第35話: 寂しい味
街道を、マリカは速足で歩いていた。
南部の村から連合の館までは二日。その二日をマリカはほとんど食べずに来た。道で会った行商の親子が痩せていたから、携行食を分けてしまった。ルカが止める間もなかった。
「昨日から、何も食ってないだろう」
うしろから、ルカが追ってきた。荷袋から干し肉を出して、突き出す。
「先に食え。倒れられちゃ困る」
「いりませんわ」
マリカは足を止めなかった。
「今、お腹を満たしたら、忘れてしまいますもの。あの村の子が、椀の底を見ていた顔を」
「……お前な」
「大丈夫ですわ。ちゃんと、後で食べますの。誰より食べる女ですのよ、わたくし」
ルカはそれ以上言わなかった。干し肉を荷袋に戻して、ただ、横を歩いた。
連合の館が、丘の上に見えてきた。白い石造りの、城のような屋敷だった。飢えた村の、どこにもない豊かさが、そこにあった。
最後の坂で、マリカの足が重くなった。視界の端が、わずかに白くにじむ。空腹の限界が近いのは、自分でわかっていた。それでも、止まらなかった。止まれば、あの村の子の顔が、遠くなる気がしたから。
門の衛兵は、マリカを止めなかった。
名を告げると、奥へ取り次がれ、すぐに通された。まるで、来ることがわかっていたかのように。
通された広間は、長い食卓だった。
その奥に、ひとりの老人が座っていた。
白髪交じりのグレーの髪を、後ろに撫でつけている。豊かな腹回り。けれど、目つきだけは鷹のように鋭かった。
「ヴィクトル・ド・ボーモン」
老人は、自分から名乗った。
「美食貴族連合の盟主だ。——よく来たね、お嬢さん。君のことは、聞いているよ」
「マリカ・ベルモントですわ」
マリカはまっすぐ立っていた。
「あなたが南部の村の配給を止めましたわね。子供たちが椀の底を見ていますの。それを——戻していただきに来ましたわ」
ボーモンは答えなかった。
代わりに傍らの給仕に、目で合図した。
給仕が皿を運んできた。マリカの前に置かれたのは、湯気を立てる一皿だった。
「まず、食べたまえ」
ボーモンが静かに言った。
「話は、それからだ」
それは見事な一皿だった。
仔牛の煮込み。葡萄酒で時間をかけて煮含めてある。添えられた根菜は、別々に火を入れて、ひとつの皿で出会わせてある。香草の使い方に、迷いがなかった。
マリカは一口、食べた。
口の中で、味がほどけた。技術は、完璧だった。素材は、最高級だった。火入れは、一分の隙もなかった。
「おいしいですわ」
マリカは正直に言った。
「ええ。本当に。技術も、素材も、申し分ありませんわ」
ボーモンがわずかに目を細めた。満足の色だった。
「だが——」
マリカはスプーンを置いた。
「寂しい味ですの」
ボーモンの目の細めが、止まった。
「……寂しい?」
「ええ」
マリカは皿を見下ろした。
「この一皿には、誰の顔も見えませんの。誰に食べさせたいか。食べたあの人がどんな顔で笑うか。——それを思って作っていませんわ。完璧に作ることだけを思って、作られていますの」
マリカは顔を上げた。
「だから、寂しいんですの。おいしいのに、ひとりぼっちの味がしますわ」
広間が、静かになった。
ボーモンはしばらくマリカを見ていた。
それから低く、笑った。
「面白い」
ボーモンは指を組んだ。
「君の舌は本物だ。それは認めよう。私が二十五年かけて集めた料理人の、誰よりも正確に味を読む。——だが、お嬢さん」
ボーモンの声が、低くなった。
「味で、人は救えない」
「……」
「いいかね。仮に私が、連合の倉をすべて開いたとする。南部の村に、食糧を好きなだけ配ったとする。——どうなると思う?」
マリカは答えなかった。
「三ヶ月だ」
ボーモンは指を一本立てた。
「三ヶ月ですべて消費される。人はあるだけ食べる。明日のことなど考えない。そして四ヶ月目に倉は空になる。——その年の収穫まで、あと半年あったとしてもだ。四ヶ月目から本物の飢饉が来る。村ひとつではない。大陸の南半分が餓える」
