第21話: 旅の食卓の名
今夜は、屋台街の全員に、皿を返す日だった。
マリカは、屋台の縁から、空気を一口吸った。夜の屋台街には、夜の屋台街の匂いがある。一口、と思ったが、実際にはほとんど舌の上で噛んでいた。アペティアの夜は、昼の屋台街とは別の街だった。日中の鼻先が拾うのは煙と油の上澄み。夜の鼻先が拾うのは、その下に沈んでいた発酵の匂い、客の汗の匂い、酒の蒸気、そして火が落ちる時の、楢の灰の細かい香り。
三日経った。
アンリが屋台街に降りてきた、あの朝から、ちょうど三日。
その間、ギルド役人は一度も来なかった。撤去命令は撤回されない。だが、執行もされない。白襟の男が広場の本部の窓から、時々、屋台街の方角を眺めていることだけが、ガルムの目に届いていた。
屋台街の他の主人たちは、口を閉じていた。閉じたまま、串焼き屋の主人が、夕暮れに串をひとつ多く焼いて、屋台の縁にそっと置いていった。揚げ物屋の親父が、夜の仕込みの油を新しく入れ替えてくれた。蒸し饅頭の婆さんが、籠の中から、虎模様の竹皮を一枚、無言で寄越した。
マリカは、それらを、全部、覚えていた。
今夜は、その全員に、皿を返す日だった。
屋台の柱は、もう四本とも、立っていた。
立て直したのは、屋台街の仲間達だった。誰が最初に立てたのか、誰も覚えていない。気がついたら、四本が組まれていて、布の幕が貼られていて、焚き台に楢が三層に組まれていた。
ルカは、その三層を、もう一度組み直していた。
他人が組んだ薪を、そのまま使うのは、彼にはできなかった。だが、組み直しながら、ルカの口元が、わずかに、緩んでいた。マリカの目には、それは、ほとんど笑顔と見分けがつかなかった。
ガルムは、屋台の脇に、布で巻いた肉を三種類、並べていた。
鹿の背肉、外腿、内股。三日間、冷蔵壺の中で、繊維がさらに緻密になった肉だった。ガルムの目利きが、今日が「この肉の最後の食べ頃」と判定する。だから今夜、全部使う。
フィリアは、薬草の麻袋を、いつもより大きく開いていた。
クレスナ草の二種類、フェンウル葉、月桂樹の葉、それから、フィリアが今朝、屋台街の外の野原まで歩いて摘んできた、名前のない苦草。フィリアは、それを「名前は知らないが、食材の声が、合うと言っている」と説明した。
サリムは、屋台の縁に、自分のベルトの小袋を、八つ、並べていた。
砂漠の塩、東の山岳の発酵粉、南方の干し葡萄、西の海岸の海藻の粉、それから——マリカが昨日「七番目の袋」と言い当てた、サリム自身も滅多に出さないという、混合スパイス。
マリカは、屋台の縁で、立っていた。
手の中に、何も持っていなかった。
持っていない両手で、四人の手元を、順番に見ていた。
マリカが、屋台の縁を、指先で一度だけ叩いた。
四人の手が、同時に、動いた。
最初の客が来たのは、日が街壁の向こうに完全に沈んだ頃だった。
串焼き屋の主人。両手に、自分が今朝焼いた串を、三本ぶら下げて。
「嬢ちゃん。今夜の屋台に、串も加えてくれ」
「お代は」
「いらん」
マリカは、串を、屋台の縁に受け取った。串焼き屋の主人は、屋台の前の、誰も使っていない樽の椅子に、自分から腰を下ろした。サリムが、椀を一つ、その前に置いた。椀の中身は、ルカの最初の一皿。
串焼き屋の主人が、椀を、両手で受け取った。
受け取って、しばらく、湯気を見ていた。
それから、何も言わずに、口元に運んだ。
次に来たのは、揚げ物屋の親父だった。次が、蒸し饅頭の婆さん。次が、向かいの果実屋の女主人。次が、八百屋の主。次が、井戸の隣の鍋屋のおじさん。
樽の椅子が、足りなくなった。
屋台街の隅から、誰かが追加で樽を転がしてきた。誰がやったのか、わからなかった。屋台街の主人たちは、もう、屋台の縁を中心に、車座を作り始めていた。
ルカは、火の前で、手を止めない。
一皿目を出した後、二皿目を組み立てる。二皿目の客が変われば、三皿目の素材を変える。串焼き屋の主人には、彼の今朝の串を切り直して、サリムの東の山岳の発酵粉を振った。揚げ物屋の親父には、彼が新しく入れ替えた油の温度を借りて、フィリアの名前のない苦草を瞬時に揚げた。蒸し饅頭の婆さんには、彼女がくれた虎模様の竹皮を、皿の代わりに使った。竹皮の上に、鹿の背肉を、薄く、二枚だけ。
マリカは、それを、ひとつずつ、客のところに運んだ。
運びながら、マリカは、食べていた。
屋台の縁を通り過ぎる時、一口。客に渡す前に、味の確認で、一口。客の食べる様子を見て、リアクションが期待と違ったら、戻ってルカに「ソースをもう一筋」、「火加減を半分」、「塩を一粒だけ」。
