第29話: 禁じられた森
森は、鉄の匂いがした。
ガルムは禁猟区の境の木立で足を止め、鼻を上げた。風の中に、本来あるはずの匂いがある。鹿。猪。兎。木の実を食う獣の、生きた匂いだ。
その匂いの上に、別の匂いが薄く被さっていた。鉄と、油。人が張った罠の匂いだった。
獣はいる。だが、獣に手は届かない。森ぜんたいが誰かの倉になっていた。
「……ひどい森だ」
ガルムは低く言った。
すぐ後ろで、サリムが頭布を巻き直した。砂漠の商人にとって、森は不慣れな場所だ。それでも、サリムの足音は静かだった。
「砂漠と同じだよ、猟師殿」
サリムが、声をひそめて言う。
「水場を囲って、近づく者から銭を取る。やり口は、どこでも変わらん。——おれは前を歩けん。森は、あんたの庭だ」
「……ああ」
ガルムは前に出た。サリムがその背の後ろにつく。
前をガルムが歩く。後ろをサリムが守る。獣道の枝が鳴るたび、ガルムの耳が向きを変え、サリムの手が腰の小刀にかかった。言葉は、交わさなかった。それでも二人の歩幅は、いつのまにか揃っていた。
「大きいほうは、殿が向いてるな」
サリムが、ふと、後ろから言った。
「あんたが前を塞いでくれると、おれの背中はひとつで済む」
「……黙って歩け」
ガルムは、前を向いたまま答えた。
けれど、その足は、サリムの歩幅に半歩だけ合わせていた。
森の奥に、それはあった。
罠だった。鋼の歯を持つ罠が、獣道に沿っていくつも仕掛けられている。木の幹には、針金が張られていた。獣が触れれば、首が締まる仕掛けだ。
ガルムは、その一つに顔を近づけた。
匂いを嗅ぐ。罠に塗られた油には、麦の匂いが混じっていた。獣を誘うための餌の匂いだ。
「……餌で誘って、殺してる」
ガルムの声が、低くなった。
「食うためじゃない。食わせないためだ。獣を殺して、森から命を消してる。——村の畑だけじゃねえ。森も、同じだ」
その時だった。
「ガルムさん、右!」
声が、飛んだ。
ガルムの身体は、声より先に左へ跳んでいた。さっきまで足のあった場所で、鋼の歯が音を立てて閉じた。
振り向くと、マリカがいた。
いつのまに付いてきたのか。木立の陰から、琥珀色の目が森を見ている。その目は、罠を見ていなかった。罠のわずかな土の盛り上がりと、不自然に折れた小枝を見ていた。
「……来るなと、言ったろう」
「ええ。聞きましたわ。聞いてから、来ましたの」
マリカは、悪びれずに言った。
「だって、面白いんですもの。それに——」
マリカは、罠のそばの落ち葉の下を指さした。
「あなたの鼻が嗅ぐものを、わたくしの目が見ますの。二つあれば、罠は半分の速さで見つかりますわ」
ガルムは、何も言わなかった。
言わずに、マリカの指さした落ち葉をよけて歩いた。
落ち葉の下から出てきたのは、木の札だった。
半ば土に埋もれた、古い立て札。焼き印が押されている。麦の穂を三本束ねた紋だった。
ガルムに、字は読めない。けれど、この紋だけは知っていた。
「……美食貴族連合の、紋だ」
サリムが、後ろから覗き込んで低く言った。
「『この森の獣は連合の財産。狩る者は手を落とす』——そう書いてある。森ごと、あいつらの倉だ。畑を殺したのも、たぶん同じ手だよ」
ガルムは、その立て札を、しばらく見ていた。
それから、引き抜いて、背負い籠に入れた。
「……証拠だ。持って帰る」
マリカが、ふいにしゃがみ込んだ。
倒木の根元に、灰色のキノコが生えていた。傘の裏が、毒々しい紫がかっている。ガルムの鼻でも、それは危ない匂いがした。
「触るな。毒だ」
「あら」
マリカは、キノコの傘に、もう鼻を近づけていた。匂いを嗅ぐ。傘の裏を、指でそっと撫でる。
それから、目を見開いた。
「……これ、生では毒ですわ。でも——加熱すれば極上ですの!」
マリカの声が、跳ね上がった。
「この紫は、熱を入れると消えますわ。毒の成分は、火に弱いんですの。火を通せば、旨味だけが残る。この香りは、茹でた栗と燻した木のあいだ。ガルムさん、これ何株あります!?」
「……お前」
ガルムは、半ば呆れて、半ば感心して、マリカを見た。
森ぜんたいが罠だらけの、命を殺すための場所で。この令嬢は、毒キノコ一つに目を輝かせている。
「こんなとこでも、食うことしか考えてねえのか」
「ええ。それが、わたくしですもの」
マリカは、にっこり笑った。
「食べることは、生きることですわ。命を殺すために囲われた森でも——わたくしは、ちゃんと生きるほうを選びますの」
ガルムの耳が、ぴくりと動いた。
日が傾く頃、二人とサリムは、罠の網を抜けた。
