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「世界中のごはんを食べ尽くす!」——追放令嬢の食い倒れ世界制覇、始めますわ  作者: 歩人


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第20話: 三つ星の沈黙

 黒いコートが、広場の石畳を歩いてくる音は、靴底の革が薄かった。


 マリカは、農夫に椀を渡し終わっていなかった。手の中の木の椀がまだ温かい——午前十時の日差しに、白い湯気をひとすじ立てている。湯気が立つということは、まだ食べ頃だということだ。マリカの体に染みついた料理人の癖が、湯気を見ただけで反射的にそれを判定する。


 判定したまま、マリカは止まっていた。


 三つ星の靴底が、井戸の脇の台座の三歩前で止まった。


「——調理を、見せてもらえるか」


 昨日と同じ声だった。昨日と同じ低さで、昨日と同じ短さで、昨日と同じ言葉だった。だが、隣にいた二つ星の白衣が、今朝はない。


 マリカは、農夫に椀を渡した。


 椀は冷めなかった。農夫が両手で受け取って、口元に運ぶまでに、湯気は最後まで温かいまま残っていた。


「お役人様の許しは、いただいておりませんわ」


 マリカは、振り向かないままで言った。


「ギルドの長の許しもいらない」


 三つ星の声は、低かった。


「私はただ、もう一度、あの皿を食べたい。それだけだ」


 マリカは、振り向いた。


 琥珀色の目が、三つ星の目を、まっすぐ捉えた。


「——では、屋台街にお戻りくださいまし」




 屋台街の借り場所は、まだ片付けが終わっていなかった。


 石畳に倒れていた屋台の柱が、四本のうち二本だけ立て直されていた。立て直したのは、ガルムだった。マリカが知らないうちに、肉を冷蔵壺に戻したあと、ここに戻ってきていたのだろう。


 ルカは、焚き台の前にしゃがんでいた。


 火は、もう一度入っていた。楢の薪が、灰の上で、赤く、ふたつ起きている。広場で水を継ぎ足した鍋とは別の、もっと小さな鍋——朝に下ろしてから一度も使われなかった、本来の調理用の鍋——が、その火の上に置かれていた。


 ガルムが、布で巻いた鹿の背肉を、籠から取り出した。


 冷蔵壺の中で、繊維はまだ生きていた。ガルムの目利きが、二回見直しても、肉の状態を「焼ける」と判定する。


 フィリアは、薬草の麻袋を、内ポケットから取り出した。クレスナ草もフェンウル葉も、一枚も欠けていない。


 四人は、誰も指示を出さなかった。


 指示の代わりに、配置が、自然に決まっていた。火の前にルカ、肉の脇にガルム、薬草の前にフィリア、客の前にマリカ。


 マリカが、屋台の縁を、指先で一度叩いた。


 ルカが、刃を抜いた。




 三つ星は、屋台の三歩前で立っていた。


 マリカは、客の前のはずだったが、屋台の縁に背を預けて、三つ星と並んで立った。三つ星は、ルカの手元を、見ていた。


「——ご職業を、お聞きしてもよろしくて?」


 マリカが、視線を屋台の方に向けたまま、言った。


「料理人だ」


「グランテーブルの三つ星でいらっしゃることは、存じておりますわ。今日お聞きしたいのは、その先ですの」


「先、と来たか」


「三つ星になる前に、どこで何を作っていらしたのか、ですわ」


 三つ星の唇が、わずかに動いた。笑った、と判定するには動きが小さすぎた。だが、マリカの目には、それは確かに、二十八年ぶりに口元を緩めた老料理人の笑い方に見えた。


「アペティアの南、二十五里。漁村だ。鯖と岩塩しかない村だった」


「鯖と岩塩だけで、三つ星になられたんですの」


「鯖の脂で岩塩を溶かせば、塩は塩でなくなる。それを十年やった」


「お名前を、お聞きしてもよろしくて?」


「アンリ」


 マリカは、視線を屋台に戻した。


 ルカが、肉の薄削ぎを、最後の一枚に取り掛かっていた。




 完成した一皿が、屋台の縁に並んだ。


 白い陶の皿。中央に鹿の背肉が三枚。背肉の薄削ぎは、外腿よりさらに繊維が細かい。表面が琥珀色に締まり、断面はほとんど薄桃色のまま、油が表面で薄い膜になって光を返す。


