第9話 暇すぎる
何もしなくていい生活というものは、もっと素晴らしいものだと思っていた。
目覚まし時計に叩き起こされることもなければ、着替えて家を出る必要もない。掃除も洗濯も料理も、今ではほとんど家が勝手にやってくれるし、食材だって一か月分まとめて買ったので、しばらく町へ行く必要もなかった。
朝、目が覚めるまで寝て、腹が減ったら食べて、眠くなったらまた寝る。
最高である。
少なくとも、最初のうちは。
「……暇だな」
ソファに寝転がったまま呟くと、少し離れたところで本を読んでいたロキが顔を上げた。
「そう?」
「うん」
それだけ答えて、私はまた天井を見る。
ロキはしばらくこちらを見ていたものの、特に何も言わず本へ視線を戻した。
なんでこの子は平気なんだろう。
そう思って横目で眺めていると、ページをめくりながら完全に自分の世界へ戻っている。別に一日中本を読んでいるわけではなく、ときどき外へ出て魔法を使ったり、森の中を歩いたりもしているので、どうやら一人で勝手に時間を潰せるらしい。
羨ましい。
私はスマホを手に取ってみたものの、当然ながら圏外の表示は変わらなかった。
保存してあった写真を見る。飽きる。
入っていたゲームを起動する。何度もやったので飽きる。
動画も多少は残っているものの、こちらも見慣れたものばかりで、通信できないスマホというのは思っていた以上にできることが少ない。
「……暇すぎる」
今度は声に出してみたが、状況は何も変わらなかった。
仕方なく起き上がり、冷蔵庫を開ける。
特に食べたいものはない。
一度閉めてから、もう一度開けてみた。
やっぱりない。
「何してるの?」
「暇だから冷蔵庫見てる」
ロキは何とも言えない顔をしたあと、本へ戻った。
私だって意味がないことくらい分かっている。
冷蔵庫を閉めて居間へ戻ろうとしたところで、窓の外に森が見えた。
散歩でもしようか。
そう思った直後、面倒だな、と思った。
我ながら終わっている気がする。
とはいえ、森へ出るだけならまだしも、町へ行こうと思えばそれなりに歩く。今すぐ行きたいわけではないけれど、次に用事ができた時もまた歩かなければならないのかと思うと、それだけで面倒だった。
もっと楽に移動する方法はないものか。
飛ぶ。
乗り物を作る。
それとも――。
「…………あ」
頭の中で《万能魔法》を思い浮かべたまま、私は固まった。
あった。
普通にあった。
空間転移。
「……私、転移できるじゃん」
本当に今さらだった。
初日に能力を確認した時、《万能魔法》の中に転移系の魔法があることも確かに見ている。項目が多すぎて、そのまま頭の隅へ追いやっていたらしい。
私は立ち上がると、とりあえず窓の向こうに見えている結界の端を思い浮かべた。
次の瞬間、景色が変わる。
「おお」
目の前には森があり、振り返れば遠くに家が見えた。
本当にできた。
もう一度家の居間を思い浮かべると、今度は一瞬でソファの前へ戻る。
ロキが本から顔を上げた。
「何してたの?」
「転移」
「ふうん」
それだけだった。
もっと驚くかと思ったのに、魔法がある世界では転移くらい普通なのかもしれない。
私はそんなことより、今まで町まで歩いていた時間を思い出していた。
「……最初から使えばよかった」
往復でそれなりに歩いた。
荷物は《無限収納》へ放り込めるので、帰りに重い思いをしたわけではないけれど、歩かなくて済んだことには変わりない。
次からは町へ行くのも一瞬だ。
買い物も一瞬。
森の奥へ行くのも一瞬。
何なら玄関から結界の端まで行く必要すらない。
そこまで考えたところで、ふと自分の腹を見た。
「…………」
家事をしない。
仕事もしない。
買い物も月に一度。
外へ出る必要すらほとんどなくなったうえに、移動まで全部転移。
「太るな」
これはまずい。
四十六歳である。
十代のころと同じように、何を食べても何もしなくても勝手にどうにかなる身体ではない。今ですら運動らしい運動などしていないのに、歩くことまでやめたら、さすがに人間として何かが終わる気がした。
