第33話: おかわり
朝、村の中央にいちばん大きな火が入った。
大鍋が三つ。どれも湯気を噴いている。ガルムが谷の奥から担いできた獣肉。サリムの保存食。フィリアの薬草と野草。隣村が運んできた麦。種族も産地もばらばらの食材が、ルカの手でひとつの鍋に集まっていく。
マリカは、その真ん中に立っていた。
指揮はもう、いらなかった。誰に何をさせるかは、昨日のうちに決めてある。今日はただ、皆が動いていた。
村人が薪を運ぶ。隣村の人が麦を割る。サリムが香辛料を計る。フィリアが薬草を刻む。ガルムが骨を割る。サーラは、自分の大鍋を磨いていた。
その中央で、ルカが鍋をかき混ぜていた。
ルカの背中を、マリカは見ていた。
二年前まで貴族の厨房で一人だった男が、今、村ぜんぶの手の真ん中にいる。獣肉の脂を回し、薬草を入れる頃合いを計り、麦を落とす一瞬を見極める。雑多な食材が、ルカの手を通ってひとつの味になっていく。
鍋が、満ちていった。
昼前、最初の鍋が煮上がった。
ルカが、お玉で味を見た。
それから、何も言わずに頷いた。
その瞬間だった。
大鍋の上に、淡い金色の光が灯った。
ゆらり、と。湯気の中に、金の粉をまいたように。
村人が、息を呑んだ。隣村の人も、手を止めた。
「……これは」
サーラが、呟いた。
マリカは、その光を見上げていた。
辺境の村で、ルカのポトフに灯った日。アペティアの屋台で、種族を超えた一皿に灯った日。マリカは、この光を何度も見てきた。
けれど、これは、大きかった。
飢えた村ぜんぶの、生きたいという想い。隣村の、恩返しの想い。二年ぶりに料理人へ戻った男の、想い。それが全部、ひとつの鍋に集まって——金色に灯っていた。
フィリアが、土から手を離して立ち上がった。
頬が、濡れていた。
「……聴こえます」
フィリアが、低く言った。
「これだけの想いがひとつになる声を、わたし、初めて聴きました。——温かい、なんてものじゃ、ありません」
「……砂漠じゃ、こんな光は見たことねえ」
サリムが、頭布の下で呟いた。
「飯が、光るのか。——おれは今、何を見てるんだ」
マリカは、その金色の光の下で笑った。
「いただきましょう。——村ぜんぶで」
配給の列が、できた。
いつもの列だった。痩せた人々。空の椀。けれど、列の先に待っているのは、薄い粥ではなかった。
サーラが柄杓を握っていた。
十五年、底まで浅くすくってきた手だ。深くすくえば、後ろの誰かの分がなくなる。だから、いつも、浅く。
今日は、違った。
サーラの柄杓が、鍋の底まで沈んだ。深く。たっぷりと。それを椀に、なみなみと注ぐ。
サーラの手が、震えていた。
一人、また一人と、村人が椀を受け取っていく。両手で包んで、一口すすって、それから動きが止まる。
「……肉だ」
ひとりの男が、椀の中を見つめて、掠れた声を出した。
「肉が、入ってる。——半年ぶりだ」
その椀の中の肉は、ガルムが谷の奥から担いできたものだ。
ガルムは、列の端でそれを見ていた。
「……食ってる」
低く、誰にともなく呟いた。
「全員、食ってる。——いい狩りだった」
あちこちで、同じことが起きた。
誰も、騒がなかった。ただ椀を抱えて、静かに泣いていた。
マリカは、その列のいちばん後ろを見ていた。
小さな男の子が、並んでいた。ミカだ。痩せた足で、空の椀を両手で抱えている。
ミカの番が、きた。
サーラが、椀にたっぷりと注いだ。
ミカは、それを一気にすすった。あっという間に、飲み干した。空っぽの椀を両手で抱えたまま、ミカは鍋のほうを見た。
それから、俯いた。
マリカには、その俯きの意味がわかった。
ミカは知っている。一杯だけだと。おかわりなんて、この村にはなかった。だから、空の椀を抱えて俯く。もう一杯ほしいと言ってはいけないと、この小さな子はもう知っている。
マリカは、ミカの前にしゃがんだ。
「ミカ」
ミカが顔を上げた。怒られると思った顔だった。
「おかわり、ありますわよ」
ミカの目が、見開かれた。
「……おかわり?」
「ええ」
「……おかわり、いいの?」
ミカの声が、震えていた。
マリカは笑った。笑いながら、ミカの空の椀を両手で受け取った。
「いいんですの。いくらでも。——今日は、いくらでも、ありますわ」
ミカが、マリカの顔を見た。
それから、その小さな顔が、くしゃっと崩れた。
「……おかわり!」
ミカが、叫んだ。
飢えていた村に、初めて、その声が響いた。
「おかわり! おかわり、ください!」
「ええ。何度でも、ありますわ」
マリカの声が、震えていた。
その声が、村じゅうに、広がった。
子供が叫んだ。母親が叫んだ。年寄りが、掠れた声で叫んだ。
「おかわり!」
「こっちも、おかわり!」
「うちの子にも、もう一杯!」
「ばあちゃん、おかわりだって。おかわり、いいんだって!」
「……ああ。いいんだよ。今日は、いいんだ」
「もう一杯、いいかい」
