第34話: この村の芋は
その村は、飢えていないように見えた。
エドモンドは村の入口で馬を止めた。
連合の報告書には、こう書いてあった。南部の一村が配給の指示に従わず勝手な真似をしている。見せしめにするべし、と。視察を申し出たとき、ボーモン卿は冷ややかに笑った。
「殿下が、わざわざ?」
わざわざ来た。
マリカを追放してから、王都の食がおかしくなった。味が落ちた。誰も理由を言えなかった。だからエドモンドは、自分の目で南部を見たかった。連合の言うことが本当に正しいのかを。
その村は、煙を上げていた。
焼ける芋の甘い匂いがした。子供が走っていた。痩せてはいる。けれど、笑っていた。
飢えた見せしめの村が、笑っている。
エドモンドには、それが理解できなかった。
村の中央に人だかりがあった。
その真ん中で、ひとりの令嬢が焼けた芋を両手で割っていた。
エドモンドの足が止まった。
栗色のウェーブヘアを後ろで一つにまとめている。琥珀色の目が、芋の湯気の向こうで火を宿していた。
マリカだった。
追放したはずの、元婚約者だった。
「これですわ——!」
マリカの声が村に響いた。
「見てくださいまし、この断面! 黄金色ですわ!」
「お嬢、また芋か」
「また、とは何ですの。これは違いますのよ。糖度が宮廷の品種の倍はありますわ。南部の土は塩で痩せていますでしょう? ですのにこの芋は、痩せた土でこそ甘くなる。逆境の芋ですの!」
「逆境の芋」
「そう。苦労した芋ほど、甘いんですの。——んまぁ——っ!」
マリカが芋を頬張って、全身で身悶えた。村人が笑った。
エドモンドは、その光景をただ見ていた。
社交界で「暴食令嬢」と嘲笑された婚約者。恥ずかしいと思っていた婚約者。その令嬢が今、飢えた村の真ん中で、誰よりも輝いていた。
エドモンドは一歩前に出た。
用意してきた言葉があった。何度も頭の中で練習してきた。君がいない王都で、私は初めて自分が何も見えていなかったことに気づいた——。
「マリカ」
マリカが振り向いた。
「あら」
琥珀色の目がエドモンドを見た。
そして、すぐに手元の芋へ戻った。
「エドモンド様。ちょうどよろしかったですわ。——これ、召し上がって」
マリカが、割った芋の半分を差し出した。
「この村の芋、おいしいですのよ。あなたの宮廷料理より」
エドモンドは芋を受け取った。
受け取ったまま、しばらく動けなかった。
あなたの宮廷料理より。
マリカは悪意で言ったのではなかった。エドモンドには、それがわかった。皮肉でも当てこすりでもない。マリカは本気で芋の話をしていた。本気でこの芋が宮廷料理よりおいしいと思っていた。
それは、どんな罵倒よりこたえた。
「マリカ。私は——」
エドモンドは口を開いた。練習してきた言葉を言おうとした。
「あ、待ってくださいまし。エドモンド様、まだ食べていませんわね? 冷めますわよ。芋は熱いうちですの」
「いや、その、私は君に——」
「ひと口。ひと口だけ召し上がって。話はそれからですわ」
エドモンドは芋を口に運んだ。
甘かった。
信じられないほど甘かった。宮廷で食べたどの菓子より、素朴で、深く、まっすぐな甘さだった。塩で痩せた土がぎりぎりで絞り出した、命の甘さだった。
味覚が鈍いことは、自分が一番よく知っていた。その鈍い舌でもわかった。
これは、宮廷料理よりおいしい。
「……おいしい」
声が漏れた。
「でしょう?」
マリカがにっこり笑った。その笑顔には勝ち誇りも皮肉もなかった。ただ、おいしいものを分け合えた嬉しさだけがあった。
「この甘さ、わかってくださいます? エドモンド様、案外、見込みがありますわ」
「……見込み」
「ええ。宮廷の方は、たいてい『ふん、芋か』とおっしゃいますもの。あなたは『おいしい』とおっしゃった。それだけで、上等ですわ」
エドモンドは悟った。
この令嬢は、私を恨んでいない。憎んでもいない。——気にもしていない。追放したことも、婚約破棄も、エドモンドという存在そのものも、マリカにとってはもう、芋一つほどの重さもないのだ。
それが、いっそ清々しかった。
その時、背後から声がした。
「これは、これは。ルカ殿ではありませんか」
エドモンドの随行に、ひとり連合の料理人がいた。ボーモン卿が「ついでに南部の食を見てこい」と寄越した男だ。その男が、村の竈の前にいるルカへ近づいていた。
「元宮廷料理長が、こんな辺鄙な村で鍋を振っておられるとは。——どうです。宮廷に戻る気はありませんか。ボーモン卿の口利きがあれば、すぐにでも」
