第28話: 笑顔が戻る村
フィリアには、味がわからない。
百年以上、ずっとそうだった。スープを口に運んでも、そこにあるのは温度と、舌触りと、喉を通る感触だけ。味という名の何かは、遠い昔に自分の魔法が焼き尽くした。
だからフィリアは、いつも食事を「見て」きた。
今、フィリアが見ているのは村だった。
あれから数日が経っていた。マリカたちの改良配給は、この村から隣の村へと広がり始めていた。割った麦と、骨の出汁と、薬草と香辛料。同じ配給の食材が、別の一杯に化ける。その作り方が、村から村へと口づてに伝わっていく。
村人の頬に、わずかに肉が戻っていた。
もっと変わったのは、顔だった。
フィリアは、配給の列を見ていた。数日前まで、人々は俯いて並んでいた。空の椀を、ただ握って。今は違う。誰かと言葉を交わしながら、笑いながら、椀を差し出している。
子供が走っていた。痩せた足で、それでも走れるだけの力が戻っていた。
配給の鍋のそばで、ひとりの老婆が、家から持ってきた乾し茸を、そっと鍋に足していた。
「うちのは、これを入れるんだよ」
老婆は、隣の女に得意げに言った。女も負けじと、干した木の実を取り出す。
「うちは、これ。死んだ亭主が、好きだった味でね」
同じ改良配給の鍋に、家ごとの味が、ひとつ、またひとつと戻り始めていた。マリカが渡した土台の一杯に、村の人々が自分の家の記憶を足していく。
フィリアには、その味の違いはわからない。
けれど、乾し茸を足す老婆の手つきと、木の実を惜しむ女の指先には、はっきりと違う記憶が宿っていた。それは、フィリアにも見えた。
「……温かい」
フィリアは、思わず呟いた。
味はわからない。けれど、目の前に広がるものは、確かに温かかった。
「ほら」
横から、椀が差し出された。
ルカだった。湯気の立つスープを、フィリアの前に置いている。ぶっきらぼうな手つきで。
「飲め」
「……わたしは、味がわかりません」
「知ってる」
ルカは、そっぽを向いたまま言った。
「味はわからなくても、温度はわかるだろ」
フィリアは、椀を両手で受け取った。
手のひらに、熱が伝わってくる。スープの湯気が、頬に触れる。喉を通る感触が、身体の内側を、ゆっくり温めていく。
味は、わからない。けれど、フィリアには、料理の色が見える。生命力の、淡い色だ。
このスープには、優しい色が宿っていた。ルカがマリカに出す一皿の、あの濃い色とは、また違う。けれど、確かに、温かい色だった。
その色のことは、口には出さなかった。
味は、やっぱりわからない。
けれど、フィリアの目から、ひとしずくこぼれた。
「ルカさん」
「なんだ」
「わたしには、味はわかりません。でも——」
フィリアは、配給の列のほうを見た。笑っている村人たちを。走る子供を。
「みんなの顔が——変わりました。それは、わかります。ちゃんと、わかります」
ルカは、何も言わなかった。
ただ、火に薪を一本足して、低く呟いた。
「……そういうのが、わかるなら。お前の舌が壊れてるとか、もう誰にも言わせるな」
フィリアは、椀の熱を両手で抱えていた。
百年と二十七年。ずっと、欠けたものを数えて生きてきた。味のないエルフ。壊れたエルフ。里を出てからの二十七年、食事は、ただ命をつなぐ作業だった。
今、その欠けた場所から、別のものが見えている。味のわからない自分にしか見えない、人の顔の変化。温度。記憶。
欠けていたのではなかったのかもしれない。ただ、別の窓が開いていただけ。マリカが最初に、そう言ってくれた。その意味が今、手のひらの熱と一緒に、ようやくわかった気がした。
その温かさに影が差したのは、昼を過ぎた頃だった。
サーラが、村の入口から走ってきた。息を切らしている。
「マリカさん!」
マリカは、子供に芋の蒸し方を教えていた手を止めて振り向いた。
「配給が——配給の食材が、来ないの。連合の倉庫から、今月分が届かない」
サーラの声が、震えていた。
「届け役の話だと、『南部への配給を見直す』って。理由は言わなかった。でも、わかる。——わたしたちが、勝手に食べ方を変えたから。連合の言うとおりにしない村には、もう配らないって」
村に集まっていた人々が、ざわめいた。
戻りかけた笑顔が、すっと引いていく。改良した一杯のおいしさを知った村人ほど、その顔が青ざめた。一度知った温かさを、また失うのは、最初から知らないより、ずっと、こたえる。
マリカは、しばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「やっぱり、そう来ますわね」
怒ってはいなかった。むしろ、納得していた。
