第46話: 氷の里へ
氷雪の里は、世界の果てにあった。
万年雪の山脈の、さらに奥。凍りついた森を抜けた先に、その里は隠れていた。空気が刺すように冷たい。吐く息が白く凍って、すぐ消えた。
里の門は、氷でできていた。
その門の前で、フィリアが立ち止まった。
二十七年。フィリアがこの里を出てから、二十七年が経っていた。
フィリアは、フードに手をかけた。
迷うように、指が止まる。
それから、ゆっくりとフードを外した。
長い、銀に近い薄緑の髪が、こぼれ落ちた。その下から、エルフの尖った耳が現れた。里を出てから、ずっと隠してきた耳だった。
「……ただいま、帰りました」
フィリアは、誰にともなく呟いた。
その声は白い息になって、凍った空気に、溶けていった。
門が、開いた。
中から、エルフたちが出てきた。
みな、フィリアと同じ銀に近い髪と、尖った耳を持っていた。けれど、その目は冷たかった。よそ者の人間を見る目より、もっと冷たいもので、彼らはフィリアを見ていた。
ひとりのエルフが囁いた。
「……壊れたエルフだ」
別のエルフが続けた。
「あの子が、戻ってきた。——味覚を暴走させて、里の精霊樹を枯らしかけた、あの子が」
フィリアの肩が、わずかに震えた。
けれどフィリアは、俯かなかった。
マリカは、その横顔を見ていた。
いつもフードの下に隠れていたフィリアが、今、銀の髪をさらして、まっすぐ前を向いている。震えながら、それでも逃げずに立っている。
マリカは、何も言わずにフィリアの隣に立った。
ただ、隣に。
それだけで、十分だと思った。
里のいちばん奥の館に、長老はいた。
白い髭の、年老いたエルフだった。けれど、その目は、若いエルフたちのように冷たくはなかった。フィリアを見たその目に宿っていたのは——後悔だった。
「フィリア」
長老が静かに言った。
「大きくなったな」
「……お師匠様」
フィリアの声が揺れた。
マリカは、それでわかった。この長老は、フィリアのかつての師だ。フィリアに味覚魔法を教えた人。そして——フィリアの暴走を止められなかった人。
「あの日」
長老が、目を伏せた。
「お前を追い出したのは、里の掟だ。私の意志ではない。——だが、私はお前を庇えなかった。掟に逆らえなかった。それが二十七年、ずっと私の棘だった」
長老は、顔を上げた。
「すまなかった、とは言わん。——言葉で消える棘では、ないからな」
フィリアは答えなかった。
ただ、その目からひとすじ、涙がこぼれた。
二十七年、誰にも見せなかった涙だった。
長老が、茶を出した。
エルフの伝統の、もてなしの茶。氷の里の薬草を煎じたものだ。
マリカは、ひとくちすすった。
そして、首をかしげた。
「……薄いですわ」
マリカは、正直に言った。
「薬草の力が、弱いんですの。香りも味も、本来の半分も出ていませんわ。——これは、土が悪いんですの? それとも、煎じ方?」
長老が、深く息を吐いた。
「土でも煎じ方でもない」
長老は、館の奥を見た。
そこに、一本の古い樹が立っていた。葉を半分以上落とした痩せた樹だった。
「精霊樹だ。——里のすべての食材は、あの樹の精霊の力で育つ。だが、その力が年々弱っている。精霊が、声を失いかけているのだ」
「精霊が」
フィリアが、顔を上げた。
涙を拭いて、その精霊樹を見つめる。
それから、ゆっくりと立ち上がって、樹に近づいた。
幹に、手を当てる。
目を閉じる。
長いあいだ、フィリアは動かなかった。
やがて、その目が開いた。
「……変わって、いません」
フィリアが低く言った。
「里の景色も匂いも、二十七年前と同じ。——でも」
フィリアの声が震えた。
「精霊の声が遠くなっている。昔はもっと近くで聴こえました。今は——とても小さい。消えかけていますの」
館が、静まり返った。
里のエルフたちの顔に、初めて、別の色が浮かんだ。
冷たさでは、なく。
不安だった。
「精霊の雫果は」
マリカが口を開いた。
「あの精霊樹の奥に、あるんですのね」
「ある」
長老が、頷いた。
「精霊の泉に実っている。だが——里の宝だ。精霊が弱っている今、それをよそ者に渡すことは、できん。里の者でさえ、軽々しくは触れられぬ」
マリカが、立ち上がった。
「では、お話をしに参りますわ」
「マリカさん」
フィリアが、止めようとした。
けれどマリカは、もう長老のほうへ、足を踏み出していた。
琥珀色の目に、いつもの火が灯っていた。世界中の味を知りたがる、あの火だ。
マリカは、もう一歩、踏み出していた。
フィリアの伸ばしかけた手は、その背中に、届かなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「氷の里へ」、五つ目の食材へ向かう、その入り口の回です。
この回の主役は、フィリアです。二十七年ぶりの、帰郷。彼女は、里を出てから、ずっとフードで、エルフの耳を、隠してきました。その彼女が、里の門の前で、フードを外す。銀の髪と、尖った耳を、さらす。「ただいま、帰りました」。この一言を、書きたくて、ここまで来ました。
「壊れたエルフ」。フィリアに貼られた、烙印です。味覚魔法を暴走させて、里の精霊樹を、枯らしかけた。その罪で、追放された。長老は、彼女の師でした。追放したのではなく——止められなかった。その後悔を、二十七年、棘として、抱えてきた。「すまなかったとは言わん。言葉で消える棘ではないからな」。この長老の、不器用な誠実さが、好きです。
そして、薄い茶。マリカは、一口で、里の異変に気づきます。精霊が、声を失いかけている。フィリアが、精霊樹に手を当てて、それを、確かめる。「精霊の声が、遠くなっている」。里の問題が、ここで、明らかになります。
最後の一行。マリカの好奇心の火が、「大きな失敗を招く」。次回、この物語で、いちばん、つらい回が来ます。マリカが、初めて、本当の失敗をする回です。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、「聞いていませんでしたわね」。
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