第36話: 精一杯の味
ボーモンはしばらく何も言わなかった。
マリカの「昨日」が、広間にまだ残っていた。
マリカは背負っていた荷を、そっと下ろした。中から、布に包んだ小さな椀を取り出す。蓋を開けると、薄い匂いが立った。決して、いい匂いではなかった。
マリカはそれを、最高級の一皿の隣に置いた。
「これも、召し上がってくださいまし」
ボーモンの目が、椀に落ちた。
中には濁った粥があった。痩せた麦と、屑野菜の切れ端が少し。半ば傷みかけて、酸い匂いがしていた。
「……これは」
「あの村の、配給食ですわ」
マリカは静かに言った。
「あなたが配給を絞った、あの村の。これが、あの子たちが毎日すすっているものですの。——わたくし、ここまで持ってまいりましたわ」
ボーモンは椀を見たまま、動かなかった。
マリカは自分でスプーンを取った。
そしてその傷みかけた粥を、一口、すすった。
まずかった。
酸い味が舌の奥を刺した。野菜は煮崩れ、麦は芯が残っている。塩も足りない。マリカの舌は、その粗さを容赦なく拾った。
けれど。
マリカの目から、涙がこぼれた。
「……おいしい、とは言えませんわ」
マリカは椀を両手で包んだ。
「傷んでいますもの。塩も足りない。作った人だって、おいしいとは思っていませんわ。——でも」
マリカは顔を上げた。涙が頬を伝っていた。
「これは、精一杯ですの。残った野菜の屑を捨てずに、少しでも腹を満たそうと。明日も生きようと。——その精一杯が、ここに入っていますわ」
マリカは隣の最高級の一皿を見た。
それから傷んだ椀を見た。
「ボーモン卿。あなたは、さっきおっしゃいましたわね。味で人は救えないと。——その通りですわ。わたくしの味覚は、人を救えませんの」
マリカは椀を、そっと卓に置いた。
「でも、食は力でもありませんの」
琥珀色の目が、まっすぐ老人を見た。
「食は——精一杯ですわ。誰かが誰かのために絞り出した、精一杯。それを力だの管理だのと呼んだ時から、あなたはいちばん大事なものを見失っていますの」
ボーモンは答えなかった。
ただその左手が、卓の上でわずかに震えていた。
いつも、袖の中に隠している左手だった。
マリカはそれに、気づいた。
「……その手」
ボーモンの肩が、こわばった。
マリカはゆっくり卓に近づいた。咎める足取りではなかった。
ボーモンはしばらく動かなかった。
それからゆっくりと、左手を袖から出した。
甲に大きな古い火傷の跡があった。引き攣れて白くなった、深い傷だった。幼い日からずっと、誰にも見せなかった手が、初めて人の前にさらされた。
「……子どもの頃の傷だ」
ボーモンの声は、低かった。
「大干ばつの年だった。三日、何も食べていなかった。焚火に焼けた芋が一つあってね。——待ちきれずに、火の中から素手で掴んだ」
ボーモンはその手を見下ろした。
「両親は、その冬に餓死した。私は生き残った。——それからずっと誓っていたよ。二度と飢えないと。誰も飢えさせないと」
広間が、静かだった。
冷めていく二つの皿の上で、沈黙が重く沈んだ。
マリカはその火傷を見ていた。
それから静かに言った。
「あなたも、飢えた子供でしたのね」
ボーモンは答えなかった。
「だから、食を管理なさった。二度とあの飢えが来ないように。倉を満たして、数えて、絞って。——あなたの計算は、たぶん正しいんですわ。あなたのおかげで死なずにすんだ人も、きっといますの」
マリカは傷んだ椀に目を落とした。
「でも、ボーモン卿」
声が優しくなった。咎める声ではなかった。
「管理された食は、おかわりが言えませんの」
ボーモンの灰色の目が揺れた。
「あなたの倉は、人を死なせませんわ。一杯は配られますもの。——でも、二杯目はありませんの。『おかわり』と言った子に、あなたの計算は『もう一杯』と答えられませんわ。足りない分を、明日に回すための計算ですから」
マリカは火傷の手を見た。
「あの日、焚火の芋を掴んだ子は——本当は『おかわり』が欲しかったんじゃありませんの。一杯ちゃんと食べて。それから『もう一杯』と、誰かに言いたかっただけ」
ボーモンの左手が握られた。
火傷の上に、深い皺が寄った。
長い、沈黙だった。
やがてボーモンが口を開いた。
「……下がりたまえ」
声は、硬かった。
けれど、いつもの刃のような細さはなかった。
マリカは傷んだ椀を卓に残したまま、荷を背負い直した。
「ええ。下がりますわ」
マリカは頭を下げた。
それから扉へ歩きかけて、立ち止まった。
「また来ますわ、ボーモン卿」
ボーモンが顔を上げた。
マリカは振り向いて笑った。涙の跡の残る顔で、いつものあの笑顔で。
「あなたが、おかわりを言える日に」
ボーモンは答えなかった。
マリカはもう一度頭を下げて、広間を出ていった。
扉の外でルカが待っていた。マリカの顔を見て、何も言わずに荷を半分持った。
広間に、ボーモンが一人、残された。
長い卓の上に二つの皿があった。
冷め切った、最高級の仔牛の煮込み。手をつけられていない。
その隣に、傷んだ薄い粥の椀。マリカのスプーンが、一口分だけ減らしていた。
ボーモンは長いあいだ、その二つを見ていた。
それから傷んだ椀に手を伸ばした。
火傷の残る左手だった。
スプーンを取り、ひとさじすくった。
口に運ぶ手が、途中で止まった。
止まったまま、ボーモンはしばらく動かなかった。
白い館の、長い食卓の上で。
生まれて初めて、その手が迷っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「精一杯の味」、ボーモン卿との対決、後編です。
マリカは、勝ちません。連合は、まだ崩れていません。配給も、すぐには戻らない。彼女はただ、傷んだ椀を一つ、卓に残して、帰っていきます。それでいいと思いました。この物語は、論破して敵を倒す話ではないんです。
マリカの武器は、最後まで「食」でした。論理ではなく、傷んだ薄い粥を、自分で一口すすって、涙する。「おいしい」とは言えない。でも「精一杯」だと言う。——力でも、管理でもなく、精一杯。それが、この物語でいちばん言いたかったことかもしれません。
ボーモン卿の左手の火傷は、ずっと隠していた設定でした。彼は、飢えた子供だったんです。焚火から芋を掴んだ。だから、二度と飢えないために、食を管理した。彼の論理は、正しいんです。間違っているのは、論理ではなく——「おかわり」を、計算から外してしまったこと。
「管理された食は、おかわりが言えませんの」。この一言を書くために、ずっと「おかわり」を積んできました。飢えた子が、初めて「おかわり」と言えた回。あの「おかわり」が、ここで、ボーモン卿の二十五年に、ぶつかります。
最後、ボーモン卿のスプーンが、途中で止まる。あの傷んだ粥を、彼が食べるかどうかは、書きませんでした。迷っている。その迷いが生まれただけで、マリカの一杯は、届いたんだと思います。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、連合に、ひびが入りはじめます。
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