第15話: 四人目の席
椀が、四つ並んでいた。
フィリアは木の根元で目を覚まし、最初に見たのがそれだった。焚火の前に置かれた木の椀。三つではない。四つ。昨夜の自分の分が——まだそこにある。
いや、違う。洗われている。昨夜の椀ではなく、今朝のために並べられた四つ目だ。
焚火は消えていない——ガルムが夜通し薪を足していたのだろう。太い丸太が燠になり、赤い光を放っている。
膝を抱えた姿勢のまま眠っていた。ローブの裾に露が降りている。指先が冷たい。フードは——被ったままだった。寝ている間も外さない癖が、二十七年で身体に染みついている。
焚火の向こうで、ルカが鍋の前にしゃがんでいた。
小さな鍋に水を張り、何かを刻んでいる。包丁の音が規則正しい。左手で握った刃が木の板の上を走る。朝の空気に、根菜の甘い匂いが——
フィリアの鼻がわずかに動いた。匂いは届く。「美味しそう」に変換されないだけだ。
「——起きたか」
ルカの声は低く、短かった。鍋から目を離さないまま。
「……おはようございます」
「食え。もうすぐできる」
二言。それだけだった。フィリアのために何かを作っているのだという説明も、味がわからないことへの配慮の言葉もない。ただ「食え」と。
——昨夜も、そうだった。
「知ってる。食え」。この料理人は、味がわからない相手にも等しく食事を出す。同情でも施しでもなく、料理人として当然の行為として。
「フィリアさん! おはようございますの!」
マリカが林の奥から走ってきた。両手いっぱいに——草を抱えている。
「見てくださいまし! この林、薬草の宝庫ですの!」
息を弾ませながら、マリカは採ってきた草をフィリアの前に並べ始めた。葉の形も大きさもばらばらの草が七種類。朝露がついたまま、地面に広がる。
「これは解毒草ですわ。こっちは消炎効果があって——でもこの二種類は判別がつきませんの。図鑑に載っていない品種かもしれませんわ。フィリアさん、薬草にお詳しいでしょう?」
フィリアは並べられた草を見た。エルフの里で百年以上学んだ薬草学の知識が、自動的に起動する。
「……これはツメクサの亜種です。消炎効果はありますが、生食すると胃に負担がかかります。こちらは——」
フィリアは三番目の草を手に取った。
指先が茎に触れた瞬間——体が震えた。
「……この子は」
声が出ていた。無意識に。指が茎を撫でている。根元から先端へ、成長の方向に沿って。
「この子は……とても元気です。根がしっかり張っていて——朝の霧をたくさん吸っています。東側の斜面で育った子ですわね。日の出を正面から受けて、とても……嬉しそう」
フィリアは自分の言葉に驚いて口を閉じた。
嬉しそう。草が。
「——やっぱりですわ!」
マリカの目が燃えていた。手帳を取り出す手が震えている。
「フィリアさん、今のは何ですの!? どうやって感じ取りましたの!? 触れただけで育った場所と水分量と——感情まで!?」
「い、いえ……わたしは昔から、食材に触れると——こういうことを感じるだけで——」
「『だけ』ではありませんわ!」
マリカがフィリアの手を掴んだ。小さな手が、フィリアの細い指を握っている。琥珀色の目が至近距離にある。
「わたくしの絶対味覚は食材の品質と調理法を分析しますの。ガルムさんの嗅覚は食材の鮮度と産地を嗅ぎ分けますの。でもフィリアさんの力は——食材の生命そのものを感じ取っていますわ。品質より前の段階、収穫される前の食材の物語を読んでいますの!」
「食材の……物語」
「ですわ! わたくし、ずっと欲しかった能力ですの! わたくしの舌では届かない領域に、フィリアさんの指は届いていますわ!」
マリカは七種類の草を全部フィリアの膝の上に置いた。
「全部触ってくださいまし! 全部の声を聴いてくださいまし! 記録しますわ!」
