第30話: 晩餐会の裏側
厨房に、捨てられる食材の匂いが満ちていた。
ルカは、その匂いだけで、胃の底が冷えるのを感じた。
南部の連合貴族、ロデス子爵の館。今夜、ここで晩餐会が開かれる。十五品のコース。客は二十人。そのために、厨房には、村ひとつが半月暮らせるだけの食材が積まれていた。
ルカは、雇われ料理人として、その厨房の隅に立っていた。
潜入の段取りは、マリカが組んだ。子爵の晩餐に臨時の手が要ると聞きつけ、屋台街で世話になった料理人の伝手をたどって、前日に厨房へ口を利いてもらった。晩餐前夜の厨房は、人手が足りない。腕さえ見せれば、よそ者の素性まで確かめている暇はない。ただ、名前だけは伏せてある。
「お前」
料理長らしき男が、ルカに顎をしゃくった。
「下処理だ。そこの仔牛、筋を引け。手際を見せてみろ」
ルカは、無言で包丁を取った。
左手で柄を握る。九歳の夏についた火傷が、刃の重さを覚えている。ルカの手は迷わなかった。仔牛の筋を薄く、正確に引いていく。料理長の目が、わずかに見開かれた。
「……腕は、本物か」
ルカは答えなかった。
答えれば、声で何かを悟られる気がした。ここは、二年前に自分を追い出した世界の、別の入口だった。
厨房は、戦場のように回っていた。
ルカは下処理から、いつのまにか火場へ回されていた。腕がいい、というだけで、人はどんどん仕事を寄越す。宮廷の厨房と、同じだった。
ルカの目の前を、料理が流れていく。
仔牛のロースト。鴨のコンフィ。白身魚のムース。蜂蜜と木の実の焼き菓子。どれも、贅を尽くしていた。皿の縁には、金箔が散らされている。
そして、その何倍もの食材が、捨てられていた。
形の悪い仔牛の端は、ごみ箱へ。火の通りすぎた鴨は、犬用の桶へ。味見に一口だけ切り取られた焼き菓子の、残りの全部が、屑籠へ。
ルカは、屑籠を、見ていた。
あの村では、サーラが、薄い粥の鍋を、底まで浅くすくっていた。深くすくえば、列の後ろの誰かの分がなくなる。子供が、空の椀を、両手で抱えていた。
ここでは、同じ食材が、味見の一口で、捨てられていく。
ルカの手が、一瞬、止まった。
「おい、手が止まってるぞ」
「……すまない」
ルカは手を動かした。動かしながら、屑籠の中の火の通りすぎた鴨を見ないようにした。
見れば、口に出してしまいそうだった。
「なあ、あんた」
隣の若い料理人が、手を動かしながら言った。
「どこかで見た顔だな。宮廷の品評会か、どっかで——」
「人違いだ」
ルカは短く答えた。それ以上は、口を開かなかった。
若い料理人は首をかしげたが、すぐに自分の手元へ戻った。厨房は忙しすぎて、よそ者の顔を覚えている暇などない。それでも、ルカの背に、冷たい汗がにじんだ。ここは、いつ正体が露れてもおかしくない場所だった。
仔牛の塊を取りに、ルカは食糧庫へ入った。
石造りの、ひんやりした部屋だった。天井まで、食材が積まれている。麦の袋。干し肉。チーズ。香辛料の壺。村ひとつが、冬を越せるだけの量だった。
ルカは、麦の袋の一つに、目を留めた。
袋の口から、麦が少しこぼれている。ルカは、その粒を、指でつまんだ。
痩せた、去年の収穫分の麦だった。粒が小さい。育つ途中で水が足りなかった麦だ。
ルカは、その麦を知っていた。
あの村の、配給の薄い粥に浮いていた麦。マリカが一口で「去年の収穫分。粒が痩せている」と読んだ、あの麦だった。村から奪われた麦が、ここに、袋ごと積まれている。村が薄い粥をすするあいだ、その村の麦は、子爵の食糧庫で、眠っていた。
ルカは、麦の粒を、握りしめた。
「——ロデス様への報告だ。今月の南部の納め、滞りなし」
声がした。
ルカは、食糧庫の棚の陰に、身を引いた。
