第45話: 嵐の中の黒胡椒
砂漠は、サリムの別の顔を見せた。
頭布の下の目が、いつもの飄々とした光ではなく、鋭く地平線を読んでいた。砂の色。風の向き。空のわずかな翳り。砂漠の民の目が、戻っていた。
「黒胡椒は、嵐の谷にしか実らねえ」
サリムが砂を踏みながら言った。
「普通の場所じゃ育たねえ。砂嵐に叩かれて、それでも実をつける。だから、辛い。生き残ったものだけが持つ辛さだ」
「サリムさんに、似ていますわね」
マリカが笑った。
「砂漠で何度も飢えて、それでも生き残った。——あなたの香辛料が世界一おいしいのは、そのせいですわ」
サリムは答えなかった。
ただ、頭布の下で口元が少しだけ緩んだ。
「……そういうことは、嵐を越えてから言え」
サリムが空を見上げた。
「来るぞ。——大物だ」
砂嵐は、壁のように、来た。
地平線が、黄色く膨れ上がる。次の瞬間、それは五人を呑み込んだ。
視界が、消えた。
砂が頬を打つ。針のように細かい砂粒が、肌を、布の隙間を、容赦なく刺してくる。風が悲鳴を上げる。空も地面も同じ黄色に塗り潰されて、上と下の境目さえわからなくなった。一歩足を出すたびに、砂が足首まで沈む。沈んだ足を抜くと、また次の一歩が沈む。
息を吸えば、砂が入る。口を結べば、苦しい。
マリカは、自分が前を向いているのか後ろを向いているのかさえ、わからなくなった。
「離れるな!」
サリムが叫んだ。その声も、風に半分かき消されていた。
「手を繋げ! 砂漠ではぐれたら、死ぬぞ!」
五人は手を繋いだ。隣の者の手の温もりだけが、この黄色い渦の中で、唯一確かなものだった。
その中で、マリカの足がもつれた。
砂をかき分けて歩く。それは想像以上に、体力を奪った。マリカの息が上がる。視界が白くにじむ。あの感覚だった。
空腹の、限界。
ハングリー。
マリカの膝が折れかけた。
「——マリカ!」
ルカが気づいた。
けれど今度は、ルカより、早い者が、いた。
「嬢ちゃん」
サリムだった。
砂嵐の中で、もう腰の袋から保存食を取り出していた。干し肉と、スパイスを練り込んだ携行食。砂漠で命を繋ぐための、一切れ。
サリムは、それをマリカの口に押し込んだ。
「腹、減ったろう。——食え」
マリカは、それを噛んだ。
塩と、脂と、香辛料。砂漠の凝縮された命の味が、口の中に広がった。
鈍っていた五感が、ひとつ、ひとつ戻ってくる。視界が晴れる。足に力が入る。
「……サリムさん」
マリカが、息を整えながら言った。
「ありがとう、ございますわ」
「礼は、いい」
サリムがにやりと笑った。砂嵐の中でも、その笑みは、変わらなかった。
「——おれの飯が、美味いと言え」
「……世界一、ですわ」
マリカが笑った。
砂嵐の中で、二人は、笑っていた。
あの辺境の村で、ルカが一刻かけて作った即席スープに初めて空腹を認めた日。あれから、マリカは変わった。今は、倒れる前に仲間が支えてくれる。
ひとりの旅は、もう、終わっていた。
嵐は、なお、続いた。
サリムが先頭で道を読んだ。砂の下に埋もれた岩の道を、足の裏の感触だけで辿っていく。
その、サリムの足がもつれた。
長い行軍と、砂の重さ。砂漠の民とて無限ではない。サリムの体が傾いだ。
「——おい」
ガルムだった。
砂嵐の中で、嗅覚だけを頼りに、ガルムがサリムを見ていた。倒れかけたその体を、ひょいと背に担ぎ上げる。
「……重い」
ガルムが低く言った。
「体じゃ、ねえよ」
サリムが、ガルムの背中で掠れた声を出した。
「恩が、重いんだ。——降ろせ、馬鹿。砂漠の民が人に背負われて、どうする」
「黙って、歩け」
ガルムはサリムを背負ったまま、砂を、踏みしめた。
その背中は、揺らがなかった。
そして、フィリアが。
フードを砂から守りながら、目を閉じていた。
「……こっちです」
フィリアが低く言った。
