第17話: 屋台の一皿
朝靄の匂いが、四つに分かれていた。
マリカは宿の窓を細く開けて、空気を一口吸った。一口、と本人が思っている。実際にはほとんど舌の上で噛んでいる。アペティアの夜明けは灰色の靄が低く街を覆っていて、その靄の中に四つの層があった。
一層目——遠い窯の煙。誰かが夜通し火を絶やさず、もう朝の仕込みに入っている。楢ではない。栗だ。果実の蒸気と一緒に上ってくるから、おそらく焼き菓子。
二層目——海の方角の塩。マーフォークの水路市場が動き始めている。
三層目——獣人の屋台街の炭火。昨夜の灰が、湿った石畳を温め直している。
四層目——これが一番面白い。土の匂いだ。畑から運ばれてきたばかりの根菜が、まだ朝露を抱えたまま市場に降りている。
「——ですわね」
マリカは小さく頷いた。
誰にも聞こえない返事だった。
背中で、フィリアがフードを被り直す気配がした。
「マリカさん。……朝食、もう食べました?」
「窓の外を、ですわ」
フィリアの肩が、わずかに揺れた。笑ったらしい。マリカは振り返らなかった。振り返ると、フィリアがすぐに表情を引っ込めることを知っている。エルフの百二十七年は、笑顔をしまうのが上手すぎる。
「ガルムさんとは、市場の前で合流ですわね」
「はい。私は薬草の卸を回ってから、合流します」
「ルカは——」
「もう、出ています」
マリカはようやく振り返った。
隣の部屋の扉が、わずかに開いていた。ルカの寝台の上に、宿の毛布がきっちり折りたたまれて置かれている。コートはない。小刀もない。ルカが夜明け前に動くのは、本気で料理を組み立てる日だけだ。
窓の外で、靄が一段薄くなった。
日の出が、屋根の縁を細く撫でていく。
屋台一角の借り場所は、串焼きの主人の店の脇、五尺四方の石畳だった。
ルカは焚き台の前にしゃがんでいた。
手のひらで石の冷たさを確かめている。指先で、二度。三度。石の縁が指を二度押し返す——夜の冷えがまだ抜けていない。火を入れるなら、まず石を温める必要がある。
左手で、小刀を抜いた。
刃の重みが、肘から肩まで伝う。慣れた重みだ。慣れすぎている。宮廷の厨房で握っていた包丁とは別物のはずなのに、握った指の置き方は同じだった。身体は嘘をつかない。マリカに、いつかそう言われた気がする。
「——ルカ」
声がした。低く、短く。背負い籠を石畳に下ろす音が続く。籠の縁が石に触れる、その触れ方で、中の重さがわかった。ガルムは食材を載せる時、必ず一度浮かせてから下ろす。地面の硬さを食材に伝えない置き方。獣人の猟師の、誰にも教わっていない作法。
籠の覆いがめくられた。
ルカは目を上げない。匂いで先に肉を見る。脂の融点がやや低い。木の実中心の食性。歳は四つほど。撃たれた場所は——腿だ。
「内股と外腿。両方持ってきた」
「外腿を、薄く削ぐ。内股は……ゆっくり仕上げる」
ガルムは籠の縁を二度叩いた。同意の合図だった。
会話はそこで終わった。ガルムが籠の中から布で巻いた塊を一つ一つ取り出していく。ルカは目を上げる代わりに、左の指先で布の上から肉の感触を確かめた。布越しに、弾力が指の関節を二度押し返した。
いい肉だ。
今までで一番。
言葉にすると、なんとなく取り消したくなった。
「ルカさん」
フィリアが来た時、ルカはすでに焚き台に火を入れていた。
灰の上に細い枝、その上に小さな炭、最後に楢の薪を一本。火を起こす手順は宮廷で習ったわけではない。辺境を二年放浪する間に、酒場の親父から教わった。三層に組まなければ、楢は煙ばかり出して芯まで火が通らない。
「薬草、選んできました」
「見せてくれ」
フィリアが小さな麻袋を差し出した。
ルカは中身を石畳に並べた。
クレスナ草——辺境で食べた、あの苦味の草が、ここにも入っている。フィリアは違う山系のものを選んでいた。葉脈が太く、根元がわずかに赤い。
「同じ草か」
「同じ名前です。育つ土が違います。この子は——石灰質の畑で育ちました」
「苦味は」
「弱いです。代わりに、後味に塩気が残ります」
ルカは葉を一枚、口に運んだ。
噛んで、止まった。
石灰質の土の塩気。フィリアの言う通りだった。これは——鹿の脂の甘さに合わせるには、辺境のクレスナ草より素直だ。ソースの一番下に敷ける。
「使う。これと、こっちの——なんだ、これ」
