第41話: 百年前の調理法
獣人の里は、木の上にあった。
巨大な古木の幹に、家が抱かれるように建っている。木の橋が枝から枝へ渡され、その上を毛皮の獣人たちが無言で歩いていた。
その視線がすべて、マリカたちに、注がれていた。
歓迎の目では、なかった。
「ガルム」
橋の上から、若い狼獣人が低く言った。
「人間を、連れてきたのか。——お前は、何を考えている」
「客だ」
ガルムが短く答えた。
それだけだった。けれどその一言には、譲らない重さがあった。広い背中で、四人の人間を、庇うように立っていた。
マリカはその背中の陰から、里を見上げた。
空気が張り詰めている。ひとつ間違えれば、牙が剥かれる。それくらいのことは、マリカにもわかった。
けれどマリカの鼻は、別のものを、嗅ぎ取っていた。
燻製の、匂いだ。
古い、深い、何代も受け継がれた火の匂い。里のいちばん高い木の上から、それは降りてきていた。
「……いい匂いですわ」
マリカは思わず、呟いた。
張り詰めた空気の中で、その一言だけが場違いに、温かかった。
里の長老は、古木の頂の、大きな広間にいた。
白い毛に覆われた、年老いた熊獣人だった。背はガルムより頭ひとつ高い。目だけが鋭く、こちらを射ていた。
「ガルム・バルドゥク」
長老の声は、岩が転がるように低かった。
「里を出た狼が、人間を連れて戻ったか。——何の用だ」
「森の心臓茸を」
ガルムが言った。
「いただきに来た。——里の許しがいる」
広間が、ざわめいた。
千年茸は里の宝だ。よそ者に、まして人間に渡すものではない。誰の顔にも、そう書いてあった。
長老はしばらく、ガルムを見ていた。
それから傍らの獣人に、低く、何か命じた。
やがて木の皿が、運ばれてきた。
湯気を立てる燻製肉と、根菜の蒸し焼き。里の伝統料理だった。
「人間」
長老がマリカを見た。
「食え。——お前たちが、何を連れてきたのか、私が見極める」
試されているのだと、マリカにはわかった。
わかったうえで、マリカの目は、もう皿に釘付けだった。
マリカは燻製肉を一切れ、口に入れた。
目を、閉じる。
舌の上で、味がほどけていく。燻された脂の深い甘み。塩の効かせ方。木の種類。火の温度。燻した時間。
マリカの中で、その一皿のすべてが見えた。
「……百年」
マリカは目を閉じたまま、呟いた。
「この燻し方、百年変えていませんのね。樫の木で、低い温度で、ゆっくりと。——いいえ、もっと。二百年、同じかもしれませんわ」
広間が、静まり返った。
長老の鋭い目が、わずかに、見開かれた。
「……それを、一口で、言うか」
「ええ。だって、舌が、そう言っていますもの」
マリカは目を開けた。
それからもう一口、燻製肉を味わった。
そして首を、かしげた。
「でも——もったいないですわ」
「何?」
「この肉、完璧ですの。完璧すぎて、——少しだけ、寂しいんです」
マリカは根菜の蒸し焼きに目を移した。
「百年守ってきた味ですわね。それは、すごいことですの。誰も崩さなかった。——でも、誰も、足さなかった」
マリカは長老を、まっすぐ見た。
「ここに、山椒をひとつまみ。それだけで、この燻製は、百年分先へ進みますわ」
広間が、凍りついた。
人間の小娘が、二百年の味に口を出した。
獣人たちの喉から、低い唸りが漏れた。何頭かが、腰を浮かせた。
「やめろ」
ガルムが低く言った。一歩、前に出る。
けれど長老が、片手を上げて、それを、止めた。
「……面白い」
長老の声は、静かだった。
「小娘。お前の言う、その山椒とやらで、作ってみせろ。——ただし」
長老の目が鋭く光った。
「私が認めなければ。お前たちは、二度とこの森に入れん」
「ルカ」
マリカは振り返った。
ルカはもう、腕をまくっていた。
「……山椒だな。どこにある」
「棚の、いちばん奥ですわ。匂いでわかりますの」
ルカが動いた。
里の竈を借り、燻製肉を薄く切り直す。山椒を指先でひとつまみ。炙った肉に、ふわりと振りかける。仕上げに、ほんの少し熱を入れ直す。
たったそれだけの、ことだった。
けれどその手つきには、二年の旅で磨かれた、確かさが、あった。
ルカは出来上がった一皿を、長老の前に、置いた。
「……食え、ってことらしいぞ」
ルカがぶっきらぼうに言った。
長老はその一皿を、しばらく、見ていた。
それからゆっくりと一切れ、口に運んだ。
噛む。
その大きな顎が止まった。
長い、沈黙だった。
広間の誰もが、長老の次の言葉を待っていた。ガルムも。獣人たちも。マリカも。
