第22話: 南へ
南からの風には、いつもより、土の匂いが多かった。
マリカは、屋台の縁に背を預けて、空気を一口、嗅いだ。「旅の食卓」の名がアペティアを越えて、隣の街、その先の街にまで広がった——その三日が、終わりかけていた。
夕暮れの屋台街は、客が一段引いた時間だった。鍋屋の店先で、銅の鍋を磨く音が、今日もする。串焼き屋の主人が、明日の仕込みの炭を積み直している。揚げ物屋の親父が、油の温度を、夜の客のために、もう一段上げ始めた。
屋台街は、今日も、いつもの夕方だった。
ただ、風だけが、違っていた。
「土の匂い、ですわね」
マリカは、誰にも聞こえない声で、呟いた。
夕暮れの風が、南から、北へ流れていた。アペティアの北側のギルド本部の方角ではない。南から——アペティアの城門の、その先の街道の方角から、土の匂いが、運ばれてくる。
乾いた土の匂いだった。
雨が降らない土地の、麦が育たない土地の、井戸が枯れた土地の——そういう種類の、土の匂い。
マリカの琥珀色の目が、わずかに、細められた。
その夜、屋台街の隅で、サリムが酒場の主人と話していた。
話していたのは、商人の言葉だった。砂漠と山岳と港町の値段表が、サリムの口の中で行き来していた。その中に、ふいに、一つの単語が混じった。
「飢餓の大地」
マリカが、屋台の縁から、振り向いた。
ガルムの耳が、両方とも、サリムの方を向いた。
ルカは、火の前で、薪を組み直す手を、止めなかった。だが、薪の置き方が、わずかに、強くなった。
サリムは、酒場の主人との話を、終わらせた。終わらせてから、屋台の縁に、戻ってきた。
「お嬢さん」
サリムの声は、いつもの軽さを、すこし、削っていた。
「南部の話を、ご存じで」
「土の匂いで、半分ほどは」
「半分の、もう半分は——」
サリムは、屋台の縁に、自分の腰のベルトの小袋を、一つだけ、置いた。
それは、いつもの八つの袋とは違う、九つ目の袋だった。マリカが、初めて見る袋だった。革の色が、他の八つよりも、薄く、乾いている。中身が、軽い。
「これは、何ですの」
「南部の、最後の麦を、塩漬けにしたものでさ」
「最後の——」
「美食貴族連合が、半年前に、南部の畑を、買い上げた。今ある麦が、最後の収穫分」
マリカの指が、九つ目の袋に、触れた。革の薄い乾いた感触の中に、確かに、麦の粒が、ひと握りだけ、入っていた。
その麦が、最後だった。
マリカは、九つ目の袋を、軽く、持ち上げた。
「サリムさん。飢餓の大地は、今、どうなっていますの」
サリムは、しばらく、黙っていた。
黙ってから、ようやく、答えた。
「子供が、痩せております」
マリカが、屋台の縁から、足を一歩、引いた。
屋台街の喧噪が、ふいに、引いた——のではない。マリカの中で、屋台街の喧噪が、急に、遠くなった。
マリカは、屋台の縁から、屋台の中に入った。
ルカの隣に立った。
ギルド役人が来たあの朝、初めて屋台の中に踏み込んだ時と、同じ動きだった。
ルカは、振り向かなかった。
「ルカ。——南へ、行きますわ」
ルカの薪を組む手が、止まった。
「待て」
「待ちませんわ」
「南部は、美食貴族連合の領域だ。あいつらは、食を——」
「食を、奪っている人がいる」
マリカは、ルカの方を、見なかった。ルカの手元の、火の中の楢の薪を、見ていた。
「なら、行きますわ」
ルカは、何かを、言いかけた。
言いかけて、口を、閉じた。
代わりに、薪を、もう一本、火の中に置いた。
火の粉が、二つ、三つ、上に舞った。
ルカは、振り向かないまま、低く、言った。
「……勝手にしろ」
その「勝手にしろ」は、いつもの「勝手にしろ」ではなかった。
マリカには、それがわかった。
その夜、屋台街の外の、街道脇の野原で、焚火が組まれた。
