第42話: 森の心臓茸
森の奥は、音が違った。
里を出て半日。ガルムの先導で、五人は、人の手が触れたことのない場所へ分け入っていた。
鳥の声が消えた。
代わりに木が息をしていた。葉の擦れる音。水の滴る音。苔の上を、何かが這う音。森のすべてが、低く、ゆっくりと、呼吸していた。
マリカはその音の中で、立ち止まった。
「……ガルムさん」
マリカは小さく言った。
「この森、生きていますわ」
「当たり前だ」
ガルムが前を歩きながら、答えた。
「森は生き物だ。——だが、ここまで深く入ってそれがわかる人間は、お前が初めてだ」
ガルムの声に、いつもの無愛想さはなかった。
故郷の森を歩くガルムの足取りは、軽かった。岩を越え、沢を渡り、倒木をくぐる。その背中が、水を得た魚のように生き生きとしていた。
マリカはその背中を追いながら、鼻を澄ませた。
森の、無数の匂い。土。水。腐葉。樹液。そのどれでもない奥の奥から、ひとすじ、別の匂いが流れてくる。
「……あちらですわ」
マリカが指を差した。
ガルムが足を止めた。鼻を、その方角へ向ける。
それから低く、笑った。
「……合ってる。お前の鼻も、たいしたもんだ」
谷の、いちばん奥だった。
苔むした岩の割れ目から、清水が湧いていた。その水際に、それは生えていた。
森の心臓茸。
淡い赤みを帯びた傘。柄は白く、太い。ほのかに、脈打つように光を含んでいた。生きている、と一目でわかった。
マリカはその前にしゃがんだ。
手を伸ばしかけて——止めた。
「……採っても、よろしいんですの?」
マリカはガルムを振り返った。
森の宝を、勝手に奪う気はなかった。
「ああ」
ガルムが頷いた。
「長老が、許した。——それに」
ガルムはその茸を見下ろした。
「千年茸は、一つ採っても根は残る。また千年かけて育つ。森は、それくらいじゃ減らん。——人間と、違ってな」
マリカはひとつ頷いた。
そしていちばん端の、ひとひらを、そっと、摘んだ。
茸は、抵抗なく手の中に落ちた。
ほんのりと、温かかった。
マリカはそれを口に運んだ。
生のまま、ひとかけ。
噛む。
その瞬間、マリカの動きが止まった。
舌の上で、何かがひらいた。
森のすべてが、そこにあった。湧き水の冷たさ。腐葉の深い甘み。樹液のかすかな苦み。何百年もの、雨と、日と、霧。森が千年かけて、ひとつの傘に煮詰めた味だった。
マリカの頬を、涙が伝った。
止めようとも思わなかった。
「……マリカ?」
ルカが低く言った。
マリカは答えなかった。
代わりに、もう一度その茸を見た。涙の向こうで、淡く光っていた。
「……この茸は」
マリカの声が震えた。
「森そのものですわ。——わたくし、森を食べていますの」
ルカが、隣に来た。
手の中の茸を、じっと見ている。料理人の目だった。この味を、いつか一皿にする。そのために、今、覚えようとしている顔だった。
「……どんな味だ」
ルカが、低く訊いた。
マリカは、涙の残る目で、少し考えた。それから、笑った。
「言葉にできませんわ。——だから、あなたに食べさせたいんですの」
マリカは、もうひとかけ摘んで、ルカに差し出した。
ルカは、それを、口に入れた。
噛んで——止まった。
しばらく、何も言わなかった。
「……なるほどな」
ルカが、やっと、言った。
「これは、煮ても焼いても殺しちまう。——生のまま出すしかない」
「ご名答ですわ」
マリカが、嬉しそうに、頷いた。
森が、静かに呼吸していた。
その中で、マリカは、泣きながら笑っていた。
ガルムは少し離れた場所に立っていた。
組んだ腕で、森を見渡していた。
深い緑。湧き水。苔。自分が生まれ育った森だった。
「……この森で、育った」
ガルムがぽつりと言った。
誰にともなく。
「子供の頃、ここで初めて獲物を狩った。この匂いの中で走り方を覚えた。——この匂いは、俺の匂いだ」
マリカは涙を、拭って、立ち上がった。
ガルムの横に、並ぶ。
二人で、同じ森を見た。
「ガルムさん」
マリカは、ひっそりと言った。
「あなたの里は、素敵なところですわね」
ガルムはすぐには答えなかった。
森の風が、二人の間を抜けていった。
「……ああ」
ガルムが低く言った。
たった、ひとことだった。
けれどその声には、長いあいだはぐれ者として生きてきた男が、ようやく故郷を故郷と呼べた温度があった。
森の心臓茸を、ルカが、葉に包んだ。
大事に、布の袋へしまう。生きた食材だ。鮮度を保たねばならない。
「一つ目だな」
ルカが言った。
「あと、五つ」
「ええ」
マリカはまだ潤んだ目で、笑った。
「あと、五つ。——次は、どんな味が待っていますのかしら」
森の奥から、五人は来た道を戻りはじめた。
その背中を、森が見送っていた。
ガルムの故郷が、千年茸を一つ、旅人に託していた。
また千年かけて、育てるために。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「森の心臓茸」、最初の神の食材を手に入れる回です。
この回は、静かな回にしました。前回、獣人の里で、たくさんのことが起きました。長老の絶句、ガルムの選択。その余韻を、この森の静けさで、受け止めたかったのです。
マリカが、森の心臓茸を一口食べて、泣く場面。彼女は、いつも「んまぁ!」と全身で食べる令嬢です。でも、この茸の前では、声が出ません。ただ、涙が流れる。「森を、食べていますの」。千年かけて森がひとつの傘に煮詰めた味を、彼女の舌は、そのまま受け取ってしまう。食いしん坊であることは、ときどき、こんなふうに、切ないことなのかもしれません。
そして、ガルム。「この匂いは、俺の匂いだ」。前回、頭目猟師を断った彼が、ここで初めて、故郷を、まっすぐ「俺の森だ」と言えます。マリカの「あなたの里は、素敵なところですわね」に、彼はただ「ああ」と返すだけ。でも、その一言に、彼の長い孤独が、溶けています。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、火山のドワーフ。お酒の飲めないマリカに代わって、ルカが、とんでもない飲み比べに挑みます。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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