第18話: また、か
刃が、いつもよりわずかに重かった。
ルカは小刀の柄を握り直した。指の置き方は同じ。刃の角度も同じ。なのに、肘から肩に伝う重みが昨日と違う。
昨日、三つ星が皿を空にして言った——「明日も来る」。
それから一晩明けて、屋台一角の石畳は、まだ夜露を残している。楢の薪はまだ組まれていない。火を入れるのはあと一刻ほど後だ。
マリカは、まだ来ない。
昨日の朝なら、ルカが石畳に降りた頃にはもう屋台の縁に手をついて、屋台街の匂いを四つに数え分けているはずだった。今朝の屋台街には、栗色の足音がまだ降りていない。代わりに、宿の方角の靄の中に、何かを考え込む気配だけが、薄く残っている。
ルカは石畳の上に、布を一枚広げた。
ガルムが夜のうちに獲ってきた鹿肉の塊が、今朝も布の上で待っている。昨日と同じ外腿——ではなく、今日は背肉だった。脂が少なく、繊維が細かい。ガルムが「三つ星が来るなら、これだ」と無言で差し出した。
ルカは肉の上に手のひらを置いた。
体温と、肉の冷たさが、二度、指の関節を押し返した。
いい肉だった。今までで一番——いや、その台詞はもう昨日使った。
「ルカ」
マリカが屋台の縁に手をついた。
夜明けの靄の中で、栗色のウェーブヘアが背中に流れている。腰のスパイスポーチが、いつもより少し重そうに揺れていた。
「今日も同じ皿、ですの?」
「いや。背肉だ。脂が違う」
「ですわよね」
マリカは一度だけ頷いた。それだけだった。昨日の朝なら、もう屋台街を二、三軒走り回って戻ってきている時間だ。今朝は屋台の縁から離れない。
「お前、走らないのか」
ルカは、布の上の鹿の背肉から目を上げないまま言った。
「走りますわ。でも、その前に——」
マリカは屋台の奥のガルムを見た。ガルムは籠の上で目を閉じていた。寝ているわけではない。耳が両方とも前を向いている。
「ガルムさん。風、変わりましたわね」
ガルムの耳が、片方だけわずかに揺れた。
「西から、革の匂いだ」
「革——」
「ぶ厚い革。書類を巻く帯の革だ。革の匂いの後ろに、鉄粉の匂いがついてる」
ルカは小刀を、石畳の布の上に置いた。
革と鉄粉。鉄粉は帳簿を書く時のインク。革は——書類を運ぶ役人が腰に巻く帯。ガルムが言葉にしなくても、ルカにはわかった。マリカにもわかった。
屋台街の路地の奥から、足音が三つ、近づいてきていた。
最初に見えたのは、白い飾り襟だった。
三人。先頭は中年の男で、グランテーブルの調理服とは違う、官吏服を着ている。襟元に銀の縁飾り。胸にはギルドの紋章——だが料理人の桂冠葉ではなく、書類を巻いた羊皮の意匠だった。役職を表す紋。
後ろの二人は若い。同じ官吏服だが、紋章はない。書記補佐だろう。手に革綴じの書類束を抱えている。
三人が屋台の前に止まった。
屋台街の喧噪が、わずかに、引いた。
昨日と同じ「ふい」の引き方だった。だが昨日は三つ星の調理服がもたらした緊張で、今朝は別の理由——役人の白襟がもたらす、別の種類の沈黙だった。
先頭の男が、咳払いを一つした。
「失礼。料理ギルド〈グランテーブル〉から、書面の伝達に参った」
ルカは振り向かなかった。布の上の鹿の背肉に目を落としたまま、片手で小刀を持ち直しただけだった。
「——伝達?」
マリカが屋台の縁から離れた。マリカが屋台の縁から離れる時の足音は、いつも世界に対して斜めに踏み込む。今朝もそうだった。
「お聞きしますわ」
「規約第十二条三項、無星営業の規制条項。アペティア中央区および第一裏通り区域における料理営業は、グランテーブル星位の保有者に限ると定められている。本日午前を以て、当該屋台は撤去命令の対象である」
マリカは、屋台の縁に手を戻した。
「規約、ですの」
「然り」
「お役人様。昨日、こちらの屋台で食事をなさった方の名前を、ご存知ですわ?」
白襟の男の目が、わずかに泳いだ。
「……三つ星のお一方、と聞いている」
「ご存知ですわよね。三つ星の方が、わたくしの屋台で皿を空にされた。咀嚼が四度止まりましたわ。三つ星の咀嚼が止まるのは、何年に一度のことですの?」
「お嬢さん、それは——」
「『明日も来る』とおっしゃいましたわ。明日が、今日ですの。今、お役人様が撤去なさいますと、あの方が戻られた時、皿がございませんわよ」
白襟の男は黙った。黙り方に種類があった。困っているのではない——あらかじめ用意された沈黙だった。
彼は、後ろの書記補佐に手を伸ばした。書記補佐が革綴じの書類を一冊渡した。
男は、書類を開いた。
屋台の縁に、それを置いた。
ルカは、布の上の鹿肉から、ようやく顔を上げた。
書類の一行目に、自分の名前があった。