フィリアは——困惑しながら、一本ずつ手に取った。
一番目。「この子は渇いています。根が水を探している」。二番目。「古い株です。三年以上ここに生えて——周りの子を守っています」。三番目は先ほどの元気な草。四番目。「傷んでいます。虫に食われて……でも、新しい芽を出そうとしている」。
マリカが手帳に凄まじい速度で書き込んでいく。目が輝いている。時折「面白い!」「すごいですわ!」と叫ぶ。
フィリアは——こんなふうに、自分の力を「すごい」と言われたことがなかった。
里では「壊れたエルフ」だった。味覚魔法が使えないエルフに、食材に触れて何かを感じる力があることなど、誰も気にしなかった。フィリア自身も、この力に名前をつけたことがなかった。
「フィリアさん」
マリカが手帳を閉じた。両手でフィリアの手を握ったまま、まっすぐに見つめている。
「わたくしたち、アペティアを目指していますの。大陸一の食の都。あらゆる食材が集まる場所ですわ」
「……そうですか」
「フィリアさんの力があれば——市場に並ぶ食材の中から、最高の状態のものを見つけられますわ。わたくしの舌とガルムさんの鼻とフィリアさんの指で、三方向から食材を評価できますの。こんなパーティ、大陸のどこにもありませんわ!」
マリカは——もう勧誘しているつもりはなかった。この令嬢の中では、フィリアが旅に加わることは昨夜の時点で確定事項だった。「一緒に来てください」ではなく「一緒に行きましょう」の口調。
「……わたしは、足手まといになりませんか」
「何を言っていますの? 味覚がないことが弱点だなんて、昨夜もう否定しましたわ。フィリアさんにしかできないことがある。それはわたくしにもルカにもガルムさんにもできないことですの」
フィリアは黙った。
二十七年間、一人で歩いてきた。誰かと旅をしたことは一度もない。誰かに「来てほしい」と言われたことも。
「……行っても、いいのですか」
「当然ですわ。ルカ! フィリアさんの分も朝食の用意を!」
「とっくに四人分だ」
ルカが鍋の蓋を取った。湯気が四つの椀に向かって立ち昇る。三人分ではない。昨夜から——もう四人分だった。
朝食はルカの根菜スープと、ガルムが持っていた干し肉だった。
ガルムは夜明け前に林の奥を歩き回り、食材を調達していた。干し肉だけではない——木の実と、水場の近くに生えていた山菜を背負い籠から出す。
「ルカ。使えるか」
「山菜は炒める。木の実は砕いてスープに散らす。——フィリア、この山菜はどうだ」
ルカが山菜をフィリアに差し出した。唐突だった。
フィリアは受け取り——指で触れた。茎から葉へ。
「……この子は、朝露をたくさん含んでいます。水場の近くで育って——根が深い。苦味が強い子ですが、火を通すと甘みが出るはずです」
「苦味が強くて火を通すと甘い。わかった」
ルカは山菜を受け取り、包丁で茎を斜めに切った。繊維の方向を見ている。フィリアが「苦味が強い」と言った情報を、切り方で処理している。斜め切りは表面積を増やし、火の通りを早くする——苦味を飛ばして甘みを引き出す技法だった。
フィリアは——驚いていた。
わたしの「声」を聞いて、包丁の角度を変えた。味がわからないわたしの評価を、この料理人は調理に反映した。
「フィリアさん、切り方を見ましたの?」
マリカが手帳を持ったまま囁いた。
「ルカは今、フィリアさんの情報を元に切り方を変えましたわ。苦味が強い山菜を斜め切りにして表面積を増やし、火の通りを早くすることで——」
「わかります。苦味を飛ばして甘みを引き出すためですわね」
「ですわ! つまりフィリアさんの『食材の声』は、ルカの調理判断の精度を上げる入力情報として機能していますの!」
マリカの目が手帳とフィリアの間を行き来する。もう分析モードに入っている。