私はしばらく考えた末、転移は遠い場所へ行く時と緊急時だけにすると決めた。
町くらいなら歩く。
たぶん。
その日の気分によっては転移するかもしれない。
まあ、そのへんは臨機応変ということでいいだろう。
せっかく便利な魔法があるのに、健康のために自分の足で歩くというのも何だか釈然としないものの、体重が増えるよりはましだった。
そうして転移という便利な手段を思い出した私は、再びソファへ戻った。
そして十分後。
「……暇だな」
何も解決していなかった。
◇
暇を潰すには、娯楽が必要だ。
翌日、私は真剣にそう考えていた。
日本にいたころなら、暇などいくらでも潰せた。テレビをつけてもいいし、動画を見てもいい。漫画も小説もあるし、ゲームだって新しいものが次々に出る。
しかし、ここには何もない。
本なら作れる。
けれど、内容まで勝手に湧いてくるわけではないので、自分が知っている話を自分で作って自分で読むことになる。
つまらない。
ゲームも同じだ。
ルールや仕組みを考えて作るところまではできるだろうけれど、自分で全部知っているゲームを自分で遊んで、果たして楽しいのかは怪しい。
そこでテレビを作ってみた。
薄い黒い板を壁に掛け、電気の代わりに魔力で動くようにして、画質も音質も日本で使っていたものよりかなり良くした。
完成した画面を眺めて、私は満足した。
「よし」
電源を入れる。
真っ黒だった。
「…………」
当たり前である。
放送局がない。
アンテナをどれだけ高性能にしても、受信する番組そのものが存在しないのだから何も映るはずがなかった。
「テレビだけあっても意味ないじゃん」
ロキが隣から画面を覗き込んでいる。
「これ、何?」
「映像を見る道具。……だったんだけど」
説明しながら、そこで手が止まった。
放送がないなら、自分で映像を送ればいい。
「……カメラ飛ばせばいいんじゃない?」
我ながら名案だった。
《万能生産》と《万能魔法》を使い、小さな球体をいくつか作る。見た目は黒いガラス玉に近いものの、自力で飛行し、見たものをこの画面へ送れるようにした。
一つ飛ばして試してみると、家の周りの森が鮮明に映った。
「おお」
操作も簡単だったので、私はさらに数を増やした。
どうせなら世界中を見られるようにすればいい。
高速で移動できるようにして、それぞれ別の方向へ飛ばしていく。距離が離れても映像が途切れないように調整し、画面側では好きな観測球へ切り替えられるようにした。
数時間後には、知らない町が映っていた。
石造りの建物が並ぶ大きな街で、通りには人間だけでなく、耳の長い人や獣の耳を持つ人まで歩いている。
「おー」
少し面白い。
別の映像へ切り替えると、今度は海だった。
見渡す限り水が広がり、その上を大きな帆船が進んでいる。
「海だ」
さらに切り替える。
岩山。
「山だな」
草原。
「広いな」
知らない森。
「森だな」
巨大な何かが遠くを歩いていた。
「でかいな」
しばらく眺めてから、私はソファへ背中を預けた。
ロキは最初こそ珍しそうに画面を見ていたものの、途中からまた本を読み始めている。
画面を切り替える。
知らない町。
知らない人。
知らない店。
知らない道。
たしかにすごい。
たぶん、日本にいたころなら、こんなものがあれば一日中見ていられたかもしれない。
けれど、何の説明もなく知らない場所を眺め続けても、そのうち全部ただの景色になってしまう。
誰が何をしているのか分からないし、どこへ向かっているのかも知らない。事件が起こっているわけでもなければ、面白い人が解説してくれるわけでもないので、画面の向こうでは知らない人たちが普通に生活しているだけだった。
私はまた画面を切り替えた。
どこかの川。
その次は森。
また町。
そして、海。
「…………」
世界は広い。
広いけれど、広いからといって面白いとは限らないらしい。
私は画面を消すと、ソファへ横になった。
結局、世界中が見られるようになっても、暇なものは暇だった。
「……なんか面白いことないかな」