屋台街では、組まなかった。理由は、誰も言わなかった。が、四人——五人——とも、わかっていた。今夜の焚火は、屋台街の灯りでも、ギルド本部の灯りでもないところで、組むべき夜だった。
ガルムが、肉を、薄く、二枚ずつ、火に近づけた。
フィリアが、薬草茶を、土鍋で煮出していた。湯気が、夜の星の下で、薄い緑色の柱になって、上っていく。
サリムが、九つ目の袋の麦を、ひと握りだけ、炒っていた。最後の麦——それを、五人で、ふた粒ずつ、味わうつもりらしかった。
ルカが、火の前で、何かを煮ていた。野菜と、肉の余りと、フィリアの薬草の根元。煮込みではない。スープとも、違う。マリカが、屋台街で、食材を「全部食べ尽くす」と口走った時、ルカが、後で、こっそり残しておいた素材で、組み立てた一皿だった。
マリカは、焚火の前に、腰を下ろしていた。
膝を抱えていた。
夜の野原の風は、屋台街より、低く、冷たかった。
誰も、しばらく、口を開かなかった。
マリカの口角が、いつもの暴走令嬢の角度に、戻っていなかった。
ふだんなら、マリカは、こういう時、勝手に喋り出す。屋台街のあの店の、あの料理の、あのソースの、あの——と、止まらないはずだった。
今夜は、止まっていた。
止まったまま、マリカは、焚火の薪が、灰になっていくのを、見ていた。
「マリカ。食え」
ルカの声だった。
マリカは、振り向かなかった。膝を、抱えたままだった。
ルカが、椀を、差し出した。
椀の中身は、ルカが組み立てた、名前のない一皿。マリカが「全部食べ尽くす」と言った時の、残りの素材で出来た、最後の一皿。
マリカは、椀を、両手で、受け取った。
受け取って、しばらく、湯気を、見ていた。
夜の野原の星の下で、湯気は、屋台街のそれより、ゆっくり、上っていた。
「ルカ。——わたくし——」
マリカの声が、止まった。
ルカは、振り向かなかった。火の中の楢の薪を、もう一度、組み直していた。組み直す手が、いつもより、ゆっくりだった。
止まった声を、誰も、急がせなかった。ガルムは、肉を、火の上で、ゆっくり、回していた。フィリアは、土鍋の中の薬草を、見ていた。サリムは、麦のふた粒を、自分の口の中で、ゆっくり、噛んでいた。
マリカは、湯気の向こうの星を、見ていた。
「わたくし、帰る場所なんて、ありませんわ」
誰も、何も、言わなかった。
焚火の薪が、ひと欠片、灰になって、崩れた。崩れた音が、夜の野原の、いちばん大きな音だった。
ルカは、振り向かなかった。
振り向かない代わりに、もう一本、薪を、火の中に置いた。
そして、低く、短く、言った。
「食え。冷める」
マリカの手の中の椀の縁が、湯気の中で、わずかに、揺れた。
揺れたのは、椀ではなかった。マリカの指が、震えていた。
マリカは、椀を、両手で、口元に運んだ。
一口。
二口目で、目を、閉じた。
目を閉じたまま、三口目を、飲んだ。
四口目の前で、マリカの指の関節から、力が、抜けた。
椀の温度が、マリカの手のひらの温度と、同じになった頃に、ようやく、マリカの目が、開いた。
目の縁が、わずかに、濡れていた。
ルカは、見なかった。
見ない代わりに、火の薪を、もう一度だけ、組み直していた。
翌朝の屋台街は、いつもより、早く、明けた。
マリカが、宿の窓を細く開けた頃には、もう、串焼き屋の主人が、店先に出ていた。揚げ物屋の親父が、油を、いつもより早く、火にかけていた。蒸し饅頭の婆さんが、籠の蓋を、もう、半分開けていた。
誰も、何も、言わなかった。
マリカが、屋台街の路地を歩く時、串焼き屋の主人が、串を一本、無言で、屋台の縁から差し出した。マリカは、それを、両手で、受け取った。
次の屋台の前で、揚げ物屋の親父が、揚げ物を、虎模様の竹皮に包んで、差し出した。
次が、蒸し饅頭。次が、果実屋。次が、八百屋。