 肉の脇に、フィリアが選んだ石灰質土壌のクレスナ草。さらに脇に、フェンウル葉のソース——昨日より一段、煮詰めが強い。


 その上に、ルカが今日初めて足した素材があった。


 月桂樹の葉を、薄く揚げたもの。


 マリカは、屋台の縁から、一歩離れた。


「アンリ様。お召し上がりくださいまし」


 マリカは、皿を、屋台の縁の上に、自分の手で置いた。台座にではない。ルカが立っている火の前から、二歩、客側に近づけたところに。


 アンリは、皿を、両手で受け取った。


 受け取る時、視線がルカに飛んだ。ルカは、火の中の最後の楢を、わずかに動かしただけで、目は上げなかった。


 アンリは、フォークを取らなかった。代わりに、皿を鼻に近づけた。


 二秒、嗅いだ。


 目を閉じた。


 目を閉じたまま、彼は、ようやくフォークを取った。


 鹿肉の薄削ぎを、一枚、刺した。




 肉が、唇に触れた瞬間、アンリの右の眉が、一度だけ持ち上がった。


 咀嚼が、一度。


 唇の内側で、ソースが、舌の上に広がる。アンリの喉が、わずかに動いた。


 咀嚼が、二度。


 月桂樹の揚げの欠片が、奥歯で砕ける。


 咀嚼が、三度。


 クレスナ草の繊維が、フェンウル葉の出汁と、一度だけ、橋を架ける。


 四度目で、止まった。


 止まったまま、アンリの目が、ゆっくり開いた。


 彼は、フォークを、皿の縁にそっと戻した。


 屋台街の喧噪が、いつの間にか、引いていた。隣の串焼き屋の主人が、串を回す手を止めていた。揚げ物屋の親父が、油の温度を確かめる手を、忘れていた。蒸し饅頭の婆さんが、籠の蓋を半分開けたまま、止まっていた。


 誰も、何も言わなかった。


 マリカも、何も言わなかった。


 アンリが、ようやく、口を開いた。


「——この味の構造、何層ある?」


 マリカは、屋台の縁から、二歩、屋台の方に戻った。


「七層、ですわ」


「七」


「最初に、表皮の脂の甘味。次に、フェンウル葉の出汁の旨味。三層目に、クレスナ草の塩気——石灰質土壌で育った、本来のクレスナ草とは違う、後味に残る塩気の方ですわ。四層目に、月桂樹を薄揚げにした香りの皮。それが破れた後、五層目に鹿の繊維の本来の脂の甘味。六層目に、ドワーフの溶岩窯の原理を借りた表面の焦げの苦味——アペティアには溶岩窯がございませんから、楢の薪を三層に組んで、火の中心を肉の真下にだけ集めた手法ですわ。最後、七層目に——」


 マリカは、ここで、一度、口を閉じた。


 火の前のルカに、視線をやった。


 ルカは、目を上げなかった。だが、薪を組み直す手が、わずかに、止まっていた。


「——七層目に、料理人の手ですわ」


 アンリは、しばらく、何も言わなかった。


 屋台街の風が、低く一度、流れた。


 そして、低く、言った。


「……その分析は、正確だ」




 アンリは、二口目を運んだ。


 二口目で、目を閉じた。


 三口目で、皿を持ち上げて、フェンウル葉のソースを、皿の縁に指で寄せた。指の腹に、薄い緑が残った。


 それを、舐めた。


 舐め終わってから、アンリは、ルカを見た。


「——料理人」


 ルカは、ようやく、目を上げた。


「……何だ」


「私はアンリ。グランテーブルの三つ星だ。私の店は、アペティア中央広場の北側、ギルド本部の隣の、地下の店。客は十二人しか入らない。だが、皿を一つ出すたびに、貴族が二週間待つ」


「……」


「うちで、預からないか」


 ルカは、火の中の楢の薪を、一本、動かした。


 動かした手が、止まらなかった。


 止まらなかった手が、答えだった。


 だが——


「うちのルカですけど?」


 マリカの声が、屋台の縁から、間髪入れずに飛んだ。


 屋台街の風が、もう一度、低く流れた。


 アンリは、振り返って、マリカを見た。


 マリカは、視線を逸らさなかった。琥珀色の目が、まっすぐ、三つ星の目を返した。


 マリカ自身は、自分が何を言ったか、よくわかっていなかった。「優秀な料理人を手放したくない」のはわかっていた。「うちのルカ」と言った理由は、そこ、のはずだった。そのはず、だが——


 屋台街の喧噪が、また、ふいに、引いた。


 ガルムが、籠の脇で、両耳を前に倒した。


 フィリアが、薬草を畳む手を、止めた。


 ルカが、火の中の薪を、もう動かさなかった。


 マリカは、自分の手が、いつの間にか、屋台の縁を、強く握っていることに、気づかなかった。




 その時、屋台街の風の中に、新しい匂いが、立った。


 マリカが、最初に気づいた。


 胡椒——いや、胡椒よりもっと尖った、刺激の長い辛味。クミン——いや、もっと深く、煎り具合が違う。それから、見たことのない、嗅いだことのない、東のスパイス。マリカの嗅覚センサーが、一瞬で三十数種類のスパイスを並べて、その中に一つも当てはまるものがないことを、確認した。


 マリカの目が、輝いた。


「——これ、何ですの?」


 マリカは、屋台の縁から、もう三つ星のことも、ルカのことも、忘れて、ガルムの背後に走った。


 ガルムの後ろ、屋台街の四軒先の路地から、軽い足取りの男が、出てきていた。


 頭布を巻いた、痩せ型の男。腰のベルトに、二十は超える小袋がぶら下がっている。袋の中身が、歩くたびに、互いに別々の音を立てて鳴る。男の右耳に、金のイヤリングが揺れていた。