扉の向こう、廊下を、男が通っていく。上等な外套。肥えた足取り。徴発官のドランだった。あの村で、マリカに「食は身分で決まる」と説いた男だ。
ドランの手に、革表紙の帳簿があった。
「南部の十二の村、すべて納期どおり。配給の券は、来月さらに減らす。畑の枯れ具合も計画どおり——あと二年で、南部は連合の配給だけで回ります」
「結構」
別の声が答えた。低く、肥えた、満足げな声。ロデス子爵だろう。
「ボーモン卿もお喜びになる。南部が連合だけを頼るようになれば、この大地は永遠に連合のものだ。——畑は、生かすな。生きた畑は、いつか人を連合から離れさせる」
「承知しております」
ドランの声が、廊下に響いた。帳簿のページを、めくる音がした。
ルカは、棚の陰から、その帳簿を見た。
数字が、並んでいた。村の名と、奪った麦の量と、減らした配給券の数。十二の村が、几帳面な字で、管理されていた。
あの村も、その中の一行だった。
ルカは、帳簿の文字を、頭に焼きつけた。字を読むのは得意ではない。けれど、村の名と数字の並びだけは、料理の手順を覚えるように、覚えた。
これが、証拠だった。
南部の食が、どこへ消えるのか。誰が、何のために、畑を枯らすのか。その答えが、一冊の帳簿に、几帳面に書かれていた。
ドランの足音が、遠ざかった。
ルカは、食糧庫を出た。仔牛の塊を抱えて、何食わぬ顔で、厨房へ戻る。
戻った厨房で、最後のコースが、仕上げに入っていた。
十五品目。砂糖を飴細工に引いた、塔のような菓子だった。料理長が、その天辺に、最後の金箔を、一枚、載せた。
二十人の客のために、村ひとつ分の食材を使った晩餐の、最後の一皿。
ルカは、それを見ていた。
宮廷にいた頃、ルカも、こういう一皿を作っていた。見た目の美しさを、味より優先した一皿。貴族が「美しい」と言い、誰も泣かず、誰も笑わず、半分残されて下げられていく一皿。
あのころのルカは、それを「料理」だと思っていた。
「……俺がかつて作っていた料理は」
ルカの口から、声が漏れた。誰にも聞こえない、低い声だった。
「こういう奴らのために、あったのか」
飴細工の塔が、燭台の光を受けて、きらきらと光っていた。
その光が、ルカには、ひどく、空々しく見えた。
あの村で、ルカが乾いた豆と骨で作った、名前もない一皿。村人が、すすり泣きながら食べた、あの一杯。どちらが「料理」なのか、二年前のルカには、分からなかった。
今は、分かる。
ルカは、火場の鍋を、見た。鍋の底に、晩餐で使い切れなかった出汁が、まだ残っていた。捨てられる出汁だった。
ルカの手が、その鍋に伸びかけた。
あいつが——。
そこまで口に出かかって、ルカは、飲み込んだ。
あいつが、と、何を言おうとしたのか。——あいつが腹を空かせているのに。あいつが、この出汁を見たら、目を輝かせるのに。
あの令嬢の顔が、なぜか、頭に浮かんだ。
ルカは、鍋から手を引いた。引いて、その出汁の鍋を、こっそり、火から下ろした。捨てさせない。それだけは、しなかった。
厨房の隅で、ルカは、もう一度、頭の中の帳簿の数字を、確かめた。
十二の村。奪われた麦。枯らされた畑。
持って帰る。マリカのところへ。
飴細工の塔が、客の待つ大広間へ、運ばれていった。
その背を見送って、ルカは、雇われ料理人の顔のまま、厨房の裏口へ、足を向けた。
村に戻ったのは、夜更けだった。
空き家の土間で、四人がルカを待っていた。マリカが火の前で膝を抱えている。ルカが入口をくぐると、その琥珀色の目が、すぐに上がった。
「ルカ。——どうでしたの」
ルカは土間に腰を下ろした。それから、頭の中の帳簿を、一つずつほどいていった。
「十二の村だ。南部の十二の村から、連合が食材を吸い上げてる。村の名と、奪った麦の量と、減らした配給券の数。全部、帳簿に書いてあった」
