第31話: 土地が泣いている
土が、泣いていた。
フィリアには、その声が聴こえた。
味のわからないエルフが、味の代わりに手に入れたただひとつの力。食材の声を聴く力は、いつもなら生きる喜びを伝えてくる。掘りたての芋の弾むような声。実りかけた麦の、満ちていく声。
けれど、この南部の土の声は、違った。
痛みだった。土そのものが、低く長く、痛みの声をあげていた。
フィリアは凍った畑の畦を歩きながら、その声をたどっていた。痛みは、村の北へ行くほど強くなる。声の源が、その方角にある。
「フィリアさん。無理をするな」
うしろで、マリカが言った。いつもの暴走令嬢の声ではなく、案じる声だった。
「あなた、さっきから顔が白いですわ」
「……平気です」
フィリアは、そう答えた。けれど、本当は平気ではなかった。
土の声をたどるたび、その痛みがフィリアの身体に流れ込んでくる。指先から、腕から、胸の奥へ。土地が傷つけられた場所に手を当てると、まるで自分の根が断たれたような、冷たい痛みが走る。
食材の声は、喜びだった。
土地の声は、痛みそのものだった。
こんな聴き方は、初めてだった。フィリアの力が、知らないうちに一段、深いところへ降りていた。
村の北のはずれに、泉があった。
石を組んだ古い泉だ。ここから引いた水路が、村じゅうの畑へ血管のように伸びている。かつては、この水が南部の麦を実らせていた。
今、泉のまわりだけ土の痛みが悲鳴に変わっていた。
フィリアは、泉の縁に膝をついた。手のひらを、水に浸す。
目を、閉じた。
冷たい水が、手のひらからフィリアの中へ流れ込んでくる。その水が何を抱えているのかを、フィリアは聴いた。
塩だった。
「……塩です」
フィリアの声が、震えた。
「この水に、塩が溶かされています。少しずつ。何年もかけて。——畑は、この水で殺されていました」
マリカが、フィリアの隣にしゃがんだ。水を一滴、指先に取って舐める。
「……ほんのわずか。舐めても、塩辛いとは気づかないほどの濃さですわ。でも、毎日この水を畑に流せば」
「根が塩を吸って、枯れます」
フィリアは、水から手を引いた。手のひらが、かじかんでいた。塩に焼かれた土の痛みが、まだ指の先に残っている。
「土は、一度塩を吸うと何年も抜けません。畑が枯れたのは、貧しさでも天候でもない。——この泉に、塩を混ぜた人がいます」
マリカの琥珀色の目が、すうっと細められた。
「人を殺すのに、刃はいらない。三日、飯を抜かせればいい。——畑を殺すのにも、刃はいりませんのね。塩を、ひとつまみずつ」
フィリアは、もう一度、目を閉じた。
泉の痛みの、その奥。遠く、もっと遠くから、同じ痛みがいくつも響いてくる。北の村。東の村。南の、もっと先の村。
「……ここだけ、じゃありません」
フィリアは低く言った。
「同じ痛みが、いくつも聴こえます。十二——いえ、もっと。南部の村が、ひとつずつ、同じやり方で殺されています」
ルカが、拳を握った。子爵の食糧庫で見た、十二の村の台帳。その数字が、フィリアの聴いた痛みと、ひとつに重なった。
「見せてくれ、エルフの嬢ちゃん」
声をあげたのは、サリムだった。
泉の縁に膝をつき、水を手のひらにすくう。匂いを嗅ぎ、舌に乗せ、目を細めた。
「……間違いない。塩害だ。砂漠じゃ珍しくもない手口さ。敵の井戸に塩を投げ込めば、その土地は何十年も作物が育たなくなる。——昔から、いちばん静かで残酷なやり方だよ」
サリムの声から、いつもの軽さが消えていた。
「砂漠でな、塩に殺された土地をいくつも見てきた。そういう土地に、人は二度と戻らない」
「……戻せます」
フィリアが、低く言った。
サリムが、顔を上げた。
「戻せる、だと?」
「塩は、抜けます。時間はかかります。でも——」
フィリアは、ローブの内ポケットから一束の薬草を取り出した。傷んだ土から掘り起こした、根の生きた薬草だ。
「この子は、塩を好みます。塩のある土でこそ育ち、根に塩を抱え込む。畑に植えて、育てて、抜いて、また植える。それを繰り返せば、この子たちが土の塩を少しずつ吸い出してくれます」
サリムの目が、見開かれた。それから、その口元にゆっくりと笑みが広がった。
「……塩を吸う草、か。砂漠にも似たやつがある。だが、おれはそれを『邪魔な雑草』だと思ってた。——抜いて、捨ててた」
「捨てないでください」
フィリアは、まっすぐサリムを見た。
「この子たちは、土の傷を肩代わりしてくれます。塩を抱えて枯れて、それでも次の春に、また芽を出す。——わたしと同じです。欠けたものを、別のものに変えて生きる」
サリムは、しばらくフィリアを見ていた。