別の葉だった。手のひらほどの大きさ。ルカが見たことのない葉脈の走り方。
「フェンウルの葉です」
「フェンウル」
「エルフの里で、お祝いの食卓に使う葉です。煮ると、出汁が出ます」
「出汁が」
「鶏とも、魚とも、根菜とも違う出汁です。——里では、味のわからない私が選ぶことになっていました。客に出す日の朝、誰かが選び損ねた時の予備として」
フィリアの言葉が、淡々としていた。
ルカは葉を一枚指でつまんで、こすった。指の腹に、薄い樹脂のような感触。香りは——ない。鼻には届かない。だが、口に運ぶと、舌の奥がかすかに波打った。
「これは——出汁になるな」
「はい」
「フィリア。お前、味がわからないんじゃなかったか」
「わかりません。だから、味のわかる人が選ばないものを選びます」
ルカは葉を、麻袋ごと焚き台の脇に置いた。
「マリカが来たら、これを真っ先に見せろ」
フィリアはフードの奥で頷いた。
短い肯定のあとで、フィリアの肩が、ほんの少しだけ持ち上がった。
マリカが屋台に着いたのは、楢の薪が一段細くなった頃だった。
ルカは焚き台の前で振り向かなかった。振り向かなくても、足音でわかる。マリカの足音は、屋台街の他の足音と、リズムが違う。歩幅が広く、踵が地面を信じている。
「——ルカ。間に合いましたわね」
「何にだ」
「夜明けですわ」
マリカが屋台の縁に手をついて、焚き台を覗き込んだ。スパイスポーチを左腰に下げたまま、上体だけ前に倒している。栗色の前髪が、火の上気で揺れた。
「鹿の外腿、薄く削いでいますわね。炙る前に、塩はしませんの?」
「クレスナで塩気を出す」
マリカは三秒、黙った。視線が焚き台の脇の麻袋に止まる。
ルカが鹿肉に視線を戻すのと同時に、マリカが言った。
「フィリアさん、別の葉を出してくれていますわ。——フェ……」
マリカの声が、途中で止まった。
ルカは火に枝を一本足した。火越しの空気の温度が、わずかに動く——マリカの目が見開かれているのが、それでわかった。マリカが大きく息を吸う時、屋台の上の空気の層が、一段だけ低くなる。
「フェンウル。エルフの里の祝い葉ですわね」
ルカは鹿肉の薄削ぎに目を落としたまま、答えなかった。答えは、薪を組む手の置き方が代わりに言った。
「これを、出汁に使いますの。——鹿の脂と、クレスナ草の塩気と、フェンウルの出汁。一皿に、ですわね」
ルカは口を開きかけて、閉じた。「黙れ」が喉まで来て、引っ込んだ。代わりに、もう一本だけ楢の枝を、火の真ん中に置いた。
火の粉が、二つ、三つ、上に舞った。
返事はしなかった。返事をすると、声が震える気がした。マリカに気づかれるほどではない、はずだったが——マリカは食以外の領域では注意欠陥のはずなのに、こういう時だけ妙に勘がいい。
「種族の壁が、消えますわね」
マリカの声が、ふいに、低くなった。
「ルカ。——宮廷で出したかった料理、覚えていますの?」
「忘れた」
「嘘ですわ」
ルカは答えなかった。火を、もう一段だけ強くしただけだった。
「今日、それを出しますの」
「だから、うるさいと言っている」
マリカは、ふっと笑った。
笑い方が、いつもより静かだった。
ルカは振り向かないまま、薪の位置を一本だけ動かした。火の中心が、ほんの一寸、鹿肉の真下に移動した。
屋台の蓋を開けたのは、日が街壁を二寸越えた頃だった。
最初の客は、隣の串焼き屋の主人——昨日マリカにスパイスを譲られた中年男だった。腕組みをして、屋台の前に立っている。
「嬢ちゃん。何屋だ、これは」
「何屋だと思いまして?」
「鹿肉の屋台にしては、葉っぱが多すぎる。薬草屋にしては、火が大きすぎる。獣人の屋台にしては、人間が仕切っている」
「全部、当たっていますわね」
「だから、何屋だ」
マリカは、屋台の縁に手をついた。
「旅の食卓ですわ」
主人は、しばらく黙っていた。
黙り方に、特徴があった。鼻の穴がわずかに広がり、口角が斜めに上がり、視線だけ屋台の奥のルカに飛んでいる。料理人を見る目だった。
「……一皿、くれ」
「銀貨二粒ですの」
「高いな」
「鹿の外腿の希少部位ですわ。ドワーフの溶岩窯の原理で焼いた表皮と、エルフのフェンウル葉の出汁、辺境のクレスナ草。ソースは初見ですわよ」
「初見、と来たか」
主人は、二粒銀貨を屋台に置いた。
