第44話: 深海の食卓
海鮮回廊は、海の底にあった。
崖の裂け目から、潮が引くたびに道が現れる。珊瑚が壁をなし、魚が頭上を泳いでいく。その回廊の奥に、マーフォークの集落はあった。
半身が魚で、半身が人。鱗が薄青く光る人々が、よそ者を冷たく見ていた。
「お引き取りを」
集落の主——珊瑚姫が言った。長い髪が、水を含んで銀色に揺れていた。
「深海真珠貝は、海の宝。陸の者に渡すものではありません。——海の食は、陸の者には早すぎますもの」
「あら」
マリカの目は、もう珊瑚姫の言葉を半分も聞いていなかった。
その視線は、集落の市に釘付けだった。
見たこともない魚。色とりどりの海藻。透き通った貝。湯気を立てる海の料理。陸では決してお目にかかれない未知の食材が、そこに並んでいた。
「……早すぎる?」
マリカはにっこり笑った。
「いいえ。ちょうど、いい頃合いですわ。——いただきますわね」
珊瑚姫が止める間もなかった。
マリカは、市のいちばん近い屋台に突進した。
深海魚の刺身だった。
ひと切れ、口に入れる。
「——んまぁ〜〜〜っ!!」
集落じゅうに、その声が響いた。
マーフォークたちが、ぎょっと振り返った。
「何ですの、この脂! とろっとろですわ! 深海の冷たい水でゆっくり育つから、こうなりますのね! 陸の魚には絶対に出ない味!」
マリカは、次の屋台へ走った。
珊瑚藻のサラダ。
「しゃきしゃき! でも奥に、ほのかな甘み——海水の塩だけで、こんなに!?」
また次へ。
真珠貝のスープ。
ひとくち、すすって——マリカの動きが止まった。
それから、震える声で言った。
「……この貝。口の中で、海が広がりましたわ」
マリカの目から、ひとすじ涙がこぼれた。
「海を、知りませんでしたの、わたくし。——こんなに広くて深い味だったなんて」
マーフォークたちが、その姿を見ていた。
最初は呆れていた。次に、戸惑った。そして、だんだん見入っていった。
陸の令嬢が、海の食を全身で味わっている。一口ごとに目を輝かせ、声を上げ、ときどき涙ぐむ。それは、海の食を何百年も当たり前に食べてきた彼らが、忘れていた顔だった。
はじめて海を食べた時の顔。
マリカは食べ続けた。
一日。二日。三日。
屋台という屋台を、回り尽くした。同じ料理を、何度もおかわりした。マーフォークたちは、いつのまにか、彼女に新しい料理を差し出すようになっていた。「これも、食ってみろ」「これは、どうだ」と。
マリカは、そのすべてを平らげた。そして、そのすべてに歓喜した。
三日目の夜。
珊瑚姫が、マリカの前に立った。
「あなたは」
珊瑚姫の声は、もう、冷たくなかった。
「三日のあいだ、海の食を一度も残しませんでした。一度も顔をしかめませんでした。——ずっと、笑っていましたわね」
「だって、おいしいんですもの」
マリカは、貝のスープを両手で包んで笑った。
「これだけのものを、毎日食べていらっしゃるなんて。——マーフォークの皆さんは、世界一の幸せ者ですわ」
珊瑚姫が息を呑んだ。
それから、ふと目を伏せた。
「……わたくしたちは、忘れていました」
珊瑚姫が、静かに言った。
「海の食が、特別だということを。毎日食べていると、当たり前になってしまう。——でも、あなたは三日間、ずっと特別だと言い続けた」
珊瑚姫は、顔を上げた。
「三日も、あんなに幸せそうに食べる人間を——わたくし、初めて見ました」
珊瑚姫が手を差し出した。
その手のひらに、淡く光る深海真珠貝が乗っていた。
「持って、お行きなさい。——海の宝を、あなたなら無駄にはしませんもの」
その夜、宴になった。
マーフォークの料理に、ルカが陸の技を合わせた。深海魚を、ひと手間かけて炙る。珊瑚藻に、香草をひとつまみ。海と陸が、ひとつの皿で出会った。
珊瑚姫が、その一皿を口にした。
目を見開く。
「……これは」
珊瑚姫が、ルカを見た。
「海の食を、こんなふうに活かせる料理人が陸にいたなんて。——ねえ、あなた」
珊瑚姫の銀色の目が、ルカに向いた。
「この料理人を、三日お借りできないかしら。海の食を、もっと教えてほしいの」
ルカが、口を開きかけた。
その前だった。
「お断りですわ」
マリカだった。
真顔だった。海の食に夢中だった、あの弾ける顔とは別人のような真顔だった。
「ルカは……わたくしの……」
マリカが、そこで言葉を切った。
ほんの一瞬、自分でも何を言いかけたのか、わからない顔をした。
「……わたくしたちの、料理人ですの。お貸し、できませんわ」
珊瑚姫が、きょとんとした。
それから、口元に手を当てて、くすりと笑った。
「あら。——そう。それは、失礼しました」
ルカは、海のほうを向いていた。
その耳が、薄青い光の中で、わずかに赤かった。
集落の、隅で。
珊瑚姫の侍女——メルルが、サリムに、そっと囁いた。
「ねえ。あの人間」
「ん?」
「三日間、ずっと笑っていたでしょう。海の食を、あんなに幸せそうに。——でもね」
メルルは、マリカを見た。
「料理人を、奪われそうになった、あの一瞬だけ。——いちばん怖い顔をしていたわ」
サリムが、にやりと笑った。
「……だろうな」
サリムは、深海真珠貝を布に包むマリカの背中を眺めた。
「あの嬢ちゃんは、世界中の味を知りたがってる。——だが、たった一つだけ、誰にも譲りたくないものがあるらしい」
メルルが首をかしげた。
「それ、本人は、気づいてるの?」
「いや」
サリムが、星のない海の空を見上げた。
「いちばん最後だろうな。気づくのは」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「深海の食卓」、三つ目の神の食材の回です。この章で、いちばん「楽しい」回にしたくて、書きました。
マリカのリアクションが、過去最高潮です。「んまぁ〜〜〜っ!!」「口の中で、海が広がりましたわ」。彼女は、許しも待たずに、海の食を片っ端から食べはじめます。それが、結果的に、マーフォークの心を溶かす。論破でも、交渉でもなく——ただ、本気で、幸せそうに食べる。それだけで、何百年も閉じていた海の食卓が、開きます。マリカの食は、いつも、こうやって世界と繋がってきました。
珊瑚姫の「毎日食べていると、当たり前になってしまう」。これは、海の食に限った話ではないと思います。当たり前にあるものの、ありがたさ。マリカは、それを、思い出させる人です。
そして、嫉妬ビート。珊瑚姫が「料理人をお借りしたい」と言った瞬間、マリカの顔が、変わる。「ルカは……わたくしの……」で、言葉を切る。本人にも、何を言いかけたのか、わからない。メルルの「いちばん怖い顔をしていた」が、すべてを言っています。気づくのは、いちばん最後。サリムの言う通りです。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、砂漠。サリムの故郷で、黒胡椒を探します。嵐の谷の、過酷な行軍が始まります。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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