第37話: みんなの台所
ボーモンの館から戻って、いくつかの朝が過ぎた。
何かが、変わりはじめていた。
徴発官が来なくなった。毎月削られていた配給券の数が、ぴたりと止まった。連合の倉から食材を運ぶ荷馬車が、村の前を素通りしていく。
マリカは泉のほとりで、それを聞いていた。
「連合の盟主が、何も動かないんだとよ」
サリムが頭布の下で言った。村々を回って、噂を集めてきた帰りだった。
「徴発官たちが指示を待ってる。だが、館からは何も来ない。あのボーモン卿が、だぜ。二十五年、一日も手を緩めなかった男が——ぴたりと止まってる」
マリカは泉の水面を見ていた。
白い館の長い食卓を思い出した。火傷の残る手が、傷んだ粥のスプーンの上で止まっていた。
「……迷っていらっしゃるのね」
マリカは小さく言った。
「勝ったわけじゃありませんわ。あの方はまだ何も認めていませんもの。——でも、止まってくださった。それで十分ですわ」
ボーモンが止まっているあいだに、南部は動きだしていた。
マリカが教えた改良配給は、もう南部じゅうに広がっていた。連合に逆らった村が互いに食材を持ち寄り、足りないものを補い合う。ひとつの村が麦を出せば、別の村が薬草を返す。
連合の独占は、刃で壊されたのではなかった。
村々が手を繋いだ、その内側から、ひびが入っていた。
「面白いもんだな」
サリムがスパイスの小袋を弄びながら言った。
「ボーモン卿は、食を管理すれば人は従うと思ってた。だが、人は——分け合うほうを選んだ。砂漠でも言うんだがね、『水は握りしめると指の間から逃げる。掌を開くと、皆が集まる』ってな」
「それ、今お作りになりましたわね」
「……ばれたか。まあ、外れてもいないだろう?」
マリカは笑った。
その日、南部じゅうの村が、ひとつの場所に集まった。
合同の炊き出しだった。けれどあの戦場のような総力戦とは、違っていた。
十二の村が、それぞれの竈を持ち寄っていた。一つの大鍋ではない。あちこちで別々の火が燃えている。村ごとに味が違う。隣の村の鍋からいい匂いがすれば、おたまを持って味見にいく。そういう、ゆるやかな台所だった。
マリカはその真ん中に立っていた。
立っていたが——することが、なかった。
「あの、マリカ様」
ひとりの村人が、声をかけてきた。
「うちの鍋、塩加減を見ていただけますか。——いえ、やっぱりいいです。自分で決めてみます」
村人は笑って、自分の鍋に戻っていった。
別の村人が子供に芋の焼き方を教えていた。サーラが若い娘に柄杓の使い方を教えていた。深くすくっていい、と。もう、浅くすくわなくていいのだと。
マリカは指揮するつもりで来た。
けれど誰も、指揮を必要としていなかった。
「……わたくし、することがありませんわね」
マリカは手持ち無沙汰に、焼き芋を一つ取って、かじった。
その横顔が少し寂しそうで——そして、とても嬉しそうだった。
「いい顔してるな、嬢ちゃん」
サリムが隣に来た。
「自分の出番がなくなって、嬉しいって顔だ。——変な女だよ、あんたは」
「あら。だって」
マリカは焼き芋を頬張ったまま、村を見渡した。
「わたくしがいなくても、この人たちはもう食べていけますの。竈に火を入れて、塩を加減して、子供に焼き方を教えて。——それって、いちばんすごいことですわ」
マリカは目を細めた。
「飢えていた村が、自分の台所を取り戻しましたの。わたくしの仕事は、もう終わりですわ」
「終わり、ね」
サリムはにやりと笑った。
それから腰のベルトから一枚の紙切れを取り出した。古い皺だらけの紙だった。それを焚火に、ぽいと放り込んだ。
紙はぱっと燃えて、灰になった。
「……何ですの、それ」
「おれの借金の証文だよ」
サリムは燃える紙を、のんびり眺めていた。
「連合に借りがあってね。一族を食わせるために、無理な仕入れをした。その証文を、連合が握ってた。——だが徴発官が引き上げるとき、倉の帳簿ごと置いていったのさ。おれの証文も、その山の中にあった。だから、取り返して——燃やした。もう、取り立てに来る相手がいないんでね」