マリカは、何も言わずに聞いていた。
「畑を枯らしてるのも、計画のうちだ。あと二年で、南部を連合の配給だけで回す。そのために、畑をゆっくり殺してる。——あの土の苦みは、そういうことだ」
土間に、沈黙が落ちた。
フィリアが、薬草ポーチを握る手を止めていた。ガルムの耳が、両方とも伏せられた。
「……えげつないな」
サリムが、頭布の下で低く言った。
「飢えさせて、配給で釣って、畑まで殺す。逃げ場を、ぜんぶ塞ぐやり方だ。砂漠の借金取りと、同じ手だよ。——いや、それより、たちが悪い」
「……やっぱり、土でしたのね」
マリカが低く言った。
「畑が枯れたのは、貧しさのせいでも、天候のせいでもない。連合が、人の手で殺していた。——土が泣いているわけですわ」
マリカは立ち上がった。
「ルカ」
「……何だ」
「ありがとう。あなたが、いちばん戻りたくない場所へ戻ってくれましたわ」
ルカは顔を背けた。火のほうへ。
「……仕事だ」
そう言ってから、ルカは、ふと、コートの内ポケットに手を入れた。
取り出したのは、ひと握りの痩せた麦だった。子爵の食糧庫で、袋からこぼれていた、あの麦。村から奪われた麦を、ルカはひと握りだけ持って帰っていた。
「これは——この村の麦だ。たぶん」
ルカは、その麦を、マリカの手のひらに載せた。
「奪われた分の、ほんのひと握りだ。だが、返す。村に」
マリカは、その麦を両手で包んだ。
包んでから、ルカの顔を見た。いつもの、料理を食べるときの目とは違う目だった。
「……ルカ」
「何だ」
「あなた、変わりましたわね」
「うるさい」
ルカは火に薪を足した。耳が、わずかに赤かった。
マリカは、手のひらの麦を、しばらく見ていた。それから、その目に、あの危険な火を灯した。
「決めましたわ。——連合の畑殺しを、止めます。土が、まだ泣いているうちに」
冬の夜の空き家に、火の爆ぜる音だけが、低く続いていた。
その火の向こうで、フィリアが、そっと土間の土に、手のひらを当てていた。
「……まだ、間に合います」
フィリアが、土に手を当てたまま、低く言った。
「この土は——まだ、生きようとしています。泣きながら、それでも」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「晩餐会の裏側」、ルカの潜入回です。
二年前に貴族の世界から追い出された男が、もう一度、貴族の厨房に立つ。今度は、自分の意志で、証拠を掴むために。宮廷を追われたルカにとって、あの厨房はトラウマの場所です。けれど今のルカには、帰る場所がある——乾いた豆と骨で人を泣かせた、あの村の竈が。だから、立てた。
捨てられていく食材の山と、薄い粥を底まで浅くすくうサーラ。この対比だけは、最初から書きたかった場面でした。同じ麦が、村では命綱になり、子爵の食糧庫では眠っている。食べ物に貴賤はないのに、食べる人には貴賤がある——その理不尽を、ルカの目を通して見せたかったのです。
ルカの「あいつが——」は、本人にも分からない一言です。マリカの名前を、ルカはまだ、自分の感情と結びつけられていません。ただ、贅の山を見たとき、真っ先に浮かんだのが、あの令嬢の顔だった。それが何を意味するのか——たぶん、いちばん最後に気づくのは、ルカ自身です。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、土が泣いている理由が、明らかになります。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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