第24話: ハングリー
世界から匂いが消えていた。
マリカは、それで自分がどれだけ弱っているかを知った。
目を開けると低い天井があった。村のはずれの空き家の梁らしい。誰かが運んでくれたのだ。背中の下にはガルムの背負い籠から出した毛皮が敷かれていた。窓のない部屋に、入口から冬の光が斜めに差している。
いつものマリカなら、目を開けた瞬間に部屋じゅうの匂いを読む。土壁の古さ、梁の木の種類、誰かが昔ここで何を煮ていたか。匂いの一つひとつが勝手に物語を語りだす。
今は何も語らなかった。
鼻の奥が、布を一枚かぶせたように鈍い。
「……いやですわね」
マリカは小さく呟いた。声に、いつもの張りがない。
怖かった。未知の崖を登るときも、毒蝮茸に似た茸へ手を伸ばすときも、怖いと思ったことはない。けれど自分の鼻が、自分の舌が、世界を読まなくなる。それはマリカが生まれて初めて知る種類の怖さだった。
身体を起こそうとして、力が入らなかった。指の先まで、いつもの熱が回っていない。
ハングリー、というのだとフィリアが旅の途中で言っていた。空腹が限界を越えると、エルフでも人間でも、身体は「動くこと」をやめて「守ること」に切り替わる。マリカは知識として知っていた。
知っているのと、自分の指がそれを忘れるのとは、まるで違った。
入口のほうで火の音がしていた。
火の音だけは聞こえた。聴覚は、まだ生きている。
ルカが土間にしゃがんでいた。欠けた土鍋を火にかけ、その手が動いている。
速い。
マリカは鈍った頭の隅でそう思った。ルカの手はいつも丁寧だ。蕪を切るのも灰汁をすくうのも急がない。急がないことがルカの料理だった。
今のルカは、急いでいた。
硬い配給のパンを削ぎ、湯に落とす。サリムの保存食の小袋から、ほんのひとつまみだけ干した何かを取り、指で揉んで散らす。火加減を見て、土鍋を傾け、また戻す。一連の動きに迷いが一つもない。料理人が「最短で温かいものを作る」と決めたときの手だった。
「……早いな」
低い声がした。ガルムだ。入口の脇に巨体を縮めて座っている。
ルカは火から目を離さずに答えた。
「うるせえ」
「俺が腹を空かせて行き倒れてたときは、お前、鼻歌まじりで一刻かけてただろうが」
「腹の減った奴がいたら作る。それだけだ」
「ふん」
ガルムは、それ以上は言わなかった。
ただ、その丸い熊耳がルカのほうへぴくりと向いた。鼻が、わずかに動いた。何かを嗅ぎ分けたような、それでいて少しおかしそうな動きだった。
マリカには、ガルムが何を嗅いだのか分からなかった。今は自分の鼻が、何も嗅げない。
けれど、ガルムがそれ以上からかわなかったことだけは分かった。
ルカが土鍋から椀に中身を移した。歩いてきて、マリカの横に置く。
湯気が立っている。マリカの目に湯気は見えた。けれど、その匂いが届かない。
いつもなら、椀が一歩近づくだけで中身を全部言い当てる。火の入り方、塩の濃さ、足りないもの。匂いだけで採点さえできる。
今は、ただの白い湯気だった。それがたまらなく心細かった。
「……ルカ」
「ああ」
「わたくし、匂いが分かりませんの」
ルカの手が止まった。
マリカは椀を見たまま続けた。
「あなたが何を作ったか分かりませんの。いつもなら湯気だけで全部読めますのに。——こんなに何も分からないの、初めてですわ」
声の終わりが、細く揺れた。
ルカは何も言わなかった。言わずに椀を持ち上げ、マリカの両手に握らせた。冷えた手のひらに、椀の熱がじわりと移った。
「読まなくていい」
ルカの声は低く短かった。
「お前はいつも読みすぎだ。今日くらい、読まずに食え」
読まずに食べる。それはマリカ・ベルモントが、生まれてから一度もしたことのないことだった。五歳の頃から、食べることは世界を読むことだったのだ。
マリカは椀を口元に運んだ。一口、含んだ。目を閉じた。
最初は味が遠かった。鈍った舌の上で、塩と麦と干し肉の旨味がぼんやり混ざっている。読もうとしても輪郭が掴めない。
二口目。
奥のほうで、何かがほどけた。
冷えていた指の先に、熱が戻り始める。鼻の奥の布が一枚はがれる。三口目を飲んだとき、マリカの鼻はようやく椀の匂いを嗅いだ。
干し肉の塩気。麦の香ばしさ。サリムのスパイスの、遠い記憶のような甘さ。そして、足りない火を腕で補ったルカの手の匂い。
全部、戻ってきた。
戻ってきた世界が、ふいに、滲んだ。マリカは、それが涙のせいだと、一拍遅れて気づいた。
「……ルカ」
マリカは椀を抱えたまま言った。いつもの早口ではない。けれど確かに、いつものマリカの声だった。
「おなかが、空きましたわ」
ルカは火のほうへ顔を背けた。
「……知ってる」
背けたまま、低く言う。
「食え。おかわりもある」
その横で、フィリアが土間の隅から、そっとマリカを見ていた。
「……マリカさん」
「フィリアさん。なあに」
「あなたが空腹で倒れるところ、初めて見ました」
フィリアは、自分の薬草ポーチの紐を、指でいじっていた。
「少しだけ、安心しました。あなたも——ちゃんと空腹になるんですね」
マリカは、まばたきをした。それから、二杯目の椀に手を伸ばしながら笑った。
「あら。わたくし、誰より空きますわよ。いつもは、空く前に食べているだけですの」
二杯目を飲み終える頃には、マリカの指は元の熱を取り戻していた。鼻も舌も戻った。空き家の土壁の古さも梁の木の種類も、いつのまにか勝手に物語を語りだしている。世界がまた、匂いで満ちていた。
