第39話: 大いなる宴の手がかり
冬の街に、古い書庫があった。
石造りの煤けた塔だった。南部を出て北へ三日。途中の宿場町で「古い書物ならあの塔だ」と聞いて、五人は寄り道をしていた。
マリカはその書庫の机に、一冊の本を広げていた。
サーラがくれた村の伝承の本だ。表紙は擦り切れ、紙は黄ばんで、文字の半分は消えかけている。
「読めますの、サリムさん?」
「半分はな」
サリムが頭布の下で目を細めた。本に顔を近づける。
「古い大陸語だ。商人は字が読めなきゃ騙される。砂漠の隊商で、この手の古語は嫌というほど読んだ。——だが、ところどころ見たこともない単語が混じってる」
「どんな?」
「料理の名だ。たぶんな」
サリムは指で一行をなぞった。
その横でマリカが、もぐもぐと何か食べていた。
「……嬢ちゃん。書庫で、何を食ってる」
「干し杏ですわ。南部でいただいたものですの」
「火気厳禁の前に、飲食厳禁だと思うがね」
「あら。本は汚していませんわよ」
マリカは口の端の屑を払って、本に目を戻した。
読みながら食べる。食べながら読む。マリカにとっては、どちらも同じくらい大事なことだった。
やがてサリムの指が、止まった。
「……これだ」
サリムが低く言った。
「『大いなる宴』。——全文が、ここにある」
マリカが身を乗り出した。
サリムが古語を、一行ずつ、現代の言葉に置き換えていく。
「『遠き昔、世界が一つの食卓を囲んだ夜があった』」
マリカの目が、本の文字に吸い寄せられた。
「『六つの種族がそれぞれの神の食材を持ち寄り、一人の料理人がそれを一皿に編んだ。その一皿を分け合った者たちは、二度と争わなかった』」
「……一皿で、争いが止まった?」
「そう書いてある。眉唾だがね」
サリムが肩をすくめた。けれどその目は、本から離れなかった。
「『その料理は、世界で最後の一皿と呼ばれた。六つの神の食材を、再び集めし時——大いなる宴は、よみがえる』」
書庫が、静かになった。
外で、冬の風が、塔の石壁を撫でていた。
マリカはその一文を、もう一度、自分の指でなぞった。
「六つの神の食材」
マリカの声が、わずかに震えていた。好奇心で震える声だった。
「それは、何ですの。どこにありますの」
サリムが本のページをめくった。
次の見開きに、六つの名が並んでいた。それぞれに小さな挿絵が添えられている。
「一つ目」
サリムが最初の名を読んだ。
「『森の心臓茸』。獣人の森の、最も深い場所に生える千年茸だ」
マリカの視線が、ちらりと、ガルムへ向いた。
ガルムは書庫の隅で、壁に背を預けていた。腕を組んだまま、何も言わない。けれどその耳が、わずかに、こちらを向いていた。
「二つ目。『溶岩蜜酒』。ドワーフが火山の地熱で醸す、神の酒」
「お酒——」
マリカが少しだけ、口をすぼめた。
「わたくし、お酒は飲めませんの。匂いはわかりますけれど」
「三つ目。『深海真珠貝』。マーフォークの、海鮮回廊の奥にある」
「海の貝……!」
今度はマリカの目が、輝いた。
「海の食は、まだ、ちゃんと食べたことがありませんの。んまぁ、想像しただけで——」
「四つ目」
サリムが四つ目の挿絵を見て、ふと、口元を緩めた。
「『黒胡椒』。砂漠の、嵐の谷に実る。——これは、おれの庭だ」
「サリムさんの故郷ですのね」
「ああ。砂漠なら、おれが案内する。任せておけ」
「五つ目」
サリムの指が、五つ目で、少し、止まった。
その挿絵は、雪の結晶のような白い果実だった。
「『精霊の雫果』。エルフの、氷雪の里にある」
書庫の空気が、ほんの少し、変わった。
マリカはフィリアを見た。
フィリアは書架のそばに立っていた。いつものように、フードを目深に被っている。その手が、本の背表紙に、軽く触れたまま、動かなくなっていた。
「……エルフの里」
フィリアが小さく、呟いた。
それきり、何も言わなかった。
「六つ目」
サリムが最後の名を読んだ。
「『黄金小麦』。——王都の、王立農園にある」
今度はルカの手が、止まった。
ルカは書庫の入口近くで、腕を組んで立っていた。古文書になど、興味はなさそうな顔で。けれど「王都」の二文字に、その目が、一瞬、硬くなった。