ルカが、無言で皿を一つ持ち上げた。
白い陶の皿に——鹿肉が、三枚。外腿の薄削ぎが、二枚重ねて炙られている。表面が琥珀色に締まり、中は薄桃色のまま、断面で光を返した。横にクレスナ草の炒め、その上に薄い緑色のソース。フェンウル葉を煮詰めた出汁に、鹿の脂を少しだけ落とした、薄絹のようなソースだった。
主人は、皿を受け取って、しばらく見ていた。
石畳の上で、屋台街の朝の喧噪が、ふいに遠くなった。
主人が、フォークを刺した。
刺し方に、迷いがあった。料理人として「これは食ったことがない」と確認している、その迷い方だった。
肉を、口に運んだ。
主人の咀嚼が、二度、止まった。
三度目で、目が見開いた。
四度目で、何も言わずに皿の二枚目に手を伸ばした。
「——おい」
ルカが、低く言った。
「何だ」
「感想は」
「言ったら、お前さんに何か払うことになりそうだから、言わない」
ルカが、初めて、笑いそうな顔をした。
すぐに引っ込めた。
主人は、皿の三枚目までを、たっぷり時間をかけて食べた。フェンウル葉のソースを、最後に皿の縁に擦りつけて、指で舐めた。
「嬢ちゃん。お前さんの料理人、二度と宮廷に渡すなよ」
マリカは、笑った。
今度の笑い方は、いつもの暴走令嬢の笑い方だった。
「うちのルカですわ」
「だろうな」
主人が皿を返した時には、屋台の前に、もう三人並んでいた。
主人が屋台街の路地を歩きながら、誰かに何かを言ったらしい。串焼き屋の隣の揚げ物屋の親父が来た。揚げ物屋が肉を食べた直後に、向かいの蒸し饅頭の婆さんが来た。蒸し饅頭の婆さんが食べ終わった頃には、屋台の前に九人。
ガルムは屋台の脇で、籠の上に腰掛けて、籠の中の予備の鹿肉を布で守っていた。彼の前にだけ、なぜか客は並ばない。獣人だからではない。ガルムが座っているだけで、その周囲三歩に「触ってはいけない空気」が漂うからだ。
フィリアは、火の脇で薬草を細かく刻んでいた。フードを被ったまま、視線を上げない。だが、刻む手の速さは、客が増えるたびに——わずかに、速くなっていた。
ルカは火の前で、鹿肉を炙り続けていた。
炙り、削ぎ、皿に並べ、ソースを引く。手の動きが、一度も止まらない。同じことを繰り返しているはずなのに、一皿ごとに、わずかに違う。三皿目の客が大柄な石工で、四皿目の客が痩せた女だったから、肉の厚みと焼き具合を変えた。
マリカは、屋台の縁から客の顔を読みながら、皿を渡していた。
石工の手のひらは、皮が厚い。皿を持つ指の動きでわかる。彼は重い厚切りが要る。だから三皿目だけ、ルカが厚めに削いだ。
女の手は、指の関節が細い。彼女は薄切りで、ソースを多めに。だから四皿目だけ、ソースを倍にした。
屋台の縁で、マリカは、誰にも言わずに、ルカの判断を一皿ずつ確認していた。
全部、合っていた。
マリカは、屋台の縁に、そっと、重心を預けた。
六皿目の客が、皿を返した時、マリカの背中の空気が変わった。
屋台の三歩後ろから、足音が二つ近づいてきた。
ガルムの耳が、片方だけ、後ろに動いた。
マリカは振り返らない。フィリアが、薬草を刻む手を止めた。ルカは火の前で、鹿肉に塩を一振り——ではなく、楢の枝を一本足した。火力を上げた。
「——調理を、見せてもらえるか」
声は、低かった。
若くはない。だが、老人の声でもない。料理人の声だった。
マリカが、初めて振り返った。
屋台の前に立っていたのは、二人だった。
一人は——白いコート。襟元に、金の星が二つ。胸の刺繍に、桂冠葉。グランテーブル二つ星の調理服を、街の昼下がりの埃の中で、汚れ一つなく着ている男だった。歳は四十前後。眼鏡の縁が銀。視線が、ルカの手元に固定されている。
もう一人は——黒いコート。同じ襟元。だが星が三つ。
屋台街の喧噪が、わずかに、引いた。
近くの屋台の主人たちが、視線だけこちらに送って、口を閉じている。三つ星の調理服がこの裏通りに降りてくるのは、二十年に一度だ——という囁きが、隣の屋台から、風の中に紛れて流れてきた。
三つ星の男は、皿の上の鹿肉を、見ていた。
見ているが、手を出さない。
代わりに、隣の二つ星が、銀貨を二粒、屋台に置いた。
「——一皿、もらおう」
マリカは、皿を渡さなかった。
ルカに、目で合図した。
ルカが、火の前で、最後の一皿を組み立てた。