マリカは椀の底を、最後の一滴まですすった。
すすってから、入口の外を見た。
冬の光の中に村があった。配給の列が、まだ続いている。痩せた人々が薄い粥を一杯ずつ受け取っている。さっきマリカに椀を譲られた子供が、母親の膝の上で、空の椀をまだ抱えていた。
マリカは、それをしばらく見ていた。口角は上がらなかった。
代わりに、琥珀色の目の奥が、静かに冷たくなっていった。
「分かりましたわ」
マリカは低く言った。
ルカが振り向いた。フィリアが顔を上げた。サリムが九つ目の袋を結び直す手を止めた。ガルムの耳が両方ともマリカへ向いた。
「たった一食ですわ。わたくしは、たった一食抜いただけで、何も分からなくなりましたの」
マリカは空の椀を、両手で包んでいた。
「指が冷えて、鼻が鈍って、世界が遠くなりました。——あの子たちは、それが毎日ですのよ」
誰も何も言わなかった。冬の光が、土間の上をゆっくり横切っていく。
「食を奪うというのはね、サリムさん」
マリカはサリムのほうを見た。
「お腹を空かせる、ということだけではありませんの。あの子たちから、世界を読む力を奪うということですわ。明日を考える力を奪うということ。——人を、ゆっくり止めるということですの」
サリムは、しばらくマリカを見ていた。それから頭布の下で目を細めた。笑ったのではない。砂漠で飢えを知った男が、同じものを見ている目だった。
「……砂漠でも言うよ」
サリムの声は、いつもの軽さを削いでいた。
「『人を殺すのに刃はいらない。三日、飯を抜かせればいい』ってな。——これは、おれが作った諺じゃない。砂漠の本物の諺だ」
「サリムさん」
「ん」
「その諺、ひっくり返しますわよ」
マリカは立ち上がった。二杯のスープが、指の先まで熱を回している。さっきまで折れていた膝が、もう地面を信じていた。
「三日、ちゃんと食べさせれば。——人は、また動き出しますの」
サリムは、口の端を、わずかに持ち上げた。
「……嬢ちゃん。あんた、さっきまで気絶してたんだぜ」
「ええ。だから、よく分かりましたわ」
マリカはルカを見た。
「ルカ」
「……何だ」
「この村の竈に、もう一度、火を入れますわ」
マリカの琥珀色の目に、火が灯っていた。けれど、それは未知の味を前にしたときの、あの弾けるような火ではない。もっと低く、もっと深いところで燃えている火だった。
「食材がないなら、腕で補う。さっき、あなたが教えてくれましたもの」
ルカはマリカを見た。それから火の中の薪を一本、組み直した。
「……一食抜いて倒れた奴の言う台詞じゃねえな」
「あら。もう、おなかはいっぱいですわ」
マリカは笑った。お嬢様の仮面が、半分だけ戻った笑みだった。
ガルムが、のそりと立ち上がった。
「煮るものは、俺が探す」
その声は短かったが、いつもより、ほんの少しだけ長く続いた。
「腹を空かせた森でも、網の外はまだある。獲れるものを獲ってくる」
「おれの二日分も使いな」
サリムが九つ目の袋を、マリカの足元に軽く転がした。
「『いちばん効くときに使う』んだろう? ——今が、それだ」
「ええ。覚えていてくださって、嬉しいですわ」
フィリアも、薬草ポーチの口を静かに開けた。
「土が傷んでいても、根の生きている薬草はまだあります。探します」
マリカは、四人を順に見回した。
そして、いつもの令嬢の笑みが、ようやく全部、戻ってきた。
「では——始めましょうか。この村の、立て直しを」
ルカは、火の前で薪を組み直していた。その目が、竈の火を見ている。二年前に宮廷を追われたあの日には、なかった光が——そこに、宿り始めていた。
空き家の入口の外で、配給の大鍋の湯気が、冬の光の中を細くまっすぐ立ちのぼっていた。
その湯気を、今度はマリカの鼻が、ちゃんと嗅いでいた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「ハングリー」、書きました。
旅をずっと引っ張ってきたマリカが、初めて「弱い」回です。彼女の武器は超人的な五感ですが、その五感はお腹が空くと真っ先に鈍る。世界を読むことが当たり前だった令嬢が、「読めない」ことに怯える——この怖さは、強いキャラだからこそ書けるものでした。一食抜いただけで世界が遠くなる。その実感を、彼女自身の身体で通らせたかったのです。
ルカの「読まなくていい。今日くらい、読まずに食え」は、書いていて自分で少し驚いた台詞でした。ルカはずっと、マリカの「読む力」に応えるために料理してきた男です。その男が、初めて「読まなくていい」と言う。それはたぶん、ルカがマリカを「食の天才」としてだけ見ていない、最初の証拠なのだと思います。本人は絶対に認めませんが。
ガルムの「俺が行き倒れてたときは一刻かけてただろうが」も、お気に入りです。ルカの手の速さの違いを、いちばん正確に嗅ぎ分けるのは、たぶんガルムの鼻なんですよね。何も言いませんけど。
そして、回復したマリカに芽生えたのは、歓喜ではなく静かな怒りでした。サリムの「三日飯を抜かせれば人は殺せる」という諺を、マリカが「三日食べさせれば人はまた動き出す」とひっくり返す。ここから先のArc3は、この一行を証明していく話になります。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、止まった竈に、もう一度、火を入れます。
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