第16話: 食の都アペティア
匂いが変わった。
丘を越えた瞬間、マリカの足が止まった。風が南から運んでくる——炭火、油、焦げた砂糖、香辛料の重なり、煮詰めた果実の甘い蒸気、焼きたてのパンの酵母の香り——そのどれもが、辺境の森にはなかった密度で鼻腔を埋め尽くす。
「——見えましたわ」
丘の上から、街が広がっていた。
巨大だった。城壁に囲まれた都市が盆地全体を占めている。赤い屋根、白い壁、石畳の広場、高い塔。だがマリカの目を釘付けにしたのは建物ではない。
煙だ。
街の至るところから煙が上がっている。焚火の煙、窯の煙、蒸し器の湯気、鉄板の油煙——何十、何百もの調理場が同時に火を入れている。空を覆うほどの煙の層が、午前の陽光に白く輝いている。
「アペティア……」
フィリアが隣で息を呑んだ。フードの奥の翡翠色の目が、街を映している。
「食の都って……本当に食の都なんですね」
「ああ」ガルムが鼻をひくつかせた。「——五百は超えてる」
「何がですの?」
「飯を作ってる場所の数だ。匂いが混ざりすぎて、一つずつ追えない」
マリカは腰のスパイスポーチに手を当てた。革の感触。ベルモント家から持ち出したスパイスたちが、ポーチの中で小瓶同士を鳴らしている。旅を通じて追加した野草や木の実の乾燥粉末も入っている。
右手が震えていた。
好奇心ではない。いや、好奇心だ。だがこれまでの「面白い」とは桁が違う。辺境の琥珀茸、鍛冶町の溶岩窯パン——あれは一品ずつだった。今、目の前にあるのは数百の料理が同時に存在する都市だ。
「マリカ、待——」
ルカの声が聞こえたのは、マリカが丘を駆け下り始めた後だった。
アペティアの正門は開け放たれていた。
門番が旅人を確認しているが、手続きは簡素だ。人も獣人もドワーフも、次々と門をくぐっていく。食材を積んだ荷車が行き交い、天秤棒で魚の桶を担いだマーフォークが水路沿いを歩いている。
マリカは門をくぐった瞬間、走った。
「ルカ! あの匂い! ガルムさん! あっちの匂い! フィリアさん! この食材の声聴いて!」
全員が同時に言った。
「「「待て」」」
待たなかった。
屋台街が門の内側からすぐに始まっていた。石畳の大通りの両側に、軒を連ねるように屋台が並んでいる。串焼き、揚げ物、蒸し饅頭、煮込み、甘味——人間の料理だけではない。獣人の炙り肉屋台、ドワーフの窯焼きパン売り、エルフの薬草茶の露店。それぞれが違う言語で呼び込みをしている。
マリカは最初の屋台に突撃した。串焼きだ。
「一本くださいまし!」
焦げた表面、肉汁が滴る。一口齧り——目が見開かれた。
「羊! だけど普通の羊じゃありませんわ。山岳地帯の品種ですわね。脂の融点が低い——口の中で溶けますわ。この香辛料は——」
マリカは串を持ったまま隣の屋台に移動した。揚げ物だ。
「これは何ですの!?」
「芋の衣揚げだよ、嬢ちゃん。南部の芋を薄く切って——」
「南部! 南部の芋はこの食感になるんですの!? 辺境の芋と繊維の密度が全然違いますわ!」
三口目を食べ終わる前に、マリカは四軒目の屋台に走っていた。
ルカが背後で額を押さえている。ガルムがため息をつき、フィリアが目を丸くしていた。
「——あんた、もしかして」
声をかけてきたのは、五軒目の屋台の主人だった。中年の太った男が、鉄板の前で腕組みをしている。
「森のほうから来た、四人連れの旅の一座か?」
マリカは甘味の串を咥えたまま振り返った。
「旅の一座?」
「ああ。噂が来てるんだよ。侯爵家のお嬢さんが追放されて、元宮廷料理長と組んで旅をしてるって。道中の焚火で、えらい美味い飯を食わせてるって。鍛冶町のドワーフが『あの令嬢の食べっぷりは見ものだ』って触れ回ってたぞ」
ルカが追いついてきた。額の汗を袖で拭っている。
「……鍛冶町のドワーフが、か」
「溶岩窯パンを食って泣いた令嬢がいるって話は、酒場で三回聞いた。あんたがその料理長か? 腕利きだって聞いてるぞ」
ルカの表情が固くなった。「元」料理長だ、と言いかけて——やめた。マリカが串を二本持ったまま割り込んだ。
「おじさん、この甘味の串、七十二点ですわ! 砂糖の焦がし具合は完璧ですけれど、芋の下処理が甘いですの。揚げる前に一晩塩水に漬けておけば、甘味と塩味のコントラストが——あっ、あっちの屋台から面白い匂いがしますわ!」
マリカは走り去った。
屋台の主人が目を丸くしてルカを見た。
「……あれが噂の令嬢か?」
「ああ。……止められない」
「だろうな。ここじゃ『食の暴走令嬢』って呼ばれ始めてるぞ」
屋台街の奥に進むにつれて、空気が変わった。