いつもより、ほんの少しだけ、丁寧だった。鹿の外腿の削ぎが、いつもより薄い。クレスナ草の炒めの上に置く位置が、皿の真ん中ではなく、わずかに左にずれている。フェンウル葉のソースが、いつもより、ひとすじ多く引かれた。
マリカが皿を受け取って、二つ星の前に置いた。
二つ星は、皿を持ち上げて、香りを嗅いだ。
彼の手は、フォークを取らなかった。
代わりに、皿を、後ろの三つ星に、両手で差し出した。
三つ星は、皿を受け取った。
屋台街の音が、ふいに、聴こえなくなった。
風が凪いだ。
マリカは、屋台の縁を、指先で一度だけ叩いた。
ルカの手は、火の前で、止まっていた。
ガルムは、籠の上で、両耳を前に倒していた。
フィリアは、薬草を刻む手を、止めたまま——フードの奥で、初めて、こちらを見ていた。
三つ星の男が、フォークを刺した。
肉を、口に運んだ。
咀嚼が、一度。二度。三度。
四度目で、止まった。
止まったまま、男は、皿の上の三枚目に、視線を落とした。
しばらく、何も言わなかった。
石畳の上で、屋台の煙が、一段、低くなった。
三つ星の男が、ようやく、フォークを置いた。
彼は、ルカを見た。
次に、マリカを見た。
最後に、屋台の脇で耳を立てているガルムと、火の脇で目を伏せているフィリアを、順に見た。
そして、低く、言った。
「——これは、何料理だ?」
マリカは、屋台の縁から、背を離した。
息を、一つ、吸った。
吸い終わるまでに、彼女の中で、答えはもう、決まっていた。
「全部の料理ですわ」
屋台街の風が、ふいに、また流れ始めた。
「食卓に、種族の壁なんてありませんもの」
三つ星の男は、瞬きを、一度だけした。
そして、二つ星の方を、振り返らずに、言った。
「明日も来る」
短い、それだけの一言を、屋台の縁に、置き土産のように残して——男は背を向けた。
二つ星が、慌てて皿を返し、追いかけた。
屋台街の喧噪が、戻った。
まるで、何も起こらなかったかのように。
残されたのは、空になった皿一枚と、フォークの先に残った、フェンウル葉のソースの、薄絹のような緑色だけだった。
その緑色が、午後の日差しの中で、静かに乾いていく。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
EP17は、Arc2のクライマックス前夜にあたる話です。「旅の食卓」の屋台が初めて開かれ、ここで食魔法【職人級】に到達する——という大事なマイルストーンを、地味な裏通りの屋台一軒の朝から夕暮れまでで描きました。派手にしすぎない、というのが今回の自分への縛りでした。屋台街の他の料理人が、星付きの調理人が、客が、それぞれに「ふいに口を閉じる」リアクションだけで、料理の格を伝えたかったんです。
書きながら一番楽しかったのは、フィリアの「フェンウル葉」を出すシーンでした。エルフの里で「味のわからないフィリアが選ぶ予備」だった葉が、屋台街の真ん中で、種族融合料理の出汁の正体になる。彼女が127年抱えてきた「壊れている」という烙印が、ルカの一皿の中に静かに居場所を見つけた。本人は何も言わないし、書く側も何も解説しない。それでよかったと思っています。
三つ星料理人がフォークを置いて言う「これは、何料理だ?」というセリフは、本当はEP20で出すつもりでした。でもアペティアの空気を書いているうちに、彼が初日にこっそり下見に来ても不思議じゃないな、と思い始めて、急遽EP17に前倒し。理由は彼の鼻と耳が、屋台街の空気の変化を真っ先に拾うから。次のEP18でグランテーブルがどう動くか、書いている私もまだ知りません。
ルカの「お前の料理人、二度と宮廷に渡すなよ」「うちのルカですわ」のやり取り、書いていてニヤニヤしました。マリカは無自覚。本人は「優秀な料理人を手放したくないだけ」と本気で思っている。周りが全員気づいている。この距離感が、まだしばらく続く予定です。
◇◆◇ 歩人の作品 ◇◆◇
▼ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
・「お前は道具だった」と笑った婚約者が〜【知略型】
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