マリカは、屋台街の主人達から、ひとつずつ、受け取った。
受け取りながら、何も、言わなかった。
言葉の代わりに、マリカは、ベルモント家のスパイスポーチから、一つずつ、小瓶を取り出して、それぞれの屋台の縁に、置いていった。
胡椒。クミン。ナツメグの欠片。月桂樹の葉。乾燥した野蒜。屋台街で、彼らの料理が、もうひと層、深くなる種類の、スパイス達だった。
それは、追放の朝に、ベルモント家のキッチンから持ち出した、世界に一つの調合だった。
マリカは、それを、屋台街に、置いていった。
持っていたものを、置いて、出発する——マリカの旅は、こうして始まった日に、もう一度、こうして始まる。
屋台街の南の出口で、五人が、揃っていた。
ルカ。コートの内ポケットに、小刀。
ガルム。背負い籠の中に、布で巻いた肉と、冷蔵壺。
フィリア。ローブの内ポケットに、薬草の麻袋。
サリム。腰のベルトに、九つ目の袋。
マリカ。スパイスポーチが、いつもより、軽くなっていた。
屋台街の南の城門が、五人の後ろで、ゆっくり、開いた。
城門の外に、街道が、まっすぐ、南へ伸びていた。
街道の遠くに、土の匂いの源があった。
マリカは、振り返らなかった。
振り返らない代わりに、最後に一度だけ、空気を、嗅いだ。
屋台街の煙の匂い、井戸の苔の匂い、鍋屋の銅の匂い、それから——昨夜の焚火の、薪が灰になった匂い。
その全部を、覚えた。
覚えてから、マリカは、歩き出した。
歩幅が、広かった。踵が、地面を信じていた。
四人が、その背中の、半歩後ろを、同じ歩幅で歩き始めた。
南からの土の匂いが、五人の鼻先で、一段だけ、濃くなった。
屋台街の南の城門が、五人の背中の後ろで、ゆっくり、閉まった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
Arc2 が、完結します。
EP9 で道草を食う令嬢、EP10 でガルム加入、EP13-14 でフィリア加入、EP17 で「旅の食卓」が初めて開かれ、EP21 でルカが「食えなくはない出来だ」と自分の料理を肯定し、そして今夜、五人が南へ歩き出します。
書き手として最も長く待っていたのは、マリカの「わたくし、帰る場所なんて、ありませんわ」でした。Arc1 から「追放されて、新しい場所を見つけた」マリカが、ここまで「帰らない」とは言わなかった。「帰る場所がない」と、初めて、自分で口にする。
ルカは、それを、見ません。見ない代わりに、椀を差し出す。「食え。冷める」——この一言を、Arc2 の最後に置きたかった。激励でも慰めでも約束でもない、ただ、「食え」。Arc1 から続いてきた「食を通じてしか優しさを表現できない男」が、ここで、最大の優しさを、最小の言葉で渡しました。
朝、マリカが屋台街の主人達からひとつずつ受け取り、代わりにスパイスを置いていく——この往復が書きたかったのです。マリカが追放の朝に、ベルモント家のキッチンから持ち出したスパイス。それを、アペティアの屋台街に置いていく。世界に一つの調合は、これでもう、世界に一つではなくなりました。屋台街の料理人達の手の中で、それぞれの方角に分かれて、続いていきます。
サリムが加わって、五人になりました。Arc3「飢餓の大地」では、サリムの保存食技術と、美食貴族連合の食糧独占が、正面からぶつかります。マリカは、当然、止まらない。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。Arc3 で、また、食卓を開きます。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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