マリカの口角が、いつもの暴走令嬢の角度に戻っていた。
「——んまぁ〜〜〜っ!」
串焼き屋の主人の前の竹皮が、ふいに、震えた。
マリカが、屋台の縁で、両手を上げていた。
「ルカ! ルカ! ガルムさんの鹿の背肉、三日寝かせて、いま、これですわ! 繊維が、ほどけてる! ほどけてるんですのよ! わたくし、いつも食べてる繊維を、いま、初めて食べたんですの!」
ルカは、火の前で、振り向かなかった。
振り向かない代わりに、薪を、もう一本足した。
火の中心が、屋台の三皿目の真下に、わずかに、移動した。
マリカは、それを見て、目を細めた。
「移動した」のではない。「合わせた」のだ。マリカの暴走したリアクションが、火に届いた瞬間、ルカが、勝手に、次の皿の温度を予測して、もう動かした。
マリカは、屋台の縁に、椀をひとつ、置いた。
「——ルカ。あなた、わたくしの舌を、もう、聞かなくていいですわね」
ルカは、振り向かなかった。
だが、肉を切る手が、わずかに、止まった。
止まった手が、答えだった。
夜半近く。
屋台の前の車座は、二十人を越えていた。屋台街の主人たちだけでなく、屋台街の客——朝にスパイスをもらった串焼きの客、ルカのスープを飲んだ女、母親に手を引かれた子供——までもが、夜の屋台街の隅で、何かを聞きつけて、戻ってきていた。
その車座の一番外側に、白い調理服の若者が、三人、立っていた。
マリカが、最初に気づいた。
胸の刺繍に、桂冠葉。襟元の銅色の星章は——一つ。グランテーブル一つ星の調理服を着た料理人達だった。三人とも、まだ二十代。アンリの店「鯖と岩塩」の弟子達だろう、と、マリカは判定した。
弟子達は、車座の外側で、立ったまま、ルカの手元を、見ていた。
その手元を、見たまま、三人とも、口を半分、開けていた。
マリカは、屋台の縁から、椀を三つ、持って、車座の外側に歩いた。
「お弟子様達、お席はございませんけれど——立ちながら、いかがですの」
弟子の一人——一番年上らしき若者が、椀を受け取る前に、口を、ようやく閉じた。
「……お師匠が、屋台街に三日連続で来ていらっしゃる、と。理由は、教えてくださらない」
「ですから、いらしたんですの」
「我々は、ただ、見るためだけに——」
「立ちながら飲んでくださいまし。ルカの味の構造、見て、聞いて、嗅いで、食べた方が、わかりますわ」
マリカは、椀を、三人の手に押しつけた。
三人とも、両手で、受け取った。
受け取って、一口飲んで、目を見開いた瞬間——
車座の外側の路地から、足音が一つ、近づいてきた。
ガルムの耳が、両方とも、前を向いた。
黒いコートが、屋台街の路地の角に、現れた。
弟子達が、椀を持ったまま、固まった。
アンリは、ひとりだった。
昨日と同じ、ひとりだった。だが、表情は、昨日とは違っていた。右の眉が、わずかに、上がっていた。
車座の二十人が、誰も振り向かないまま、空気だけが、引いた。屋台の主人たちは、ルカの料理に夢中になっていたから。子供は、虎模様の竹皮の上の鹿肉を、両手で持っていたから。串焼き屋の主人は、椀の中に指を入れて、ソースを舐めていたから。
誰も、三つ星に注目していなかった。
アンリは、それを、しばらく、見ていた。
見てから、車座の外側に、自分から、樽を一つ、転がして持ってきて、座った。
マリカが、最後の一皿を、彼の前に置いた。
今夜の最後の一皿だった。鹿の内股を、ルカが、三日間考えていた手法で仕上げた一皿。表面はガルムの獣人式の炙り、内側はドワーフの溶岩窯原理での火入れ、ソースはフェンウル葉とサリムの七番目の袋の混合スパイスを煮詰めたもの。クレスナ草の上に、フィリアが名前のない苦草を、薄く、一枚。
炙り、火入れ、ソース、クレスナ草、苦草、肉の繊維、塩、香り、最後に料理人の手——九層、あった。
マリカが、皿を置きながら、小さく言った。
「アンリ様。今度は、九層、ですわ」
アンリは、皿を、見た。
見て、フォークを取った。
車座の二十人が、ようやく、振り向いた。
屋台街が、静まった。
夜の屋台街の静まり方は、昼とは違う。昼は喧噪が引く。夜は、夜の音——遠くの井戸の水滴、屋台の灯りの油の燃える微かな音、誰かの椀の縁が皿に触れる音——が、急に、際立つ。
アンリは、フォークを刺した。
肉を、口に運んだ。
咀嚼が、一度。二度。三度。四度。
止まらなかった。
咀嚼を、止めなかった。十二回、二十回、ゆっくりと、最後まで噛んだ。
飲み込んでから、彼は、皿を、自分の膝の上に置いた。
長い、長い、沈黙が、車座の中心に降りた。
アンリは、ようやく、口を開いた。