ボーモンの灰色の目が、マリカを射た。
「この計算は私がした。何度もした。だから私は食糧を管理する。配給を絞るのは意地悪ではない。半年先まで誰も死なせないための計算だ。——君の『おいしい一皿』に、この計算ができるかね?」
マリカは唇を結んでいた。
返せなかった。
ボーモンの言っていることには、筋が通っていた。マリカの武器は、味覚だ。人を繋ぐ一皿だ。けれど、大陸の食糧を半年先まで計算する頭は、マリカにはない。それは嘘ではなかった。
マリカが黙ったのを見て、ボーモンは、静かに続けた。
「君は若い。志は美しい。だが、美しい志で人は飢える。私は悪人ではないのだよ、お嬢さん。——私は、飢えを知る者だ」
ボーモンは組んだ指の上に、顎を乗せた。
「お嬢さんこそ、どうかね」
その声が、ふいに、刃のように細くなった。
「飢えたことが、おありかな」
それは切り札だった。
マリカにはわかった。ボーモンはこの一言で、何人もの理想家を黙らせてきたのだ。腹を空かせたことのない貴族の令嬢が、飢えた者の前で語る正義など、薄っぺらいのだと。その一言で、いつも勝ってきた。
ボーモンは勝ちを確信した目で、マリカを見ていた。
マリカは皿の上の、完璧な一皿を見下ろした。
それから静かに、口を開いた。
「……ありますわ」
ボーモンの顎が、わずかに動いた。
マリカは顔を上げた。琥珀色の目が、まっすぐ、老人を見ていた。
「昨日」
広間の空気が、止まった。
ボーモンの鷹のような目が——初めて、揺れた。
「……何?」
「昨日ですわ」
マリカはもう一度、言った。
声は、震えていなかった。
「立てなくなって運ばれたのは、ついこの間。今も昨日から何も食べていませんの。——道で会った子に、分けてしまいましたから」
マリカは一歩、食卓に近づいた。
「あなたの『飢えたことがあるか』は、わたくしには効きませんわ、ボーモン卿。——わたくし、昨日、飢えていましたもの」
ボーモンは答えなかった。
二十五年、誰も返せなかった切り札を、目の前の小さな令嬢が、たった一言で、返していた。
白い館の、長い食卓の上で。
完璧な一皿だけが、ゆっくりと、冷めていった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「寂しい味」、ついにボーモン卿との対決です。前後編の、前編にあたります。
この物語でいちばん書きたかったのが、このボーモン卿でした。彼は、ただの悪役ではありません。論理は、正しいんです。倉を全部開けば三ヶ月で消費され、四ヶ月目に飢饉が来る——これは、本当のことです。彼は飢えを知っていて、二度と飢えないために、食を管理している。「悪人ではない。飢えを知る者だ」という彼の言葉に、嘘はありません。
だから、マリカは論理では勝てません。彼女の武器は味覚で、大陸の食糧政策を半年先まで計算する頭は、彼女にはないからです。この回でマリカは、初めて「正論で追い詰められる」。それでいいと思いました。マリカは、論破して勝つ主人公ではないんです。
そして、ボーモンの切り札。「飢えたことがあるかね?」。これは、彼が二十五年、理想家を黙らせてきた一撃です。けれど、マリカは「昨日」と答える。——実は、ずっと前に仕込んでいました。少し前の「ハングリー」の回で、マリカは空腹で倒れています。彼女は、誰より食べる女なのに、子供のために自分の食を手放して、昨日も飢えていた。だから、効かないんです。
ボーモンが初めて虚を突かれる、この一瞬を書きたくて、ここまで来ました。後編で、二人の対決に決着がつきます。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、ボーモン卿の左手が、生まれて初めて、人前にさらされます。
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