それから、自分のベルトの小袋をいくつか開けた。
「おれの香辛料に、根の塩抜きを早めるやつがある。砂漠で、塩漬け肉の塩を抜くのに使う。——草と合わせてみるか。エルフの薬草と、砂漠の香辛料で」
「はい」
フィリアの口元が、ほんの少しだけゆるんだ。
味のわからないエルフと、砂漠の商人。掘り起こした塩好きの薬草と、塩を抜く香辛料。二つの知識が、泉の縁でひとつに噛み合った。
その日のうちに、最初の解毒茶ができた。
塩好きの薬草を煮出し、サリムの香辛料を加えた淡い緑色の茶だった。塩で弱った身体から、余分な塩を流し出し、渇いた内臓を潤す。フィリアの薬草学と、サリムの砂漠の知恵が合わさった一杯だった。
村には、塩の水で身体を壊した者が多かった。畑の水を飲み、塩で水ぶくれを起こし、力の出ない者たち。配給の薄い粥より先に、この人たちには解毒の茶が要る。
サーラが、その茶を村人に配って回った。
ひとりの老婆が、震える手で茶を受け取った。一口すすって、長い息を吐いた。
「……身体の中の重たいものが、抜けていくようだ」
フィリアは、その様子を見ていた。
味は、わからない。けれど、老婆の顔から、むくみが引いていくのが見えた。塩に重くなっていた身体が、軽くなっていく。それは、フィリアにもはっきりと見えた。
「フィリアさん」
マリカが、隣に立った。
「あなた、自分が泣いていることに気づいていますの?」
フィリアは、頬に手を当てた。
濡れていた。いつのまにか、涙がこぼれていた。
「……土地の痛みが、流れ込んできたんです。今朝から、ずっと。それが、今——」
フィリアは、解毒茶を飲む村人たちを見た。
「少しだけ、抜けていきました。土地の痛みと、一緒に」
マリカは、何も言わなかった。
言わずに、フィリアの肩にそっと手を置いた。
夕暮れ、五人は泉のほとりに集まっていた。
フィリアが掘った試しの一畝に、塩好きの薬草が植えられていた。小さな、頼りない緑だった。これが育って塩を吸い、抜かれて、また植えられる。そうして何年もかけて、この土地は少しずつ塩を抜いていく。
気の遠くなるような、時間だった。
「……二年だ」
ガルムが低く言った。鼻を、北の子爵の館の方角へ向けている。
「あいつらは、あと二年で南部を配給だけで回すつもりだ。土が塩を抜くより、連合が南部を呑み込むほうが早い」
土地は、戻せる。けれど、間に合うかどうかは、別の話だった。
マリカが、立ち上がった。
その琥珀色の目に、火が灯っていた。今度の火は、低く燃えるあの怒りの火ではなかった。もっと熱い。前へ進む火だった。
「なら、急ぎますわ」
マリカは、植えたばかりの薬草の小さな緑を見下ろした。
「この子たちが塩を抜くのを、二年も待ちませんわ。連合が南部を呑み込む前に、南部に食を取り戻しますわ。——明日から、反撃ですわ」
フィリアは、その横顔を見上げた。
味のわからない自分が聴いた、土地の痛み。その痛みを、マリカは前へ進む力に変えていた。
泉の水面に、夕日が落ちて赤く揺れていた。
その水の底で、塩がまだ静かに溶けていた。
けれど、岸辺の小さな緑は、その塩を吸うために根を伸ばし始めていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「土地が泣いている」、フィリアの回です。
フィリアの「食材の声を聴く」力に、新しい段階を与えました。食材の声は、生きる喜び。けれど、傷つけられた土地の声は、痛みそのものです。その痛みが、フィリア自身の身体に流れ込む。味のわからないエルフが、味の代わりに、土地の痛みまで引き受けてしまう——この苦しさは、彼女にしか書けないものでした。
畑を殺した手口を「塩」にしたのは、現実の塩害から借りました。敵の土地に塩を撒いて作物を育たなくする——古代から続く、いちばん静かで残酷なやり方です。刃を使わずに土地を殺す。マリカが「畑を殺すのにも刃はいらない」と気づく場面は、EP24でサリムが語った「人を殺すのに刃はいらない」と、対になっています。
そして、塩を吸う薬草。「欠けたものを別のものに変えて生きる、わたしと同じ」とフィリアが言うとき、この子は、自分の人生を、草に重ねています。塩を抱えて枯れて、それでも芽を出す。フィリアの再生の物語が、土地の再生と、ひとつに重なりました。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、反撃が始まります。
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