 男は、屋台街の隅で立ち止まって、しばらく、マリカの屋台を眺めていた。眺めながら、片方の口角だけを上げた。眺めながら、自分の腰の小袋から、一つを取り出して、指の腹で香りを確かめた。


 マリカが、駆け寄った。


「お兄様、その腰の袋——」


 男は、腰の袋に手をかけたまま、止まった。砂が混じったような、乾いた笑いを含む声で、軽く応えた。


「お嬢さん、ずいぶん即答でしたな」


 マリカは、止まった。


「は?」


「『うちのルカですけど?』」


 マリカの頬が、初めて、わずかに赤くなった。


 目に見えるほどではなかった。だが、ガルムの耳には、頬の毛細血管の温度が一段上がる気配が、はっきりと届いた。


「……あれは、優秀な料理人を、手放したくないだけですわ」


「ええ、ええ。そうでしょうとも」


 男の口角が、もう一段、上がった。


「ナジール族のサリム。砂漠の商人をしておりやす。お嬢さんの鼻、よく利きますな。私のベルトの三番目の袋——あれは、東の山岳でしか取れない、葡萄の種を発酵させた粉でね。値はそこそこですが、お嬢さんになら、特別に——」


 マリカは、口角を、わずかに、戻した。


「サリムさん。お話の前に、ひとつ、お聞きしますわ」


「ええ、何なりと」


「そのベルトの七番目の袋、——わたくし、嗅いだことがありませんわ」


 サリムは、しばらく、マリカを見ていた。


 見てから、笑った。


 今度の笑い方は、目が完全に開いた。砂漠の日差しに細められていた目が、ようやく、初めて、まっすぐマリカを映した。




 マリカが、サリムの腰のベルトを覗き込んでいる、その間。


 屋台街の中央では、まだ、アンリと、ルカが、向かい合っていた。


 アンリは、皿の中の、最後の一枚の鹿肉の薄削ぎを、見ていた。


 ルカは、火の中の楢の薪を、見ていた。


 二人の間に、視線は通っていなかった。だが、二人の沈黙は、別々の方角を向きながら、同じ太さで降りていた。


 アンリが、ようやく、ぽつりと言った。


「……返事は、聞かなかったことにしよう」


 ルカの手が、楢の薪の上で、わずかに止まった。


「だが、私は明日も来る。明後日も来る。屋台の片付けが終わったら、また、ここに来る」


 アンリは、皿の縁に、食銀を二粒、置いた。


 昨日と同じ二粒だった。


 最後の一枚の鹿肉を、フォークで刺して、口に運んで——咀嚼を、しなかった。舌の上で、ゆっくり、溶かすように味わって、それから、皿を屋台の縁に静かに置いた。


 アンリは、屋台の縁の食銀を、左手で揃え直してから、背を向けた。


 黒いコートが、屋台街の路地に、消えていく。


 屋台街の喧噪が、戻ってきた。串焼き屋の主人が、串を回す手を再開した。揚げ物屋の親父が、油の温度を確かめる手を、思い出した。蒸し饅頭の婆さんが、籠の蓋を、ようやく閉めた。


 ルカは、火の前で、まだ、薪を動かしていなかった。


 ルカの左手の、火傷の跡が、午前十時を過ぎた日差しの中で、わずかに、白くなっていた。


 屋台の縁の食銀二粒が、午後に近づきつつある日差しの中で、静かに、光を返していた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


EP20は、Arc2の感情のピークです。三つ星料理人アンリが屋台街に降りてきて、ルカの料理を口にする——その瞬間に立ち会えただけで、自分自身がこの場面を書く資格をようやく得た気がしました。アンリの「鯖と岩塩だけで三つ星になった」過去は、本文を書きながら降ってきた設定です。彼が漁村出身であること、十年かけて塩を塩でなくしたこと——それが、ルカの「壊しきれない矜持」と静かに呼応します。


七層分析のシーン、書きながら笑ってしまいました。マリカは、本当に、料理を七層に分解できる。だがそれよりも、最後の「七層目に、料理人の手」という追加——これだけは、味の分析ではなく、ルカへの視線でした。マリカ自身が、それに気づいていない。書き手の私は、書いてしまった後で、ようやく気づきました。


「うちのルカですけど?」が出る前から、ガルムの耳が両方とも前を向いていた。ガルムだけが、この一行が出ることを、空気の温度で予測していました。獣人の感覚は、ロマンスを言葉より先に拾う。これは Arc4 でもう一度、別の場面で機能します。


サリム登場。彼は今後、旅の食卓の交渉担当として、マリカ達の暴走を「商人の倫理」で支える役回りになります。最初の登場で「ずいぶん即答でしたな」と笑わせるのは、彼が「言葉で人を傷つけずに、空気を一段下げる」職人だからです。本人は飄々としてますが、Arc3の砂漠で、彼の本当の重みが見えます。


Arc2 のラスト二話——EP21「旅の食卓の名」、EP22「南へ」——で、ルカが初めて「食えなくはない出来だ」と人前で自分の料理を認めます。Arc1から続いた成長線が、ここでようやく着地します。


◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇


▼ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ

婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。


・「お前は道具だった」と笑った婚約者が〜【知略型】

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