「徴発官のドランが昨日、逃げるように帰りましたわ。あれは、上に報告しに行ったんですの。——『あの村は、配給を化けさせる女がいる』と」
ガルムが、低く唸った。
「……また、奪う気か」
「奪うだけじゃないさ」
サリムが、頭布の下で目を細めた。
「連合は、見せしめにする気だ。『連合に逆らった村は、こうなる』——そういう村をひとつ作るつもりだよ。腹を空かせて、後悔させる。それが、いちばん効く脅しだからな」
サリムは、頭布の下で、目を細めた。
「それに——この配給停止、ドランの独断じゃない。あの男にそこまでの裁量はない。これは、連合の本部が決めた話だ。盟主の名で動いている。——顔の見えない相手ほど、怖いものはないよ」
マリカは、サリムの言葉を最後まで聞いていた。
聞いてから、ひとつ頷いた。
「では、その脅しをいちばん下手な脅しに変えてさしあげましょう。——見せしめにするはずの村が、いちばん笑っている。連合にとって、それ以上に都合の悪いことはありませんもの」
マリカは、村の畑に向かって歩き出していた。
ここから先は、マリカが動いていた。
かつて穀倉地帯だった、凍りついた畑。マリカは、その畦に立って、土を見下ろした。
「フィリアさん」
「はい」
「この土を、もう一度聴いてくださいまし」
フィリアは、畑に膝をついた。手のひらを凍った土に当てる。
目を、閉じた。
土の声を聴くのは、フィリアにとって、味を失った代わりに開いたただひとつの扉だった。土の中の根。眠る種。水の流れ。土地の記憶。手のひらから、それらが、流れ込んでくる。
流れ込んできたものに、フィリアは眉をひそめた。
「……おかしいです」
「何が、おかしいんですの」
「冬の土は、眠っています。でも、この土は——眠っているのではありません。痛がっています」
フィリアの指先が、わずかに震えた。
「村の周りだけ、土が深いところで断たれています。水の道が、塞がれています。自然な流れでは、ありません。これは——」
「人の手、ですわね」
マリカが、後を引き取った。
フィリアは、頷いた。
マリカは、凍った土を一握りすくった。鼻に近づける。匂いを嗅ぐ。それから、ほんの少しだけ舌に乗せた。
いつもの、未知の味に出会ったときの暴走はなかった。
代わりに、マリカの琥珀色の目が、すうっと細められた。
「……この土、味がしますわ」
「土に、味が?」
「ええ。本来、生きた土は無味に近いんですの。でも、この土に、はっきりとした苦みがある。誰かが、何かを撒いた味ですわ。——畑を、ゆっくり殺すために」
マリカは、立ち上がった。
その目に、火が灯っていた。けれど、今度の火は、料理を前にしたものとも、村を救うと決めたものとも違った。
もっと、深い。
知ってはいけないものを、知ってしまった。けれど、知った以上、止まれない。——マリカの、いちばん危険な火だった。
「面白いですわ」
マリカは、低く呟いた。
「この土地、何かを隠していますの。配給で食を縛るだけじゃ、ありませんわ。畑そのものを、殺している。——なぜ? 誰が? 何のために?」
マリカの足が、もう動き出していた。
「ルカ。ガルムさん。サリムさん。フィリアさん。——調べますわよ。この土地が、誰に殺されているのかを」
冬の畑に、五人の影が長く伸びていた。
その影の下で、凍った土が、苦い匂いをかすかに放っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「笑顔が戻る村」、書きました。
今回は、フィリアの目を借りました。味のわからないエルフが、食べる人々の「顔」を見る。味はわからない。けれど、顔が変わるのは、わかる。百年以上「壊れたエルフ」と呼ばれてきた彼女が、味覚のない自分にしか見えないものを、初めて、誇れる瞬間を書きたかったのです。
ルカの「味はわからなくても、温度はわかるだろ」は、ぶっきらぼうな男が出せる、精一杯の優しさでした。彼自身、味覚を疑われて宮廷を追われた人です。だからこそ、味のわからないフィリアに、誰よりも優しくなれる。同じ傷を持つ者同士の、静かな場面です。
そして、土。配給で食を縛るだけでなく、畑そのものを殺している——マリカが土を舐めて苦みに気づく場面から、物語はもう一段、深い場所へ降りていきます。誰が、なぜ、土地を殺すのか。次回からは、その根を掘りに行きます。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、禁じられた森へ。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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