サリムは頭布の下で、肩をすくめた。
「おれの借金、帳消しになったぜ」
マリカはサリムを見た。
「それで——」
サリムは焼けた紙の灰を、指で払った。
それからまっすぐ、マリカを見て、言った。
「で、次はどこに行くんだ?」
マリカはぱちぱちと、目を瞬かせた。
「……次?」
「ああ」
サリムは当たり前のように言った。
「あんたといると退屈しないんでね。砂漠の保存食が、こんなに役に立つ場所は初めてだ。——借金も消えて、自由の身になった。なら、いちばん面白そうなほうについていく。それが、ナジール族の流儀ってもんだ」
「それ、本当にナジール族の流儀ですの?」
「……いや、今作った」
マリカは噴き出した。
「だが、真実だろう?」
サリムはにやりと笑った。
ガルムが少し離れた場所で、ふん、と鼻を鳴らした。フィリアが土から手を離して、静かに微笑んだ。ルカは何も言わずに、新しい鍋に火を入れていた。
五人が、四人になることは、なかった。
四人が、五人になった日だった。
「ええ」
マリカは焼き芋の最後のひと欠片を、口に入れた。
「行きましょう。——まだ食べたことのない味が、世界にはいくらでもありますもの」
日が暮れて、村々の火がひとつ、またひとつと灯っていった。
南部の夜は、もう暗くなかった。
あちこちの竈で湯気が上がっている。子供の笑い声がする。おかわりを求める声が、あちこちで重なっていた。
マリカはその火を、見ていた。
その時、サーラが一冊の古い本を持って近づいてきた。村の古い蔵から見つけたのだという。
「マリカ様。これ、読めますか。——うちの村に、ずっと伝わっている、古い話なんですが」
マリカはその本を受け取った。
黄ばんだ紙に、消えかけた文字でこう書かれていた。
——大いなる宴。六つの神の食材を集めし時、世界で最後の一皿、現れん。
マリカの目が、見開かれた。
琥珀色の目の奥で、火が灯った。あの、いつもの火だった。
「……世界で、最後の一皿」
マリカはその文字を、指でなぞった。
まだ食べたことのない味が、世界のどこかにある。
その夜、マリカの旅は、終わらなかった。
次の味へと続いていった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「みんなの台所」、南部編の、ほとんど終わりの回です。
連合は、刃で倒されませんでした。マリカが論破したわけでも、力で倒したわけでもありません。村々が、手を繋いだだけ。足りないものを、分け合っただけ。その内側から、独占が崩れていく。——力で奪われたものを、力で取り返すんじゃなくて、繋がりで溶かしていく。この物語の戦い方は、最後まで、これでした。
いちばん書きたかったのは、マリカが「することがなくなる」場面です。指揮しに来たのに、誰も指揮を必要としていない。村人が、自分の手で竈に火を入れている。——主人公の仕事は、本当は、そこで「いらなくなること」なんだと思います。彼女が去っても、村はもう、自分の台所を持っている。少し寂しくて、でも、いちばん嬉しい。そんな顔を、書きたかったんです。
サリムの借金の証文を、焚火にぽいと放り込む場面。彼の加入を、重くしたくありませんでした。彼は飄々と、当たり前みたいに「で、次はどこに行くんだ?」と言う。五人目は、こういう男がいい。
そして、最後に見つかる「大いなる宴」。マリカの旅は、まだ終わりません。次の味が、世界のどこかで、待っています。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、南部を去る日。見送る子供たちの中に、あの子がいます。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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