長老は目を閉じた。
その閉じた目の端が——わずかに濡れていた。
「……二百年だ」
長老が低く言った。
「この味を、二百年守ってきた。一族の誇りだ。崩してはならんと、教わってきた。——だが」
長老は目を開けた。
「崩すな、とは教わった。足すな、とは——誰も言わなかった」
長老はマリカを見た。
その鋭い目に、もう敵意はなかった。
「百年守った味を、一口で見抜いた上に、超えてみせるか。……人間にも、こういう者がいるのか」
マリカはにっこり笑った。
「いいえ。——食いしん坊が、いるだけですわ」
長老は低く笑った。
腹の底から、岩が転がるような笑いだった。
それからふと、その目が、ガルムへ、向いた。
笑いが、消えた。
長老の声が、不意に優しくなった。
「ガルム」
「……何だ」
「里に、残れ」
広間が、静かになった。
「お前の鼻は、里でいちばんだ。お前の牙もだ。——お前を頭目猟師にする。里の狩りのすべてを、お前に任せる」
マリカはその言葉に、息を呑んだ。
頭目猟師。それがどれほどの地位か、マリカにもわかった。獣人の里で、いちばん敬われる役目。ガルムが——人間に混じって、はぐれ者として生きてきた男が、ずっと欲しかったはずの居場所。
里がガルムを必要としていた。
ガルムがずっと、欲しかった言葉を、長老が、口にしていた。
マリカは何も言えなかった。
言うべきでは、なかった。
これは、ガルムの選択だ。
ガルムはしばらく、黙っていた。
その大きな背中が、動かなかった。
広間の燻製の匂いの中で、ガルムは、ゆっくりと口を開いた。
「……ありがたい話だ」
低い声だった。
「子供の頃から、欲しかった言葉だ。——里に要ると言われること。それが、どれだけ嬉しいか」
ガルムは一度、目を閉じた。
それから開けた。
「だが、長老。俺は——」
ガルムの視線が、ちらりと、マリカへルカへ流れた。
「もう少し、あいつらと、走る」
広間が、どよめいた。
長老の白い眉が上がった。
「……里より、人間を選ぶか」
「選ぶんじゃない」
ガルムは首を振った。
「里は、俺の血だ。あいつらは、俺の食卓だ。——どっちも、俺のものだ。どっちかを捨てる気はない」
ガルムは長老を、まっすぐ見た。
「いつか帰る。頭目猟師になるのが、それからでもいいなら。——その時は、受けるかもしれん」
長老は長いあいだ、ガルムを見ていた。
それからふっと、息を吐いた。
「……変わったな、ガルム」
長老の声に、咎める色は、なかった。
「里を出た時のお前は、何も選べなかった。今のお前は、二つとも選んでいる。——それは、強さだ」
長老は立ち上がった。
「森の心臓茸を、許す。——案内は、お前がしろ、ガルム。お前の森だ」
ガルムが深く頭を下げた。
その背中が、もう強張ってはいなかった。
森を駆ける時の、あの自由な背中に戻っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「百年前の調理法」、獣人の里の回です。
この回の主役は、マリカではなく、ガルムです。
獣人の里は、人間を拒む里。そこへ人間を連れ帰ったガルムに、里は冷たい。でも彼は、譲りません。「客だ」のたった一言で、四人を庇って立つ。彼の不器用な優しさが、いちばん出る回でした。
マリカが、二百年の味に山椒をひとつまみ足す場面。「崩すな、とは教わった。足すな、とは誰も言わなかった」——この長老の言葉が、書きたかった台詞です。伝統を守ることと、伝統を進めること。マリカの食は、いつも、その境界線の上を歩いています。
そして、長老の「里に残れ」。これは、ガルムが子供の頃からずっと欲しかった言葉です。頭目猟師。里でいちばん敬われる役目。それを、断る。「里は俺の血だ。あいつらは俺の食卓だ。どっちも俺のものだ」。彼は、どちらかを選ぶのではなく、両方を選びました。これは、はぐれ者だった彼の、いちばん大きな成長です。長老の「変わったな」が、すべてを言っています。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、ガルムの案内で、森のいちばん深い場所へ。森の心臓茸を、いただきます。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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