「ルカ・アルディーニ」——平民出身、宮廷料理人歴五年、宮廷料理長就任満年齢二十、就任後二年で告発、当該年以降の所在不明。
二行目に、追放理由の項。「味覚障害の疑い」。
ルカは書類を見ていた。文字を読んでいるのではない。文字の形を見ていた。羊皮紙の縁の擦れ方、インクの薄れ方。十年は経った書類ではないが、二年は経っている。誰かが——誰かが、この書類をずっと持っていた。
「ルカ・アルディーニ。宮廷料理長より追放された料理人」
白襟の男の声は、ゆっくりだった。
「追放された料理人が、食の都で店を開くとは。——これは、星位以前の問題でございますな」
ルカは、書類の縁を指先で押した。
羊皮紙が、二度、指を押し返した。
いい紙だった。宮廷で同じ厚みの紙を、何度も触ったことがある。
「お役人様」
マリカの声が、ふいに、低くなった。
「その書類、どちらでお手に入れに?」
「ギルド本部の文書室でございます」
「文書室、ですの」
「宮廷からの正式な照会回答書でございますれば」
「では、お聞きしますわね。——ルカ・アルディーニの追放理由について、宮廷からの記述には、何と」
「味覚障害の疑い、と」
「『疑い』ですわね」
「然り」
「『確定』ではございませんわね」
白襟の男が、口を開きかけた。
マリカが手を上げた。
「お答えいただかなくて結構ですわ。書類にそう書いてあるのが、答えですもの。——お役人様。今朝、わたくしの料理人の塩加減を、お確かめになりまして?」
「は?」
「お確かめになっておりませんわよね。なら——」
「お嬢さん」
白襟の男は、書類を閉じた。
「規約は規約でございます。屋台は撤去願います。本日午前十時を期限といたします」
マリカは黙った。
黙り方に、特徴があった。マリカが本気で怒っている時の黙り方だった。鼻の穴がわずかに広がる——のではない。広がらない。眉も寄せない。唇も結ばない。ただ、屋台の縁を握っている右手の指の関節だけが、白くなる。
「——わかりましたわ」
マリカは、頷いた。
「午前十時ですわね。撤去いたしますわ」
白襟の男は、軽く会釈をした。
書記補佐の二人が、書類を畳んで腕に抱え直した。三人は背を向けた。屋台街の路地に消えていく。彼らの背中の後ろで、屋台街の音が、ふいに、また戻ってきた。
ルカは、布の上の鹿肉を、見ていた。
切るべき肉だった。三つ星のために用意した、今までで一番上等な肉だった。ガルムが夜のうちに北の斜面を一刻半歩いて、選んで、解体して、運んできた肉だった。
切らないことに、決まった。
「——また、か」
ルカは、低く呟いた。
マリカが、振り向いた。
「ルカ」
「マリカ。お前は屋台街を回ってこい。昨日まだ食ってない屋台が三軒ある。俺はここを片付ける」
マリカは、屋台の縁に手をついた。指の関節がまだ白かった。
ルカはマリカの方を見なかった。見なかった代わりに、布の端を一つ持ち上げて、鹿の背肉を布で包み直した。包むときの手の動きが、丁寧すぎた。マリカは、それに気づいた。
「ルカ。こっちを見てくださいまし」
ルカは応えなかった。布を畳む手だけが、もう一度だけ、いつもより丁寧に動いた。
マリカが、屋台の縁から手を離した。その手が、宙で一度だけ止まり、それから屋台の柱を越えて、中へ入った。
マリカが屋台の中に入るのは、初めてだった。今までずっと、客側にいた。指揮はしても、火の前には立たなかった——その境界線を、靴の踵が一つ越えた。
マリカが、ルカの隣に立った。
火の上気が、栗色の前髪を撫でて流れる。ルカの肘の高さで、マリカの肩が止まる。距離が一尺もない。
ルカは、布を畳む手を、止めた。
「マリカ」
「ルカ。宮廷で、何があったのか、もう一度、教えてくださいまし」
「……何度も話した」
「もう一度ですわ。今、聞きたいですの」
ルカは、布を畳んだ。最後まで畳んだ。
「晩餐会で、俺の料理を出した。貴族が一人、味がおかしいと言った。それから、もう一人。それから、全員」
「料理長は、皿を確かめて、首を横に振った。——俺の料理を、否定した」
「ルカの味覚を、ですわね」
ルカは答えなかった。代わりに、左手の指を一度開いて、握り直した。火傷の跡が、夜明けの光の中で、白くなっていた。
「ルカの味覚は、狂っていませんわ」
「知ってる」
「『疑い』止まりで、宮廷から追放されたのですわ。あの書類、嘘ではないですけれど、本当のことを書いていませんわ。——『疑い』を理由に追放する宮廷も、その『疑い』を確定したかのように使うグランテーブルも、間違っていますわ」
ルカは、畳んだ布を、屋台の隅に置いた。
マリカは、ルカの手元を見ていた。マリカの琥珀色の目が、火を入れていない焚き台を、写していた。
「マリカ。——俺の料理に、また誰かが文句を言うのか」