マリカはそれに気づいた。
気づいたけれど、何も言わなかった。今は、まだ。
六つの名が、本の上に、並んでいた。
森の心臓茸。溶岩蜜酒。深海真珠貝。黒胡椒。精霊の雫果。黄金小麦。
六つの種族の、六つの食卓に、散らばっている。
マリカはその六つを、長いあいだ、見ていた。
それからゆっくりと、顔を上げた。
「六つ」
マリカが言った。
「六つ揃えれば、世界で誰も食べたことがない一皿が、作れますのね」
「……理屈では、な」
サリムが本を閉じかけた。
「だが嬢ちゃん。六種族の里を、全部回るんだぞ。獣人、ドワーフ、マーフォーク、砂漠、エルフ、そして——王都。一つでも、よそ者を拒む里があれば、そこで終わりだ。これは、ちょっとした旅じゃない」
「ええ」
マリカはにっこり笑った。
「ちょっとした旅では、ありませんわ。——世界で、いちばん大きな食べ歩きですの」
サリムがその笑顔を見て、片手で顔を覆った。
「……また、その顔か」
マリカは机に、一枚の地図を広げた。
書庫の壁に掛かっていた、古い大陸地図だ。指で六つの土地を、順に押さえていく。
頭の中で、線が引かれていく。距離。季節。それぞれの里が、よそ者にどれだけ閉じているか。誰を連れて行けば、その里が心を開くか。マリカの頭脳が、いつものように回りはじめていた。
「獣人の里が、いちばん近いですわ」
マリカは地図の北東を、指で叩いた。
「それに——ガルムさんの、故郷ですもの。案内は、いちばん確かですわね」
書庫の隅で、ガルムが、組んでいた腕を、ほどいた。
「……おい」
低い声だった。
「俺は、人間を里に連れて行くとは言ってないぞ」
「あら」
マリカが首をかしげた。
「では、ガルムさんは森の心臓茸の場所をご存じですの?」
「……森の、いちばん深い場所だ。千年茸は、里の者しか知らん」
「では、ご一緒するしか、ありませんわね」
マリカは立ち上がった。
黄ばんだ本を、大事に胸に抱える。
琥珀色の目の奥で、火が灯っていた。何が起きても消えない、あの好奇心の火だ。
「ルカ、行きますわよ」
ルカがため息をついた。
「……どこへ」
「獣人の里ですわ。——ガルムさんの故郷で、千年茸を、いただきますの」
ガルムが低く、唸った。
その唸りが、嫌がっているのか、それとも、どこか照れているのか。
マリカには、わからなかった。
ただガルムが、入口へ向かって、先に歩き出したことだけは、わかった。
道案内をする者の、歩き方だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第四章「幻のレシピ」、始まりの回です。
南部編が「奪われた食を取り戻す」守りの物語だったとすれば、ここからは「まだ食べたことのない味を探しに行く」攻めの物語です。マリカの旅が、いちばん彼女らしい形——世界一大きな食べ歩き——に戻ってきました。
六つの神の食材。森の心臓茸、溶岩蜜酒、深海真珠貝、黒胡椒、精霊の雫果、黄金小麦。それぞれが、六つの種族の食卓にあります。これを集める旅は、そのまま、六つの食文化を巡る旅になります。書いている私が、いちばんわくわくしている章かもしれません。
サリムが古語を訳す場面。彼を仲間にしておいて、本当によかったと思いました。商人は、字が読めなければ騙される。彼の「読める」が、ここで効いてきます。その横でマリカが干し杏を食べているのは、まあ、彼女なので。
そして、二つの名前に、二人が反応します。「エルフの里」にフィリアが。「王都」にルカが。六つの食材集めは、同時に、仲間それぞれが「故郷と向き合う」旅でもあります。その最初の扉が、次回、開きます。ガルムの故郷——獣人の里へ。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、人間を嫌う獣人の里で、マリカが一口、伝統料理を食べます。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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