第23話: 飢えた大地
南へ来てから、土の匂いが変わった。
マリカは街道の終わりで足を止め、もう一度だけ空気を嗅いだ。アペティアを発ったのは、まだ初夏の風が背を押す頃だった。街道を南へ下り続けて、幾度も野営を重ねた。日を追うごとに風は冷え、季節は夏を越え、秋を抜けて、気づけば冬がすぐそこまで来ていた。風が運ぶ土の匂いは、南へ進むほど濃くなっていた。けれど濃くなっていたのは「土」だけだ。
育つものの匂いがしない。
冬の土は、どこの土地でも眠っている。だが眠る土には、春を待つ匂いがある。雪の下で麦の根が息をしている匂い。来年の芽が土の奥でうずくまっている匂い。マリカの鼻は、いつもそれを嗅ぎ分けてきた。
ここには、それがなかった。
火を落としたあとの竈に似た匂いだった。
街道を抜けると、視界が一気にひらけた。
畑だった。かつて畑だったもの、と言うべきかもしれない。地平の果てまで、四角く区切られた土地が続いている。区切りの畦は、まだ畑の形を覚えていた。けれど土は割れていた。乾いて、凍って、白い罅が霜のように走っている。
「……穀倉地帯、でしたのよね」
マリカは誰にともなく呟いた。
文献で読んだ。南部は大陸随一の麦どころで、収穫祭には焼きたてのパンの匂いが三つの村を越えて届いたという。土を一握りすくえば、その豊かさが指のあいだから匂い立つはずだった。
マリカは膝を折り、凍った土を一握り手にとった。
匂いを嗅いだ。
何も、立ち上がってこなかった。
「マリカ」
うしろでルカの声がした。振り向くと、ルカは畑ではなく、その先を見ていた。
畑の向こうに、村があった。
村の中央に、人が並んでいた。
列だった。それも、ずいぶん長い列だ。マリカが数えるより先に、列の意味が匂いで分かった。煮炊きの匂いがする。だが一か所からしかしない。村じゅうの竈が冷えていて、たった一つの大鍋だけが湯気を上げていた。
配給所、というものだろう。マリカは足を速めた。
列に並んでいるのは、痩せた人々だった。頬がこけ、手首が細い。子供が多かった。子供は痩せると目だけが大きくなる。その目が、いくつもいくつも、湯気の立つ大鍋を見ていた。
マリカの足が、列の手前で止まった。
止まったのはマリカ自身ではない。いつもなら、面白いものを見つけた足は勝手に走り出す。未知の匂いがあれば、理性より先に身体が動く。
今は、動かなかった。
大鍋の前で、ひとりの女が柄杓を握っていた。配給を仕切る役の女らしい。痩せているのは並ぶ人々と変わらない。それでも背筋だけはまっすぐで、椀を差し出す相手の一人ひとりに、同じ量を、同じ手つきで配っていた。
女は柄杓で鍋の底を浅くすくった。深くすくいすぎないよう、加減していた。粥が薄いのだ。深くすくえば、列の後ろの誰かの分が、なくなる。
マリカはそれを、しばらく見ていた。
それから、列の最後尾に、静かに並んだ。
「お嬢さん」
すぐ横で、サリムが小さく言った。いつもの軽さが、声から削れている。
「並ぶのかい」
「並びますわ」
「あんたが食べる分は——」
「いただきますわ。一杯」
マリカは前を向いたまま答えた。
「食べないと、分かりませんもの。この村が、今、何を食べているのか」
サリムは何か言いかけて、やめた。やめて、マリカの半歩うしろに、同じように並んだ。
列はゆっくり進んだ。蝋燭が指の一節ぶん短くなるほどの間をかけて、マリカの番がきた。
柄杓の女が、マリカを見た。旅装束のよそ者だと、すぐに分かったはずだ。それでも女は、並ぶ人々にしたのと同じ手つきで、椀に粥をよそった。同じ量を。同じ加減で。
「……一杯だけよ」
女は短く言った。咎める声ではなかった。ただ、それしか出せないという声だった。
「ありがとう存じます」
マリカは両手で椀を受け取った。
「この粥は、いつから、これだけですの」
マリカが訊くと、女の手が一瞬だけ止まった。
「……半年になるかしらね。畑を、買い上げられてから」
「買い上げた、というのは」
「美食貴族連合のお偉方よ。畑も種も収穫も、ぜんぶ。あたしらは配給の券で、ここに並ぶの」
女は柄杓を、また動かし始めた。
「並べるうちは、まだいいほう。券は毎月、減っていくからね」
それ以上は訊くな。女の背中が、そう言っていた。
薄い粥だった。麦の粒が数えるほど浮いている。横に、硬いパンがひと欠片。
マリカは椀を持って列を離れた。
マリカは椀を口元に運び、一口、含んだ。
目は、開けたままだった。
信頼した料理人のものを味わうとき、マリカは目を閉じる。けれどこれは、味わうための一口ではない。読むための一口だった。
舌の上で、味が分かれていく。
「……麦は、去年の収穫分。それも、最後のほう。粒が痩せていますわ。育つ途中で水が足りなかった」