マリカは、ルカの左手を、見ていた。火傷の跡の白さを。
「言わせませんわ。今度は」
ルカは、ようやく、マリカの方を見た。
マリカの右手は、まだ屋台の縁の形を覚えたまま、宙に残っていた。だが、目だけが、いつもの琥珀色に戻りつつあった。火が灯っていた。怒りの火ではない。設計の火だった。
ガルムは、籠の縁に座ったまま、屋台を片付ける二人を見ていた。
フィリアは、薬草の麻袋を、無言で焚き台の脇から拾い上げた。クレスナ草もフェンウル葉も、まだ使われていない。彼女はそれをローブの内ポケットに、一枚ずつ、丁寧に仕舞った。
マリカは、フィリアの手元を見た。
「フィリアさん。その葉、捨てないでくださいまし」
「捨てません」
フィリアは麻袋の口を、いつもよりきつく結び直した。返事の前に、もう手が動いていた。
「使う日が、来ますわ」
フィリアは、頷きの代わりに、麻袋をローブの内ポケットの一番奥に押し込んだ。
ガルムが、籠から降りた。両足の音が、石畳に二つ、降りた。
「俺は、肉を、もう一度、持ち帰る」
「ガルムさん。捨てないでくださいまし」
「捨てない。冷蔵の壺がある」
「ありがとう」
ガルムは、布で巻いた鹿の背肉を、自分の背負い籠に戻した。籠の蓋を閉める時、ガルムの耳が、両方ともマリカの方を向いていた。
「嬢ちゃん。どこへ、行く」
マリカは、屋台の縁の汚れを、布で拭った。最後の一拭きだった。
「ギルド本部ですわ。お役人様にお話を聞かれなかったので、わたくしから、お話に行きますの」
ガルムの耳が、片方だけ前に倒れた。
「何を、話す」
「食に許可がいるのか、というお話を、ですわ」
ルカが、屋台の柱を倒しかけていた手を、止めた。
「マリカ」
「ルカ」
「行くな、とは言わない。だが、計画は——」
「計画は、行きながら立てますわ」
「いつものお前だな」
「いつものわたくしですわ」
マリカは、屋台の縁から、最後に手を離した。
屋台の柱が四本、石畳に倒れた。火を入れていない焚き台の上で、楢の薪が、組まれないまま、白っぽく乾いていた。
マリカは、自分の腰のスパイスポーチに、手を当てた。
革の感触が、いつもより少し冷たかった。
いつもなら、屋台街の角を曲がるまでに、マリカは三つの屋台で何かを口に運んでいるはずだった。今朝は、串焼きの主人が「嬢ちゃん、今日は——」と声をかけたのに、マリカは振り向かなかった。
マリカは、食べなかった。
マリカが食べないのは、本気で怒っている時だけだ。
屋台街の朝の喧噪の中で、屋台の柱の影だけが、石畳の上に四本、横たわっていた。
組まれなかった楢の薪が、組まれないまま、朝の光を吸って、白く乾いていく。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
EP18は、Arc2で唯一「料理が出てこない話」です。マリカが食べない、ルカが切らない、フィリアが葉を仕舞う、ガルムが肉を持ち帰る——「食卓が奪われる」という異常事態を、料理を一切描かないことで読者の身体に直接刺し込みたかった。普段、食欲をかきたてる描写でページを進めてきたグルメ小説が、ふっと一話だけ食欲を奪う方向に振れる。この落差で「マリカの怒りの深さ」が伝わるはず——伝わってくれていたら、と祈ります。
ルカの「また、か」の一言は、Arc1 EP3で開示した宮廷追放の過去と呼応しています。宮廷で味覚を否定された男が、辺境を二年放浪して、ようやく屋台の片隅で自分の料理に点数をつけてもらえる場所を見つけた。その場所が、たった一日で「規約違反」を理由に奪われる。彼の中で何が起きているか、地の文では一切書いていません。布を畳む手が丁寧すぎる、という描写だけで伝わってほしい——これも祈りに近い書き方でした。
マリカが屋台の中に入って、ルカの隣に立つシーン。今までずっと客側にいた令嬢が、料理人の側に踏み込む。物理的にも、関係性の上でも、初めての越境です。本人は無自覚ですが、ルカは気づいています。気づいた上で、ルカは「うるさい」と返す——「ありがとう」と返したら泣くから。この距離感、いつまで続けるんだろう、と書きながら考えています。
EP19はマリカがギルド本部に乗り込みます。「食に許可がいるんですの?」——この台詞が、Arc2の隠れた主題に直結します。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
▼ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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