第47話: 聞いていませんでしたわね
長老の館で、マリカは、頭を下げた。
「精霊の雫果を、分けていただけませんか」
マリカは、まっすぐ長老を見た。
「ただいただくのではありませんわ。里の精霊が弱っている。その原因を、わたくしたちが一緒に考えますの。食の問題なら、わたくしの得意分野ですわ」
長老は、しばらくマリカを見ていた。
それから、ゆっくり口を開いた。
「……いいだろう。聞こう」
長老が、語りはじめた。
「精霊樹が弱ったのは、百年ほど前からだ。里の食が変わったわけではない。掟は守ってきた。伝統の料理も同じように作っている。だが、精霊の声は年々遠くなる。我らも理由がわからん。——昔、精霊が近くにいた頃は、こんな茶でももっと——」
その時だった。
窓の外から、風が流れ込んだ。
冷たい風に、ひとすじ甘い匂いが混じっていた。
マリカの鼻が、それを拾った。
「あ、この匂い——」
マリカの言葉が、長老の話に重なった。
「雪の下に、花が咲いていますの? この時季に? んまぁ、どんな花かしら。氷の下で、どうやって——」
マリカは、窓のほうを見ていた。
長老の話を、聞いていなかった。
長老の言葉が、止まった。
館が、静まり返った。
マリカは、はっと我に返った。
「……あ。申し訳、ありませんわ。続きを——」
「もう、よい」
長老の声は、冷たかった。
「精霊の話をしている最中に、花の匂いに気を取られるか。——お前は、里の精霊の声など、本当は聞く気がないのだろう」
「いいえ、そんな——」
「下がれ」
長老は、目を閉じた。
「精霊の雫果は、渡せん。話は、終わりだ」
マリカは、何か言おうとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
自分が何をしてしまったのか。それが、じわじわとわかりはじめていた。
マリカは、館を後にした。
その背中に、長老のため息が聞こえた。
外は、雪が降っていた。
白い、静かな雪だった。
館を出たマリカを、フィリアが待っていた。
いつものフィリアなら、何も言わず隣に立っただろう。
けれど、今日のフィリアは違った。
「マリカさん」
フィリアの声は、低かった。
「どうして、長老の話を最後まで聞かなかったんですか」
「……花の、匂いが」
「花の匂い」
フィリアが、繰り返した。
その声に、初めて棘があった。
「あの里は、わたしの故郷です。精霊が弱って苦しんでいる。あなたなら助けられるかもしれない。——わたし、そう思ってここまで来ました。なのに」
フィリアの銀に近い髪が、雪に濡れていた。
「あなたは、花の匂いに気を取られた。——マリカさん。あなたのそれが、いつも問題を起こすんです」
マリカは、フィリアを見た。
フィリアが、こんなふうに自分を責めるのを、初めて見た。
「フィリアの、言う通りだ」
ルカの声が、した。
雪の中に、ルカが立っていた。腕を組んで。その目は、いつものように無愛想だった。けれど、その奥に怒りがあった。
「お前は、人の話を聞かない」
ルカが、言った。
「昔からそうだ。婚約破棄の場で、料理の話を始めた。倉庫に潜入すると言って、聞かずに突っ込んだ。ギルドにも勝手に突撃した。——いつもお前が好きに動いて、結果的にうまくいって」
ルカは、マリカをまっすぐ見た。
「いつも、周りが尻拭いしてきたんだ。——気づいてなかったのか」
マリカは答えなかった。
反論の言葉を探した。いつものように、笑って受け流す言葉を。
けれど何も、出てこなかった。
ルカの言うことは、ぜんぶ、本当だった。
婚約破棄の場で料理の話を始めた。あれは笑い話だと思っていた。倉庫に潜入したのも、ギルドに突撃したのも、ぜんぶ結果的にうまくいったから、なかったことになっていた。
でも、今日は、違った。
今日は、フィリアの故郷がかかっていた。
「……わたくしは」
マリカの声が掠れた。
「聞いていませんでしたわね。——ずっと」
雪が、降っていた。
マリカの肩に、髪に、雪が積もっていく。
マリカは、それを払いもしなかった。
その夜、マリカは、食べなかった。
雪の積もる里の宿の隅に、座っていた。膝を抱えて。
ルカが、料理を運んできた。
温かいスープだった。マリカの好きな味付け。けれど、マリカは手をつけなかった。
ルカは、何も言わずにそれを下げた。
しばらくして、また別の料理を運んできた。焼いた芋。マリカが、いつも喜ぶもの。
手つかずの、まま。
ルカは、それも下げた。
また運んでくる。三品目。四品目。
マリカは、どれにも手をつけなかった。
食べられなかった。
あの、何でもおいしそうに食べる令嬢が。世界中の味を知りたがった令嬢が。今、目の前の温かい料理を、一口も食べられずにいた。
そして、泣くこともできなかった。
涙すら、出てこなかった。
ただ、凍りついたように膝を抱えていた。
「ルカさん」
フィリアが、低く言った。
「……もう、五品目ですよ」
ルカは、五品目の料理をマリカの前に置いた。
答えなかった。
ただ、厨房に戻って、また鍋を火にかけた。
「ルカさん」
フィリアが、もう一度言った。
「食べないものを、作り続けても」
「……うるせぇ」
ルカが、低く遮った。
その手は、止まらなかった。野菜を刻む。出汁を引く。マリカの好きな味を、また組み立てていく。
「料理人が、食べない奴を放っておけるか」
ルカは、鍋を見たまま言った。
「それだけだ。——それ、だけだよ」
嘘では、なかった。
けれど、それがぜんぶでもなかった。
雪が、降り続けていた。
手つかずの料理が五皿、マリカの前に並んでいた。
どれも、冷めていった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「聞いていませんでしたわね」。この物語で、いちばん、つらい回です。
マリカは、これまで、人の話を聞かずに、好きに動いて、それでも、結果的にうまくいってきました。婚約破棄の場で料理の話を始めたのも、倉庫に潜入したのも、ギルドに突撃したのも。ぜんぶ、笑い話で、済んできた。でも、今日は、済みませんでした。フィリアの、故郷が、かかっていたからです。
フィリアとルカの、批判は、マリカを、見捨てるためのものでは、ありません。「このままでは、あなたは、本当に大切なものを、壊す」。それは、愛情です。だからこそ、いちばん、痛い。
そして、食べないマリカ。彼女は、いつも「んまぁ!」と、全身で食べる令嬢でした。その彼女が、温かい料理を、一口も、食べられない。泣くことも、できない。「食べない」と「泣けない」の、二重の不在。これが、この物語で、マリカが、いちばん、壊れている状態です。涙が、出ないことが、いちばん、悲しい。
ルカが、五品作る場面。「食べない奴を、放っておけない。それだけだ」。嘘ではありません。でも、ぜんぶでも、ありません。彼は、ただ、作ることしか、できないのです。マリカに、何と声をかければいいか、わからないから。手を、動かし続けるしか、ない。
次回、マリカは、立ち上がります。謝罪ではなく、行動で。「最後まで、聞く」ことで。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、「最後まで聞く」。
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