石畳が磨かれ、屋台の代わりに扉のある店が並び始める。看板に星の紋章が刻まれた店——一つ星、二つ星。店の前に行列ができているが、行列の客は明らかに身なりが良い。
「グランテーブルの星付き店ですわね」
マリカは足を止めて看板を見上げた。金の星が一つ、木の看板に嵌め込まれている。
「フィリアさん、ご存知ですの?」
「名前は聞いたことがあります。料理人の格付けを行う組織……ですね。里の長老が、『人間は食にまで序列をつける』と呆れていました」
「序列、か」
ルカの声が低くなった。
「星制度。グランテーブルの公開審査会で格付けが決まる。星なしが七割、一つ星が二割、二つ星が九パーセント。三つ星は——現存三名だ」
「ルカ、詳しいですわね」
「宮廷にいた頃、審査を受けたことがある。——落ちた」
マリカが振り返った。ルカの表情は平静だった。だが顎の筋肉がわずかに動いている。
「星がなければ、この通りには店を出せない。屋台は裏通りだけだ。表通りは星持ちの特権」
「つまり——さっきわたくしたちが食べ歩いた屋台街は、全て『星なし』の料理人ですの?」
「そうだ」
「おかしいですわ。さっきの串焼き、七十二点ですのよ? 下手な宮廷料理より上ですわ。それが星なしで裏通り?」
ルカは答えなかった。マリカの疑問がどこに行き着くか、わかっていたからだ。
ガルムの鼻が、マリカより先に異変を嗅ぎ取った。
「ルカ」
低い声。ガルムの耳が片方だけ前に傾いている。
「裏の路地から——食材の匂いがする。大量の。だが運んでいる方向がおかしい」
「どうおかしいですの?」
「市場から店に運ぶなら、表通りを通る。だがこの匂いは、裏通りの屋台街から——星付きの店の裏口に向かっている」
四人は路地に入った。
狭い石畳の路地裏。壁に苔が生え、排水溝から水の匂いがする。ガルムが先頭で風を読み、フィリアが壁際に身を寄せた。
角を曲がると——見えた。
二つ星の店の裏口に、木箱が積まれている。箱を運んでいるのは星なしの料理人——さっきの屋台街で見かけた若い男だ。粉だらけのエプロン。裏口で待っているのは、星付き店の調理服を着た男。
「——いつもの分だ。今月は芋が多い」
「ああ。表の仕入れが足りなくてな。お前の屋台の芋のほうが質がいいのは、頭にくるが事実だ」
「星がなきゃ表で売れない。だが星付きの店は自分で仕入れもできないのか?」
「うるさい。金は払う。名前は出すな」
マリカの足が止まっていた。
琥珀色の目が——冷たくなっていた。分析モードだ。感情が消え、純粋な知性だけが作動している。
「……フィリアさん」
「はい」
「あの木箱の食材——声が聴こえますの?」
フィリアは目を閉じた。路地の風が、木箱の隙間から食材の気配を運んでくる。
「……あの芋は、とても元気です。掘り出されて間もない……南の日当たりの良い畑で育った子たちです。品質は——」
「上物ですわね。屋台の料理人が自分で仕入れた、いい食材」
マリカは路地の壁にもたれた。
「星なしの料理人が、自分の食材を星付きの店に横流しして、その店は自分の手柄として出す。食材の出所は隠される。星制度が——食材の正当な評価を歪めていますわ」
「……驚くことか」
ルカの声が低かった。
「権威のある場所には、必ずこういう仕組みができる。宮廷もそうだった」
「驚いていませんわ」
マリカが壁から背を離した。目に火が灯っている。
「怒っていますの」
四人は路地を抜け、屋台街に戻った。
午後の日差しが街に傾き始め、屋台からの煙が夕方の色に変わっている。オレンジ色の光と炭火の赤が混ざり合い、石畳が熱を含んでいる。
「ルカ」
マリカが足を止めた。
「明日、この屋台街で料理を出しましょう」
「……何の話だ」
「旅の食卓ですわ。ここで開きますの」
ルカの眉が上がった。ガルムの耳が両方とも前に傾いた。フィリアがフードの奥から二人を交互に見ている。
「さっきの屋台の串焼きは七十二点。揚げ物は六十八点。蒸し饅頭は七十点。どれも悪くない。でも——まだ上がありますわ。ガルムさんの食材とフィリアさんの目利きとルカの腕で、この屋台街の料理人たちが見たことのない一皿を出せますわ」
「待て。無許可で屋台を出せるのか」
「星がなくても裏通りなら出せるんでしょう? さっき見たじゃありませんの」
「出せることと、出していいことは違う」
「何が違いますの? 食べたい人がいて、作れる人がいる。それだけですわ」
ルカは口を閉じた。マリカの目を見ている。この令嬢がこの目をした時、止めても無駄だと——七日間の旅で骨身に染みている。
「……勝手にしろ」