声に出していたつもりはなかった。けれど、仲間の四人が、マリカの背中を見ているのが分かった。
「塩は、足りていませんの。本当は、もう少し立てたい。この作り手は、それを知っていますわ」
マリカはもう一口、含んだ。
「知っていて——それでも、手を抜いていない」
粥の中で、味がきちんと組まれていた。薄い。けれど、薄いなりに、いちばんおいしくなる順序で煮られている。麦をふやかす火加減。灰汁をすくった跡。何もない中で、できることが、全部、してあった。
マリカは柄杓の女のほうを、振り返った。
女は、次の椀をよそっていた。背筋を伸ばしたまま。マリカの視線には、気づいていない。
「あの人」
マリカは低く言った。
「料理を、知っていますわ。たくさん食べさせてきた手ですの。——足りないものを足りないと知りながら、それでも一杯を、いちばんいい形で渡している」
誰も、何も言わなかった。
冬の村に、沈黙が薄く降りた。風が畑の罅を渡る音だけが、低く続いていた。
マリカは椀を見下ろした。底に、麦の粒が、まだ少し残っている。
その椀を、マリカは、そばにいた子供に差し出した。
列を外れた小さな男の子だった。さっき一杯をもらって、もう飲み干して、それでも鍋のほうを見ていた子だ。マリカの椀を見て、その子は、マリカの顔を見上げた。
「召し上がれ」
マリカは微笑んだ。いつもの暴走令嬢の笑みではない。もっと静かな、けれど確かに笑みだった。
子供は椀を両手で受け取り、底に残った麦を、大事そうにすすった。
マリカは立ち上がった。
「決めましたわ」
琥珀色の目に、火が灯っていた。けれど、その火は、未知の味を前にしたときの火とは違う。もっと深いところで、静かに燃えている。
「まず、この人たちに食べさせましょう。話は、それからですわ」
ルカは、その横顔を見ていた。
二年前まで、ルカは宮廷で料理をしていた。貴族の前に皿を並べ、味の評を待つ日々だった。あのころのルカは、誰かを飢えさせないために料理をしたことなど、一度もなかった。飢えという言葉は、宮廷の厨房にはなかった。
今、ルカの目の前で、その言葉が、村の形をして広がっていた。
「マリカ」
ルカは呼んだ。マリカが「食べさせる」と言うとき、次に来るのは決まっている。「ルカ、火を起こして」だ。ルカはもう、何を作るか、頭の中で組み始めていた。配給の粥を見て、足りない塩を足し、麦を割って粥に厚みを出し——
そこで、ルカの思考が止まった。
「……何で作る」
声が、自分でも低くなった。
ルカは村を見回した。料理人の目で。
竈はどこも冷えている。薪は積まれていない。畑は凍って割れている。村のはずれに食糧倉らしき建物があったが、扉が開けっぱなしだった。中身がないから、閉める意味がないのだ。
ルカは食糧倉に歩み寄って中をのぞいた。
空だった。棚に、麦の粉が刷毛で掃いたほどこびりついているだけ。鼠が齧った跡さえ、古い。鼠も、とうに見限った倉だった。
ルカは拳を、軽く握った。
「ガルム」
「……ああ」
うしろで、ガルムが低く答えた。巨体の熊獣人は、村に入ってからずっと、鼻を風に向けていた。今、その鼻が、村の南の森のほうを向いている。
「獲物の匂いがしない」
ガルムの声は、いつもより短かった。
「鹿も、猪も、兎も。森に、何もいないわけがない。——いるんだ。いるのに、匂いの上に、別の匂いが被さってる。鉄と、油だ。人が、森に網を張ってる匂いがする」
「禁猟区、か」
ルカが言うと、ガルムは黙って頷いた。獲物はいる。だが手が出せない。それが「飢餓の大地」の仕組みだった。
「……腹を空かせた森だ」
ガルムは低く言った。
「獲物がいるのに獲れねえ森ってのは、人間より先に、獣が痩せる。あの匂いは、いい森の匂いじゃねえ」
「フィリア」
ルカは振り返った。エルフの娘は、村の地面に膝をつき、凍った土に手のひらを当てていた。
フィリアの指先が、わずかに震えていた。
「……この土」
フィリアの声が、低く、震えていた。
「冬だから眠っているのではありません。——傷ついています。根が、誰かに傷つけられた跡があります。それが何かは、まだ分かりません。でも、この子たちは自然に枯れたのではない」
ルカは、フィリアの言葉を、すぐには飲み込めなかった。土が、誰かに傷つけられる。そんなことが、あるのか。
だが、フィリアの「食材の声を聴く」力が、これまで一度も外れたことがないのも、ルカは知っていた。
「土を、枯らす」
ルカは呟いた。
「誰が、何のために、そんなことをする」
「……分かりません」
フィリアは土から手を離さないまま、首を横に振った。