「——この料理は」
二十人が、息を、止めた。
「誰が、考えた?」
マリカは、屋台の縁から、答えた。
間を、取らなかった。
「わたくしが食べたかったものを、ルカが作りましたの」
アンリは、しばらく、マリカを見ていた。
それから、視線を、火の前のルカに、移した。
ルカは、振り向かなかった。
火の中の楢の薪を、見ていた。
火が、わずかに、低くなった。
ルカが、薪を、もう動かさなかった。
代わりに、口を、開いた。
「——まあ」
ルカの声は、低く、短く、いつものぶっきらぼうだった。
「食えなくはない、出来だ」
ルカは、振り向かなかった。
マリカは、屋台の縁から、振り向いた。
ルカの背中が、火の上気の中で、わずかに、揺れていた。
車座の二十人が、息を、吐いた。
吐いた息が、夜の屋台街の灯りを、一段、明るくした。
アンリが、皿を、屋台の縁に戻した時には、夜半を過ぎていた。
アンリは、屋台の縁に、食銀を三粒、置いた。
昨日までの二粒ではなかった。三粒。一粒分が、何のためなのか、アンリは言わなかった。
言わない代わりに、ルカに、視線を向けた。
「料理人。——勝手にしろ」
ルカが、火の前で、初めて、振り向いた。
アンリの口元が、わずかに、緩んでいた。今度のは、確かに、笑顔だった。
「お前の口癖が、移ってしまったらしい」
アンリは、背を向けた。
黒いコートが、夜の屋台街の灯りの環を、ひとつずつ越えて、闇に紛れていった。
弟子の三人が、椀を持ったまま、しばらく動かなかった。それから、互いに、目を合わせた。目を合わせて、椀の最後の一口を、それぞれ、ゆっくり、飲んだ。
飲んでから、三人とも、屋台の縁に、椀を、両手で返した。
返す時、三人とも、頭を、わずかに、下げた。
翌日から、屋台街には、新しい客が増え始めた。
アペティア中央広場の北側の店——「鯖と岩塩」の常連客の貴族が、降りてきた。グランテーブル一つ星の店の弟子が、視察に来た。二つ星の店の親方が、噂を聞きつけて、屋台街の隅から、ルカの手元を、見ていた。
屋台街の客は、貴族と平民と獣人とエルフとマーフォークが、同じ車座で、肩を寄せていた。
子供が、母親に「あれ、なに?」と聞いた。
母親は、「旅の食卓」と答えた。
子供は、頷いた。頷いて、もう一度、椀を覗き込んだ。
「旅の食卓」の名は、その日のうちに、屋台街全体に広がった。
その夜のうちに、アペティア中央広場に届いた。
三日後には、アペティアの城門の外を出る商人達が、その名を、隣の街まで運んでいた。
屋台の縁では、ルカが、火の前で、まだ、薪を組んでいた。
食銀の三粒目が、屋台の縁の上で、夜が明けるまで、ずっと、光を返していた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
EP21は、Arc1から続いてきた「ルカが自分の料理を信じられない」物語の着地点です。「まあ、食えなくはない、出来だ」——この一言を、ルカが人前で、しかも三つ星の前で、初めて言う。書き手としては Arc1 のEP3から十八話ぶんずっと待っていた瞬間でした。書いた後、しばらく画面を見ていました。
アンリの「勝手にしろ」、これは完全に予定外でした。書きながら、彼がルカに、何かを返したくなったんです。だがアンリは、賞賛も激励もしない男です。何を返すか考えていて、ふと、ルカの口癖が彼の口に乗ってしまった——それを「お前の口癖が、移ってしまったらしい」と本人が照れる。三つ星が照れる、これも書いてからびっくりした場面です。
サリムの八つの小袋、ガルムの三種類の肉、フィリアの名前のない苦草——四人が、それぞれの素材を、それぞれの位置に並べたシーン。私はこの並びを書きたかったのかもしれません。マリカが屋台の縁で「持っていない両手」をしている、そして指で一度だけ叩く——その指の一回で、四人の手が同時に動く。これがArc2全体で築き上げた連携の形でした。
「旅の食卓」の名が、その日のうちに屋台街に広がった、と書きました。でも、本当に広げたのは、車座の二十人と弟子の三人とアンリの「明日も来る」の三日間です。マリカは、ただ食卓を開いていただけです。広めたのは、それを食べた人達でした。
次回 EP22「南へ」で Arc2 が完結します。南部の「飢餓の大地」へ、4人プラス1人の旅の食卓が向かいます。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
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