「ガルムさんの嗅覚は食材の鮮度と産地を嗅ぐ。フィリアさんの指は食材の生命力と特性を読む。わたくしの舌は完成した料理を分析する。三つの入力が揃えば——ルカが最初の一刀目から最適解を出せますわ!」
「おい。話しかけるな。手が止まる」
ルカが鍋をかき混ぜながら低く言った。だが——フィリアが選んだ山菜を、丁寧に炒めている。火加減を弱めている。フィリアの「甘みが出るはず」を確かめるように。
四人で朝食を囲んだ。
ガルムが黙って四つの椀を並べ、ルカがスープを注ぐ。山菜の炒めものを小皿に盛り、木の実を砕いてスープの上に散らした。
「いただきます」
マリカが手を合わせた。ガルムの一族の作法を、この令嬢は自然にやる。
マリカが一口スープを啜り、目を閉じた。
「——七十四点」
ルカの手が止まった。
「昨夜のスープは六十三点でしたわ。十一点上がっていますの。山菜の甘みがスープの根菜と重なって、味の層がもう一つ増えていますわ。フィリアさんが選んだ山菜の効果ですわ」
「……山菜を変えただけで十一点か」
「食材の選択が変われば、料理が変わりますの。フィリアさんの『声を聴く力』は、食材選択の精度を飛躍的に上げますわ。ルカ、あなたの腕でこの食材を使えば——」
「わかった。もういい。食え」
ルカは自分の椀に口をつけた。だが——唇の端が、微かに持ち上がった。山菜の甘みがスープの中で機能しているのを、料理人の舌で確認したのだ。
フィリアは自分の椀を持ち上げた。
味はわからない。四十七年間、何も変わらない。温度と食感と匂いだけがある。
だが——今朝のスープは、昨夜と何かが違う気がした。温かさが同じなのに、椀を持つ手が軽い。
——わたしが選んだ山菜が、この椀の中にある。
フィリアは一口啜った。味はない。だが——自分が触れた食材の声が、この一杯の中で歌っているような気がした。
食事が終わり、ルカが鍋を洗い始めた。
フィリアは——ルカの手元を見ていた。
先ほどから気になっていたことがある。朝食の支度の間、ルカは四人分のスープを同じ鍋で作った。同じ材料、同じ火加減。
だが——椀に注ぐ時、ルカの手の動きが微かに変わった。
マリカの椀だけ、匙の角度が違った。スープの表面をすくう角度。根菜の欠片の比率。山菜の葉が一枚多い。木の実の砕き方が細かい。
全て微差だ。意識しなければ気づかない。
だがフィリアの目には——見えた。
マリカの椀のスープだけが、他の三人のものと違う色をしていた。
色。味覚を失ったフィリアに、スープの色の違いがわかるはずがない。見た目の色は同じ薄い黄金色だ。だが——「食材の声を聴く」力が、別の何かを感知している。
ルカの手がマリカの椀に注いだ瞬間、スープの中の食材が——微かに変わった。温度でも量でもない。何か——温かいもの。
フィリアは何も言わなかった。
代わりに、ルカが鍋を洗う手の動きを見ていた。マリカが「七十四点!」と叫んだ後の——あの微かな唇の動きを、思い出していた。
出発の支度が始まった。
ガルムが背負い籠を整え、ルカが鍋と包丁をコートの内側にしまう。マリカは手帳に何か書き込んでいる。
「フィリアさん」
マリカが手帳を閉じて振り返った。
「アペティアまであと二日ですわ。道中、食材を見つけたら——全部、声を聴いてくださいまし。わたくしが記録しますの」
「……はい」
「あと、フィリアさんの薬草ポーチ。中身を見せていただけますの? どんな薬草をお持ちか——」
「おい。出発するぞ」
ガルムが低い声で遮った。林の奥を見ている。鼻をひくつかせた。
「風が変わった。南から——雨の匂いがする。昼までに抜けないと道がぬかるむ」
「ガルムさん、あと三分だけ——」
「駄目だ。行くぞ」
「ガルムさんったら、いつも肝心な時に——」
「お前がいつも肝心な時に脱線するんだ」
ルカがマリカの荷物を拾い上げて押し付けた。マリカは文句を言いながら受け取り、手帳を腰のポーチにしまう。