収穫は、少なかった。罠にかからずに獲れたのは、痩せた兎が二羽と、マリカのキノコがひと抱え。それでも、村のもう一日分にはなる。
ガルムは、兎を背負い籠に入れながら、森を振り返った。
獣の生きた匂いが、まだする。届かない場所で、命が囲われている。
ふと、里のことが頭をよぎった。
東の森の集落。双子の仔。狩りのできない年寄り。ガルムが十二年、人間の街で足元を見られながら稼いで、養ってきた者たち。ガルムが狩る理由は、ずっとそこにあった。里のため。血のため。
けれど、今日。
ガルムが罠をよけ、キノコを背負い、痩せた兎を獲ったのは、里のためではなかった。
あの村で、薄い椀を抱えて泣いていた、顔も名前も知らない人間たちのためだった。
「……変わったな、俺は」
ガルムは、誰にともなく呟いた。
「里の連中のためじゃねえ。目の前で、腹を空かせてる奴のためだ。——獣人も人間も、関係ねえ。腹は、減るからな」
サリムが、後ろで小さく笑った。
「いい変わり方だ、猟師殿」
「……うるさい」
ガルムは、森のほうへもう一度、顔を向けた。
「この森の獲物は、貴族のために囲われてる。罠で殺して、誰の腹も満たさねえ。——命を、独占するな。命は、食うためにあるんだ。倉に積んで、腐らせるためじゃねえ」
その声は、いつものガルムより、ずっと長かった。
ガルムの脳裏に、里の双子の仔が浮かんだ。去年の冬に生まれた、まだ狩りのできない仔たち。あの仔らも、腹を空かせれば、同じ顔で鳴く。
人間の子も、獣人の子も、変わらない。痩せれば、目だけが大きくなる。腹が満ちれば、走り出す。
ガルムが守りたかったのは、たぶん最初から「血」ではなかった。腹を空かせた、誰かの、その顔だったのだ。
その夜、焚火が組まれた。
ルカが、マリカのキノコを加熱していた。紫が、火を通すとすっと消えていく。マリカの言ったとおりだった。茹でた栗と燻した木のあいだの匂いが、焚火の周りに広がった。
マリカが、最初の一口を頬張った。
目を閉じる。それから、全身で身悶えた。
「んまぁ——っ! ルカ、これ毒だったとは思えませんわ! 火を入れただけで、こんなに——」
ルカが、お玉でマリカの椀に、もう一杯よそった。
何も言わずに。けれど、その手は、マリカの椀にだけ、少し多めに盛っていた。
ガルムは、それを、見ていた。
正確には、嗅いでいた。
マリカがルカの料理を食べる時、二人の間の空気が、わずかに変わる。体温が、ほんの少し上がる。ルカが、マリカの椀にだけ、手を込める。本人たちは、気づいていない。
ガルムの鼻は、それをとうに嗅ぎ取っていた。
ガルムは、鼻をふんと鳴らした。
何も、言わなかった。
ただ、焚火の自分の場所から、少しだけ離れて座り直した。二人の邪魔を、しないように。サリムが、その様子を見て肩を揺らした。フィリアが、味のわからない椀を、両手で温かそうに抱えていた。
森の奥で、囲われた獣たちが、低く鳴いた。
その声を聞きながら、ガルムは、痩せた兎の骨を、丁寧に火にくべた。
明日も、誰かの腹のために狩る。——里の血のためではなく。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「禁じられた森」、書きました。
今回は、ガルムの回です。
獣人の彼が十二年、人間の街で足元を見られながら狩りを続けてきたのは、里の双子の仔と年寄りを養うためでした。理由は、ずっと「血」にあった。それが今日、変わる。罠だらけの森で痩せた兎を獲ったのは、顔も名前も知らない村人のためだった。「里のためじゃねえ。目の前で腹を空かせてる奴のためだ」——寡黙なガルムが、いちばん長く喋った場面です。
ガルムの鼻は、嘘をつきません。だから彼は、マリカとルカの間の空気が変わったことに、誰よりも早く気づいています。気づいて、何も言わず、少しだけ離れて座り直す。この不器用な気遣いが、書いていて、いちばん好きな場面でした。
マリカは相変わらずです。命を殺すために囲われた森のど真ん中で、毒キノコに目を輝かせている。「命を殺すために囲われた森でも、わたくしは、生きるほうを選ぶ」——彼女の食い意地は、こういう時、ちゃんと、思想になります。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、ルカが、敵の懐へ。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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