ルカがお玉を握る手を止めた。
ルカが口を開きかけた、その前だった。
「お断りですわ」
マリカだった。真顔だった。芋を食べていた時の、あの弾けるような顔とは別人のような真顔だった。
料理人がきょとんとした。
「……は? いえ、私はルカ殿に——」
「お断りですわ。ルカは、わたくしの——」
マリカが、そこで言葉を切った。
ほんの一瞬、自分でも何を言いかけたのかわからない顔をした。
「——わたくしたちの料理人ですの。宮廷にはお返ししませんわ」
ルカが、横から低く言った。
「……俺に聞けよ」
「あら」
マリカが首をかしげた。
「言いましたけど? お断りですって」
「お前が言ったんだろうが」
「あなたも、お断りでしょう?」
「……まあな」
「ほら、ご覧なさい。お断りですわ」
「……いや、なんで二回言うんだよ」
ルカが顔を背けた。火のほうへ。その耳が、わずかに赤かった。
エドモンドの隣で、大きな獣人が——ガルムという名だったか——鼻を、ふん、と鳴らした。何も言わずに。ただ二人を見て、少し離れた場所へ座り直した。
エドモンドには、何が起きたのか半分もわからなかった。
ただ、ひとつだけわかったことがあった。
ルカももう、宮廷には戻らない。エドモンドが失った料理人は、エドモンドの手の届かない場所で帰る場所を見つけていた。
日が傾いた。
エドモンドは村のはずれで、ひとり立っていた。
視察は終わった。連合の報告書は嘘だった。この村は見せしめになどなっていない。むしろ笑っていた。連合が配給を止めて飢えさせようとした村が、芋を焼いて笑っていた。
エドモンドは王都で、何も見えていなかった。
いや——王都だけではない。
マリカを見ていなかった。婚約していた何年もの間、一度も。「暴食令嬢」という社交界の値札しか見ていなかった。その値札の裏に、こんな——世界を変える力があったことを。
マリカは、エドモンドを必要としていなかった。
それは、わかった。最初からわかっていた。
けれど。
「私にも」
エドモンドは誰にともなく呟いた。
「私にも、私なりのやり方があるはずだ」
マリカのようにはなれない。天才にはなれない。
けれど王都に戻って、できることがある。報告書が嘘だと王に伝えること。南部で何が起きているかを自分の口で報告すること。ボーモン卿の言いなりをやめること。——たった一歩でも。
エドモンドは、芋の最後のひと欠片を口に入れた。
甘かった。
その甘さを、忘れないようにした。これが、自分の守るべきものの味だと。
村の中央で、マリカの笑い声がまた響いた。新しい芋を見つけたらしい。
「サリムさん、これ! この芋、皮が紫ですわ!」
「……嬢ちゃん。芋はもういい。日が暮れる」
エドモンドは、振り返らずに馬に乗った。
追放した令嬢はもう、エドモンドを見ていなかった。
それでいい、と思った。
彼女が振り返らない国を、自分が守ればいい。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「この村の芋は」、エドモンドの回です。
ずっと書きたかった「天然ざまぁ」の回でした。エドモンドは、謝罪の言葉を用意して、南部まで来ます。けれどマリカは、芋の話しかしない。「あなたの宮廷料理より、おいしいですのよ」——これを、悪意ゼロで、本気で言う。皮肉なら、まだ救いがあります。本気だから、いちばんこたえる。
大事にしたのは、エドモンドを嫌いにさせないことです。彼は小物ではありません。「普通の人」です。天才を理解できなかった凡人。でも、芋を一口食べて「おいしい」と認められる正直さがある。マリカの代わりにはなれないけれど、「彼女が振り返らない国を守る」という、凡人なりの誠実さに辿り着く。読者に「ざまぁwww」と笑ってもらいつつ、「でも、この人も嫌いになれないな」と思ってもらえたら、大成功です。
マリカが「ルカは、わたくしの——」で言葉を切る場面。本人にも、何を言いかけたのか、わからない。たぶん、いちばん最後に気づくのは、マリカ自身です。ルカの赤い耳と、ガルムの鼻だけが、先に知っています。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、奪う側の、本当の顔と向き合います。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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