フィリアは四人の動きを見ていた。
ガルムが先頭で風を読む。ルカがマリカの荷物を管理する。マリカが手帳を持って走り回る。三人の間に、言葉にされない役割分担がある。長い旅で積み上げた信頼のリズム。
そこに——自分が入る余地があるのだろうか。
「フィリアさん」
マリカが振り返った。もう五歩先を歩いている。
「何をしていますの? 置いていきますわよ?」
「……あ、はい」
フィリアは慌てて歩き出した。ローブの裾を掴み、ガルムの後を追う。
並んで歩いた。マリカが隣にいる。小柄な令嬢の歩幅は短いが、速い。
「フィリアさん、さっき七番目の草だけ触っていませんでしたわ。あの草——」
「あれは……毒草です」
「え」
「マリカさん、あれは毒蝮草の若芽です。見た目はツメクサに似ていますが——」
「わたくし、あれも食べようとしていましたわ……」
「食べなくて、よかったですね」
フィリアの声に——微かな温度があった。皮肉ではない。安堵だった。
「ほらですわ! フィリアさんがいなければ、わたくし今頃お腹を壊していますわ! やはり四人でなければ駄目ですの!」
「お前が道端のものを食うのが悪い」
「ルカ、それはもう何十回も言いましたわ」
「何十回言っても直らないからだ」
ガルムが鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。
フィリアは——四人の中を歩いていた。
前にガルム。右にマリカ。後ろにルカ。街道を南に向かって歩いている。夏の風が吹いて、草の匂いと土の匂いが混ざっている。
二十七年間、一人で歩いてきた街道。隣に誰かがいるだけで、同じ風の匂いが——違って感じる。
昼過ぎ、雨が降り始めた。
ガルムの鼻の通りだった。南から運ばれた雲が空を覆い、細い雨が街道を濡らし始める。
「ここだ。岩の張り出しがある」
ガルムが街道を外れ、小高い丘の岩陰に入った。自然にできた庇が四人分の雨宿りスペースを作っている。
「昼食にしましょう。ルカ、火を——」
「この雨では薪が——」
「ガルムさんが背負い籠の底に乾いた薪を入れていますわ」
ガルムが無言で背負い籠を開け、乾いた薪の束を出した。マリカを見たが、何も言わなかった。いつの間にか荷物の中身まで把握されている。
ルカが火を起こし、小鍋を取り出した。朝の残りのスープに水を足し、干し肉を細かく裂いて加える。
「フィリアさん」
マリカが岩陰の周囲を見回した。
「この辺りに薬草はありますの? 雨で濡れていますけれど——」
「……少し、見てきます」
フィリアは岩陰を出た。フードを深く被り、雨の中を歩く。すぐ近くの茂みに——感じた。指先がうずく。食材の声が。
茂みに手を伸ばした。雨に濡れた葉を撫でる。
「……この子たちは……」
三種類の薬草を摘んだ。茎を折らないように、根を傷つけないように。エルフの薬草摘みの作法で。
岩陰に戻り、摘んだ薬草をルカの前に並べた。
「これは消化を助ける薬草です。こちらは芳香性のもの——スープに入れると香りが立ちます。最後のこれは、苦味が強いですが、疲労回復に効く薬草です。雨を避けて岩陰に生えていたので、状態がとても良い子たちです」
ルカは三種類の薬草を見た。手に取り、匂いを嗅ぎ、葉を指で擦った。
「……切り方は?」
「え?」
「お前が一番わかってる。この薬草に合った切り方を教えてくれ」
フィリアは——言葉を失った。
料理人が、味のわからない自分に切り方を訊いている。食材の品質を判断するのは料理人の仕事のはずだ。それを——わたしに。
「……芳香性のものは、手でちぎるのがいいと思います。刃物を入れると香りの細胞が壊れる。消化草は縦に裂く。繊維に沿って。苦味のものは——」
「薄切りにして火を通すか。朝の山菜と同じだな」
「いえ——」