砂嵐の轟音の中で、その声は、不思議とよく通った。
「スパイスの精霊が騒いでいます。——黒胡椒の谷は、こっち。風の向こう側」
「精霊が、見えるのか」
サリムが、ガルムの背中で驚いた声を出した。
「見えません。——でも、聴こえます」
フィリアが目を閉じたまま、指を差した。
「あなたの香辛料と同じ匂いの、もっと強いもの。土の中で嵐に耐えて、辛さを溜め込んでいる。——あの子たち、苦しんで強くなっていますの」
サリムがその言葉に、しばらく黙った。
それから、ふっと笑った。
「……エルフの嬢ちゃん。やっぱり、おれの相棒になってくれよ」
「砂漠は、寒くないですか」
フィリアが、フードの下でわずかに笑った。
砂嵐の中で、薬草使いと香辛料商人が、初めて同じ方向を指していた。
フィリアの導きが、正しかった。
風の向こう側に、谷はあった。
嵐の通り道。岩肌にしがみつくように、黒い実をつけた低い木が群れていた。
ねじれた幹。葉の少ない、痩せた枝。けれどその先に、艶やかに黒く熟した実が、鈴なりに揺れていた。砂嵐に何度も叩かれた木が、それでも実をつけている。生きることそのものに、しがみついている姿だった。
黒胡椒だった。
マリカは、一粒口に含んだ。
噛んだ瞬間、舌が焼けた。
「——っ、辛い!」
マリカが目を丸くした。
それから、その辛さの奥に何かを見つけた。
「……でも、辛いだけじゃありませんわ。奥に、甘みがある。嵐に叩かれて、それでも実をつけた——生き残った甘さ」
マリカは、サリムを振り返った。
「サリムさんと、同じ味ですわ」
サリムは、ガルムの背中から降りていた。
その黒胡椒の木を、長いあいだ見ていた。
「……ガキの頃、ここで、死にかけた」
サリムがぽつりと言った。
「腹を空かせて。水もなくて。この黒胡椒を一粒齧って、舌が焼けて。それで、生きてるって思い出した」
サリムは、黒胡椒をひと房摘んだ。
「神の食材だなんて知らなかった。——おれにとっちゃ、命を思い出させてくれた、ただの辛い実だ」
サリムが、それをルカに渡した。
「四つ目だ。——丁寧に扱ってくれよ」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「嵐の中の黒胡椒」、四つ目の神の食材の回です。サリムの、故郷の回でした。
この回で、いちばん書きたかったのは、マリカが、もう一度ハングリーになる場面です。彼女は、以前、辺境の村で、空腹に倒れました。あの時は、ルカが、たった一人で、彼女を救いました。でも今回は——倒れる前に、サリムが、保存食を差し出す。「腹減ったろう。食え」。彼女の旅は、もう、ひとりではありません。それを、いちばん過酷な砂漠で、描きたかったのです。
ガルムが、サリムを背負う場面。「重い」「体じゃねえよ。恩が重いんだ」。男二人の、不器用なやりとりが、好きです。そして、フィリアとサリム。薬草と香辛料。味のわからないフィリアが、スパイスの精霊の声を聴いて、道を示す。サリムの「相棒になってくれよ」に、フィリアは「砂漠は寒くないですか」と返す。この二人の距離が、少しずつ、縮まっています。
黒胡椒は、嵐に叩かれて、それでも実をつける。生き残ったものだけが、持つ辛さ。サリムに、よく似ています。彼にとって黒胡椒は、神の食材である前に、命を思い出させてくれた、辛い実でした。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、最後から二つ目の食材へ。エルフの、氷の里。フィリアの、二十七年ぶりの、帰郷です。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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