「でも、この子たちはひと冬で枯れたのではありません。何年もかけて、ゆっくり弱らされています。誰かがそうなるように、しているんです」
「サリム」
最後に、ルカは商人を見た。
サリムは、腰のベルトの小袋を、ひとつずつ確かめていた。八つの袋と、九つ目の、南部の最後の麦を塩漬けにした袋。その九つ目を、サリムは指で軽く押した。中身が、ほとんどない音がした。
「おれの保存食も、二日分が、せいぜいだ」
サリムは肩をすくめた。軽い口調を作ろうとして、作りきれていなかった。
「砂漠では言うんだがね。『手持ちの水を数えるな、見つける井戸を数えろ』——いや、今のはほんとに昔からある諺だ。だが、ここには井戸が、見当たらない」
五人が、村の中央に集まっていた。
料理を作る男も、食材を獲る男も、土の声を聴く娘も、食を保つ商人もいた。そして、一口で世界を読む令嬢がいた。
それだけの腕が、ここに揃っていて——目の前には、何もなかった。
ルカは、もう一度、マリカを見た。
何か言うだろう、と思った。いつものように、笑って、走り出すだろうと。「面白いですわ」と言って、頭の中の地図を勝手に広げ始めるだろうと。
マリカは、立っていた。
立ったまま、村の列のほうを見ている。さっき椀を渡した子供が、空になった椀を抱えて、母親らしき女のところへ駆けていくのが見えた。
「ガルムさん。森の網の位置を、覚えておいてくださいまし。獲れる場所と、獲れない場所を、分けますわ」
「……ああ」
「サリムさん。その二日分は、まだ開けないで。いちばん効くときに、使いますの」
「了解だ、お嬢さん」
「フィリアさんは、土の傷の、いちばん深いところを探してくださいまし。原因は、きっとそこに——」
マリカの言葉が、途切れた。
「ルカは……」
続かなかった。
「ルカは、何でしたかしら。わたくし、今、何を、言おうと……」
マリカの口角は、上がっていなかった。
ルカは気づいた。マリカが、まだ、一口も、まともに食べていないことに。南部に入ってから、ろくに食べていない。今日も、配給の粥を一口読んだだけで、残りを子供に渡した。
食いしん坊の令嬢が、食を、後回しにしている。
それが何を意味するか、ルカは旅のあいだに、嫌というほど知っていた。マリカは、空腹になると、止まる。あの止まらない令嬢が、止まる。
「マリカ」
ルカは、一歩、踏み出した。
その一歩のあいだに、マリカの身体が、ゆらり、と傾いだ。
琥珀色の目が、いつもの速さで世界を読めずに焦点を失いかけていた。
「おい。お前、いつから食ってない」
「……さあ。覚えて、おりませんわ」
マリカの声が細かった。
「変ですわね。足元が、すこし、遠いんですの」
マリカの膝が、折れた。
「お嬢さん!」
サリムの声が、初めて軽さを完全に失った。
ルカが踏み出した足は、もう走っていた。考えるより、先に。
冬の村の中央で、空になった大鍋の柄杓が、女の手から、かちりと、鍋の縁に置かれた。
その音が、いやに遠くまで響いた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
Arc3「飢餓の大地」が始まりました。
Arc2の最後、マリカは「帰る場所なんてありませんわ」と言って、それでも南へ歩き出しました。歩き出した先に待っていたのが、この村です。食いしん坊の令嬢が、生まれて初めて「食べさせたいのに、食べさせるものがない」場所に立つ——ここからのArcは、マリカが「食べたい」だけの人ではなくなっていく話になります。
配給の女には、まだ名前をつけていません。けれど、彼女の「背筋だけはまっすぐ」という一点だけは、書く前から決めていました。何もない中で、それでも一杯をいちばんいい形で渡す人。マリカが南部で最初に敬意を払う相手を、悪役でも被害者でもなく、こういう人にしたかったのです。マリカが粥を一口で読んで「手を抜いていない」と言う——あの一言は、彼女への、最大の挨拶のつもりで書きました。
そして、ラスト。マリカの膝が折れます。
旅をずっと引っ張ってきた行動力SSSの令嬢が、初めて止まる。理由が「空腹」というのが、この子らしくて、書いていて少し笑って、少し切なくなりました。止まったマリカに、ルカが何を出すのか——次回、いちばん格好いいルカが見られるはずです。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、食卓を立て直します。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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