フィリアは首を横に振った。ルカの手が止まった。
「この子は朝のものより苦味が穏やかです。薄切りにすると、せっかくの食感が——」
「……なら、どうする」
「少し厚めに。噛んだ時に、歯ごたえが残る程度に。苦味は弱いので、火を通しすぎなくても大丈夫です。むしろ食感を活かした方が——」
「わかった」
ルカが包丁を取った。芳香草は手でちぎり、消化草は縦に裂く——そこまではフィリアの指示通り。苦味の薬草に刃を当てた時、ルカは一瞬手を止めて——厚さを確かめるように、フィリアの顔を見た。
「これくらいか」
「……はい。ちょうどいいと思います」
ルカは頷いて、包丁を動かした。朝の山菜の時とは明らかに違う切り方だった。フィリアの声を聴いて——二度目の切り方を変えた。しかも今度は、フィリアが料理人の判断を訂正し、ルカがそれを受け入れた。
フィリアは——自分の指が震えていることに気づいた。
わたしの声を聴いている。この料理人は、食材の声を聴くわたしの声を、聴いている。
スープが煮えた。
薬草の香りが岩陰に満ちている。雨音の中で、湯気が揺れる。
「——七十七点!」
マリカが椀を持ったまま立ち上がった。
「昨夜の六十三点、今朝の七十四点、そしてこの七十七点ですわ! 十四点上がりましたの! フィリアさんの薬草が味の構造を変えていますわ! 芳香草の香りがスープの表面に漂って——鼻から入る情報が味覚を先導していますの!」
「……そんなに変わるものですか」
「変わりますわ! あの苦味の薬草——厚切りが効いていますの。噛んだ時の食感がスープの滑らかさと対比を作って、口の中で二つの層が重なりますわ。薄切りにしていたらこの対比は生まれませんでしたの」
ルカが自分の椀のスープを啜った。
「……悪くない」
フィリアは——息を呑んだ。ルカの表情が、朝と違う。唇の端が持ち上がるだけではない。目が——少しだけ、開いている。料理人が自分の料理に驚いている顔だった。
「フィリアの薬草の切り方——使いやすかった。繊維に沿って裂くと、火の通りが均一になる。手でちぎった芳香草は細胞が壊れずに香りが残る。厚切りの苦味草は、歯ごたえがスープの食感を——変えた」
ルカは言葉を切った。自分の発言量に戸惑ったように。
「……理に適ってる。それだけだ」
「ルカさん……」
「食材のことを一番わかってる奴が下処理を指示するのは、当然だ。味がわかるかどうかは関係ない」
ルカは鍋に残ったスープをフィリアの椀に注ぎ足した。
「食え。まだ温かい」
フィリアは椀を受け取った。
味はわからない。七十七点がどんな味なのか、フィリアには永遠にわからない。
だが——椀の中のスープに、自分が摘んだ薬草が入っている。自分が指示した切り方で、ルカが処理した食材が。フィリアの声を聴いた食材が、四人の椀の中で温まっている。
二口目を啜った。
味は——ない。
でも。
「……おかしいですね」
フィリアの声が、小さく漏れた。岩陰に雨音が響いている。
「味がわからないのに……みんなで食べると……」
言葉が詰まった。昨夜と同じだ。この感覚に、まだ名前がない。
「温かい、ですの?」
マリカが微笑んだ。
「……はい」
フィリアは椀を両手で包んだ。
「温かい、です」
笑おうとした。昨夜よりも——少しだけ、口角が持ち上がるのが速かった。
小さく。まだ不器用に。でも昨夜よりほんの少しだけ——自然に。
ガルムが黙っておかわりを注いだ。ルカが鍋の火加減を調整した。マリカが手帳を開き——また閉じた。書くことより、この食卓にいることを選んだ。
雨が小降りになっていた。
岩陰の四人の食卓から、薬草の香りが雨に混じって流れていく。
雨が上がった。
ガルムが先に岩陰を出て空を嗅いだ。「もう降らない」と短く言った。
出発の準備を始める中、フィリアは——足元の草を見ていた。雨に洗われた街道沿いの草が、夏の日差しを受けてきらきら光っている。
