れてくれた。——忘れていた。こんな味があったことを」
老エルフの皺だらけの頬を、涙が伝った。
その隣のエルフも、泣いていた。その隣も。
「フィリア」
ひとりの若いエルフが、震える声で言った。さっきまで、いちばん冷たい目をしていた者だった。
「……あなたが、戻してくれたの? この味を」
フィリアは、答えなかった。ただ、こくり、と頷いた。
里じゅうが、復元された、ひとつの味の前で、泣いていた。
百年、簡単になっていった料理。誰もおかしいと思わなかった料理。その奥に、こんなにも深い味が眠っていたことを、誰も知らなかった。
その輪の中心に。
フィリアが立っていた。
二十七年前、「壊れたエルフ」として追われた娘が。今、「声を聴く者」として、里の真ん中に立っていた。
もう、フードは、被っていなかった。
銀に近い髪も、尖った耳も、さらしたまま。まっすぐ前を向いていた。
長老が、フィリアの前に立った。
白い髭の老いた師が、かつての弟子の前で。
そして、ゆっくりと頭を垂れた。
里の長が、追放した娘に頭を下げる。それが何を意味するか、その場の誰もが、わかっていた。
「フィリア」
長老の声は、掠れていた。
「壊れたエルフ、と。——あの日、お前をそう呼んだことを。許してくれ」
フィリアは、答えなかった。
ただ、その目から、静かに涙がこぼれた。
「お前は、壊れていなかった」
長老が、顔を上げた。
「お前は、ただ——わたしたちより先に、新しい道を歩いていた。味覚を、外へ。声を、聴く力へ。わたしたちが里の中で閉じこもっているあいだに。——お前は、世界を聴きにいっていたのだな」
フィリアは、長老を見た。
二十七年。ずっと抱えてきた、棘。それが、ゆっくりと溶けていく。
「……わたし」
フィリアの声が、震えた。
「帰ってきました。お師匠様。——今度は、聴ける者として」
長老が、フィリアの肩に、そっと手を置いた。
その手は、震えていた。
二十七年分の後悔と安堵が、その震えにこもっていた。
その夜、長老がマリカたちを精霊の泉へ案内した。
里のいちばん奥。岩の割れ目から、冷たい水が湧いていた。その水際に、白い果実が実っていた。
雪の結晶のような、透き通った実。
精霊の雫果だった。
長老が、その実をひとつ摘んで、マリカに差し出した。
「持って行きなさい。——お前たちは、この里に声を取り戻してくれた。これは、その礼だ」
「いただいて、よろしいんですの?」
「ああ。——ただし」
長老は、フィリアを見た。
「いつか、また帰ってこい。フィリア。——お前の里だ。ここは、ずっとお前の里だ」
フィリアが、ひとつ頷いた。
もう、その目に迷いはなかった。
マリカが、精霊の雫果を両手で受け取った。
「五つ目ですわ」
マリカは、ルカを見た。
「あと、ひとつ。——王都の黄金小麦だけ」
ルカの目が、ほんの少し硬くなった。
その最後の食材が、いちばん遠い場所にあることを。
二人とも、わかっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「精霊の雫果」、五つ目の食材を手に入れる、フィリアの回です。
前回、マリカが「最後まで聞く」ことで、失われた三工程を見つけました。この回では、それを、戻します。薬草を凍らせ、精霊の泉の水で割り、ひと晩寝かせる。地味で、手間のかかる、三つの工程。それを戻した瞬間、枯れかけた精霊樹に、光が灯る。百年ぶりに、精霊の声が、里に戻ります。
里のエルフたちが、復元された料理を食べて、泣く場面。「この味は——昔の——」。簡単になっていった料理の奥に、こんなにも深い味が眠っていた。それを、誰も知らなかった。失われていたのは、味そのものではなく、その味を生む「手間」でした。手間とは、たぶん、愛情の、別の名前です。
そして、フィリア。「壊れたエルフ」と呼ばれた娘が、「声を聴く者」として、里の真ん中に立つ。長老が、頭を垂れる。「お前は、壊れていなかった。ただ、先に、新しい道を歩いていた」。フィリアの、二十七年の棘が、ここで、溶けます。「帰ってきました。今度は、聴ける者として」。この一言を、ずっと、書きたかったのです。
次回、いよいよ、五つの食材が揃います。残るは、王都の黄金小麦。マリカが追放され、ルカが追われた場所。二人にとって、いちばん遠い場所への、旅が、始まります。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、「五つの食材」。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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