「ありがとう、ルカ! ガルムさん、明日の朝、市場の前で食材を見繕ってくださいまし。フィリアさんは薬草と——」
「待て。まだ宿も取っていない」
「宿? ああ、そうですわね。じゃあ先に宿を——あ! あの屋台! あの匂い! ルカ、あれは何ですの!?」
マリカが走り出した。スパイスポーチから小瓶を一つ取り出しながら。
「——おじさん、この串焼き、最後にこのスパイスを振ると化けますわよ」
マリカが屋台の主人にスパイスの小瓶を差し出した。主人が怪訝な顔をし——一振り。肉の表面にスパイスが散る。焼ける音。香りが変わった。
「なっ——何だこの香りは!?」
「ベルモント家の調合スパイスですの。胡椒とクミンとナツメグの配合を変えたものですわ。辺境の野蒜の乾燥粉末も入っていますの。串焼きの脂と合いますわ」
屋台の主人が串を一本齧った。目を見開いた。
「嬢ちゃん、これ——売ってくれ」
「差し上げますわ。代わりに明日、屋台を一角だけお借りできませんの?」
ルカが追いついた時には、マリカは屋台の一角の使用許可を串焼きのスパイスと交換で取り付けていた。
「……交渉が終わってる」
「ルカ、明日の仕込みの相談をしましょう。ガルムさん、市場は——」
「朝が一番品が揃う。夜明け前に行く」
「フィリアさんは——」
「市場の薬草を見てきます。ガルムさんと一緒に」
四人がそれぞれ動き始めている。マリカが指示を出す前に。言葉にしなくても、旅の中で積み上げた連携が自然に起動している。
宿は屋台街の外れにある安い旅籠だった。二部屋。マリカとフィリアが一部屋、ルカとガルムが一部屋。
夕食は屋台街で買い込んだ串焼きと蒸し饅頭と薬草茶だった。部屋の窓を開けると、アペティアの夜景が広がっている。屋台の灯りが星のように街を彩り、煙が夜空に滲んでいる。
ルカは窓辺で腕を組んでいた。
マリカが買い込んだ食材のメモを手帳に書いている。今日食べた屋台の点数、食材の分析、改善点——もう三ページ分だ。
「ルカ」
「何だ」
「明日の料理ですけれど。旅の途中で覚えた技法を全部使いましょう。ガルムさんの獣人流の炙りと、ドワーフの溶岩窯の火入れの原理と、フィリアさんが選んだ薬草のソース。全部ルカの手で一つの皿にまとめますの」
「……全部か」
「全部ですわ。種族の技法を融合した一皿——この屋台街の誰も作ったことがない料理ですわ」
ルカは窓の外を見ていた。屋台の灯りが瞳に映っている。
「宮廷にいた頃、こんな料理を作ろうとした」
「ですわね」
「味が正統じゃないと言われて、追い出された」
「ここは宮廷じゃありませんわ。ルカの料理を食べるのは——わたくしと、この街の人たちですの」
ルカは黙った。窓の外で屋台の火が揺れている。
「……材料次第だ。ガルムとフィリアが何を持ってくるかによる」
「信じていますわ。三人とも」
マリカは手帳を閉じた。ペンを置き、窓の外に目をやった。
「ルカ」
「何だ」
「この街には、わたくしが食べたことのない味がまだ山ほどありますの」
「……知ってる」
「全部食べますわ」
「全部は無理だ」
「やりますわ」
「……勝手にしろ」
ルカの声は呆れていた。だが——窓の外を見る目が、ほんの少しだけ柔らかかった。アペティアの夜の灯りが、料理人の瞳を照らしている。
食の都に、旅の食卓が着いた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
アペティアの屋台街を書いている時、一番苦労したのは「匂いの密度」でした。辺境やのんびりした街道では食材の匂いを一つずつ追えたマリカが、数百の匂いが同時に押し寄せる都市に来た時の衝撃。ガルムが「五百は超えてる。匂いが混ざりすぎて追えない」と言うシーンが、実は今話で一番書きたかった場面です。SS級の嗅覚でも追えない情報量の街——それがアペティアです。
マリカが屋台主にスパイスを渡すシーン。実はこれ、EP9で伏線を張っていたんです。スパイスポーチの中身をわざわざ詳細に書いたのは、ここで使うため。マリカの携帯食の異常な充実ぶりが、アペティアで「交渉の道具」に化けた。
路地裏の食材横流しシーン。グランテーブルの腐敗を見せる大事な場面ですが、マリカの反応を「驚いていませんわ。怒っていますの」にしたのは意図的です。この子は構造が見えてしまう。だから驚かない。ただ、食材が正当に評価されない仕組みには——純粋に、怒る。
◇◆◇ 歩人の連載作品 ◇◆◇
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