さっきの食卓のことを考えていた。四つの椀。四つ分のスープ。ルカが最初から四人分を作っていたこと。ガルムが乾いた薪を四人分のために用意していたこと。マリカが手帳を閉じて食卓にいることを選んだこと。
——二十七年間、一人分しかなかった世界に、四人分が当たり前のように存在している。
「フィリアさん」
マリカが振り返った。手帳を開いたまま、何かの計算をしている。
「アペティアの市場は大陸中の食材が集まりますの。フィリアさんの力で最高の食材を選び、ルカが調理して、わたくしが分析して——」
「おい。歩きながら喋れ」
「ルカ、もう歩いていますわ」
「歩きながら前を見ろ。そっちは崖だ」
「ガルムさんが止めてくれますから大丈夫ですわ」
ガルムが黙ってマリカの襟首を掴み、軌道を修正した。
フィリアは——笑いそうになった。
この人たちは、ずっとこうなのだろう。ずっとこうして、喧嘩のように見える会話をしながら、誰一人置いていかずに歩いてきたのだろう。
「フィリアさん」
ルカが——珍しく、名前を呼んだ。歩きながら、前を向いたまま。
「明日の朝、もう少し山菜が手に入るなら——別の切り方を試したい。お前の見立てがあれば、鍋に入れる前に判断がつく」
「……はい。喜んで」
フィリアの声が——震えた。
——明日の朝。
明日も、この人たちと朝食を食べる。明日も、四つの椀が並ぶ。明日も、わたしの声を聴いてくれる人がいる。
街道の先に、夏の雲が湧いていた。南から吹く風に雨上がりの土の匂いが混じって、フィリアの鼻をくすぐった。
——その時、ガルムの足が止まった。
鼻が動いている。耳が片方だけ前に傾いた。
「……どうかしましたの?」
マリカが振り返った。
「……匂い」
ガルムが低く言った。南の風を深く吸い込んでいる。
「……炭火の煙だ。一つじゃない。何十——いや、百は超えてる。油、香辛料、焦げた砂糖、焼きたてのパン——全部が混ざって風に乗ってくる」
「百?」
「この先の丘を越えた向こうだ。——街がある。でかい」
マリカの足が止まった。
目が——変わった。琥珀色の瞳の奥に、火が灯っている。
「ガルムさん。百を超える調理場がある街……それは——」
「ああ。たぶんそうだ」
「アペティアですわ!」
マリカが走り出した。手帳を落としそうになりながら。
「待て」
「ルカ、食の都ですわよ!? 大陸中の料理が集まる場所ですのよ!?」
「だから待てと——フィリア、あいつを止めろ」
フィリアは——二人の背中を見ていた。マリカが走り、ルカが追いかけ、ガルムがため息をついて歩き出す。
あの丘の向こうに——食の都がある。
フィリアは走り出した。ローブの裾を掴んで、三人の背中を追って。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「四人目の席」というタイトル。ルカが最初から四人分のスープを作っていた、という事実が全てです。誰も「仲間になってくれ」とは言っていない。ただ、椀が四つ並んでいた。
薬草シーンでフィリアがルカの切り方を訂正する場面。実はここが書いていて一番楽しかったところです。朝は「苦味が強い→斜め切り」というルカの判断をフィリアが受け入れた。でも昼は、同じ「苦味」でもフィリアが「この子は違う」と口を出した。ルカがそれを受け入れた。二人の関係が、たった半日で一段変わった瞬間です。
ガルムが嗅ぎ取った百の調理場の匂い。次回、マリカの好奇心が大爆発します。
◇◆◇ 歩人の連載作品 ◇◆◇
▼ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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