「おかわり……ありがとう、ありがとう……」
「おっちゃん、泣いてるの?」
「泣いてねえよ。——おかわりだ」
飢えを知る村の、いちばん遠かった一言が、今、あちこちで重なっていた。
配給の列が、崩れた。崩れて、笑い声と泣き声の渦になった。
サーラの柄杓が、止まらなかった。深く、深く、鍋の底をすくっては椀に注ぐ。何度も。何度も。
サーラの頬を、涙が流れていた。
「……十五年」
サーラが、誰にともなく呟いた。柄杓を動かしながら。
「十五年、わたしは、鍋の底ばかり、見てきた。底が見えないように、浅く、浅く。——今日は、底が、見えない」
マリカは、ミカの椀に二杯目を注いだ。
注ぎながら、口角を上げようとした。いつもの暴走令嬢の笑みを、作ろうとした。
作れなかった。
代わりに、目の縁から、熱いものがこぼれた。
「マリカ」
うしろで、ルカの声がした。
ルカは、鍋の前でお玉を握ったまま、こちらを見ていなかった。火のほうを向いていた。
「……泣くなら、裏行け」
「泣いていませんわ」
マリカは、ミカの椀を両手で差し出した。
声が、震えていた。指も、震えていた。
「泣いて、いませんわ」
ルカは、何も言わなかった。
言わずに、鍋の薪を、もう一本火にくべた。その耳が、わずかに赤かった。
金色の光が、三つの大鍋の上で、ゆらゆらと揺れていた。
その下で、村ぜんぶが、泣きながら笑いながら、おかわりを求めていた。
ひとりの老婆が、マリカの手を、両手で握った。節くれだった、冷たい手だった。
「あんた。——あんたが、来てくれなかったら」
「いいえ」
マリカは、首を振った。
「来たのは、わたくしだけじゃありませんわ。あなたたちが、生きていてくださった。底まで浅くすくう一杯を、十五年、受け取り続けて。——だから、今日が、来たんですの」
老婆は、マリカの手を握ったまま、何度も頷いた。言葉は、もう出てこないようだった。
日が傾く頃、鍋が空になった。
百十二人が、腹いっぱい食べた。隣村の人も、五人も、サーラも食べた。誰一人、一杯だけで終わらなかった。
ミカが、マリカの服の裾を引いた。
腹がふくれて、眠そうな顔をしていた。
「ねえ。明日も、おかわり、ある?」
マリカは、しゃがんで、ミカの目を見た。
明日のことは、わからない。連合が、また何かを仕掛けてくる。土は、まだ塩を抜いていない。楽な道ではない。
それでも、マリカは笑った。
「ありますわ」
迷いのない声だった。
「何度でも。あなたが、おかわりと言える村に、しますもの。——わたくしが、約束しますわ」
ミカが、にっこり笑って、母親のところへ走っていった。
母親が、ミカを抱き上げた。それから、マリカに向かって、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。この子が、こんなに笑うのを、久しぶりに見ました」
その先は、言葉にならなかった。
マリカは、ただ首を振った。お礼を言われるのは、得意ではないのだ。
その背中を、マリカは見送った。
走れるだけの力が、あの足に戻っていた。
冬の夕日が、空になった三つの鍋を赤く染めていた。
その鍋の底に、もう金色の光はなかった。
けれど、村じゅうの満ちた腹の中に、その温かさは、確かに残っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「おかわり」。この回を、ずっと書きたくて、ここまで来ました。
飢えていた村が、生まれて初めて「おかわり」と言える日。たったそれだけの話です。でも、たったそれだけのことが、どれだけ遠かったか。配給の券は毎月減って、サーラさんは鍋の底が見えないように浅くすくって、子供たちは「一杯だけ」を覚えてしまっていた。その村に、「おかわり、ありますわよ」の一言が響く。
ミカの「……おかわり、いいの?」は、書いていて、いちばん泣きました。おかわりをしていいかどうか、子供が確かめなければならない——その小ささが、飢えのいちばん残酷なところだと思います。
実は、この「おかわり!」は、ずっと前から仕込んでいました。旅の初め、辺境の村で、子供たちが焼いた芋を頬張って「おかわり!」と叫んだ場面があります。あの子たちと、南部のミカが、別の土地で、同じ言葉を叫ぶ。マリカの旅は、行く先々で、「おかわり」の言える食卓を増やしていく旅なんです。
ルカの「泣くなら裏行け」は、彼にできる精一杯の優しさです。マリカの涙を、ルカは見ません。見たら、止まらなくなるから。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、奪う側が、本当の顔を見せます。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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