間話 景色はいい。
視界が切り替わった瞬間、魔族たちは言葉を失った。
眼下には果てしない雲海。大小の島が空に浮かび、緑豊かな岩山の間を、水の帯が川のように流れている。その中では丸々と太った魚が群れをなし、時折、空中へ跳ね上がっていた。
「……美しい」
女性魔族が呟いた。
あの人間の女に飛ばされるのは三度目である。戦乱の国では鬼と呼ばれて追われ、次の大陸では恐竜に追われた。だが、ここには戦争の気配もなく、魚も豊富だ。
「今度こそ、まともな場所ではないか?」
「ようやく我々にふさわしい土地へ送ったか」
元魔王支持派も抹殺派も、珍しく意見が一致した。
ただ、今までの苦労を知る壮年の魔族だけは、慎重に周囲を見回していた。
「待て。まずは――」
全員、地面に潰れた。
「ぐえっ!!」
身体が異様に重い。腕をついても起き上がれず、足を動かそうとすれば岩でも背負ったような負荷がかかる。おまけに胸いっぱい空気を吸っても息苦しく、頭まで痛み始めた。
「……な、何だ、この重さは!」
「息が……できん……!」
女性魔族が風魔法で空気を送り込んだものの、少しも楽にならない。むしろ魔力を使ったぶん、余計に疲れた。
壮年の魔族が必死に顔を上げた。
雲の上。遥か上空。周囲に人の住む気配はない。どこまで見渡しても島と雲ばかりで、逃げ込めそうな町も道も見当たらなかった。
「……空気まで薄いのか」
景色に見惚れていた時間は、実に短かった。
◇
どうにか身体を支えながら、近くの草地がある島を目指した。土魔法で足場を補強し、最後の隙間を風魔法で越える。
先に渡った抹殺派の男が、着地した途端に飛び上がった。
「うおっ!?」
今度は身体が軽すぎる。ほんの一歩で宙に浮き、そこへ強烈な横風が吹きつけた。
「ま、待っ……!!」
男の身体が雲海へ流される。
咄嗟に支持派の男が腕を掴んだが、そちらまで引っ張られた。女性魔族が二人の服を掴み、壮年の魔族が土魔法で足元の岩をせり上げる。最後は全員がかりで引き戻した。
「……なぜ助けた」
「目の前で落ちられては寝覚めが悪い」
二人は睨み合ったものの、どちらも座ったまま動けない。
「喧嘩するなら、せめて息が整ってからにして」
女性魔族も肩で息をしていた。
◇
重すぎる島では歩けず、軽すぎる島では風に飛ばされる。中には重力の向きまでおかしく、横向きに転がされる島もあった。
ようやく岩山の陰に、普通に立てる島を見つけた頃には、全員がくたくただった。風を避けられる岩陰もあり、草木も生えている。
「……ここを拠点にする」
壮年の魔族の言葉に、誰も逆らわなかった。逆らう体力が残っていなかった。
ただし、食べられそうなものは少ない。
見上げれば、空の川を無数の魚が泳いでいた。
「……あれを捕ればいい」
「ならば貴様が行け」
言い争った末、風魔法を使える者が突風を抑え、別の者が川へ雷撃を放つことになった。
青白い光が水を走り、数匹の魚が腹を見せる。
「捕れたぞ!」
「流れていくぞ!!」
慌てて風で吹き寄せたところ、一匹が支持派の男の顔面に直撃した。
「ぐおっ!」
「すまん! 加減を誤った!」
「貴様、わざとだな!?」
二匹目が男の腹に落ちた。
男は何か言おうとしたが、息切れして諦めた。これでも母国では一軍を率いたことのある戦士である。まさか魚に二度も倒されるとは、思いもしなかった。
だが、焼いた魚は驚くほど美味かった。誰もが黙々と食べた。
初めて両派が静かに食事を終えた。争う余力がなかっただけだが。
◇
翌日、女性魔族が岩棚に鳥の巣を見つけた。中には立派な卵が四つ。近くの枝には、青緑の羽毛と長い飾り羽を持つ、丸っこい鳥が止まっていた。
「……可愛い」
「ピィ」
つぶらな瞳の鳥が首を傾げる。女性魔族が卵に手を伸ばした途端、その鳥が顔面へ突っ込んできた。
「いったああっ!!」
鋭い嘴が額をかすめ、翼で頬を叩かれる。風魔法で追い払っても、たちまち戻ってくる。しかも岩陰から同じ青い鳥が次々に現れた。
五羽、十羽。まだ増える。
「ちょ、ちょっと! 誰か!!」
卵を一つ抱えたまま逃げる女性魔族を見て、壮年の魔族が土魔法で岩壁をせり上げた。
しかし鳥たちは岩壁を回り込み、今度は全員の頭をつつき始める。火魔法で威嚇すれば、風に乗ってさらに勢いよく突っ込んでくる。
「何を連れてきたのだ!」
「鳥よ!!」
「見れば分かる!!」
雷撃を放とうにも、味方の顔の周りを飛び回っていて狙えない。
どうにか一羽を仕留め、全員で岩陰へ逃げ込んだ頃には、頭も顔も傷だらけだった。
「……青い悪魔よ」
女性魔族が呟いた。
「鳥ではないのか?」
「あんなの、鳥じゃないわ。青い悪魔よ」
誰も反論しなかった。
その夜の鳥肉と卵は絶品だった。
しかし、もう一度取りに行こうという者は、一人もいなかった。卵を抱えて帰った女性魔族でさえ「明日も行く?」と聞かれた途端、露骨に顔をしかめた。
◇
日中は強い日差しに晒され、夜は凍えるほど冷え込む。枝を集めて火魔法で焚き火を起こし、土魔法で風除けを作っても、薄い空気だけはどうにもならない。誰かが夜中に倒れれば、敵対派閥の者でも水を飲ませて介抱した。放っておけば翌朝の見張りが減るからだ。
頭痛と吐き気で動けなくなる者が続出し、昨日渡れた島は翌朝には遠くへ流されていた。昨日、岩に印まで付けて確認した道筋が、たった一晩で役立たずになる。壮年の魔族はその光景を見たまま、しばらく口を開かなかった。
ついには食料を捕りに出た抹殺派が暴風で戻れなくなり、救助に向かった支持派まで重力の強い島で動けなくなった。
全員で救い出したあと、壮年の魔族が告げた。
「……もう別々に動くのはやめだ」
「我々に指図する気か!」
抹殺派の男が噛みついたが、女性魔族が遮った。
「じゃあ次は見殺しにする? 私、もう全員を迎えに行くのは嫌よ」
沈黙が落ちた。
「……双方から人を出して、二人一組で動きましょう。風を防ぐ者と獲物を捕る者。交代制にすればいいわ」
気に入らない。だが、反対できる者もいなかった。
こうして、魚を捕る者、周囲を警戒する者、動けない者を看る者が決まった。相変わらず相手を信用してはいない。それでも、誰かが落ちかければ手を伸ばし、体調を崩せば食事を分けた。
生き延びるには、そうするしかなかった。
◇
「……あの女め」
夕食の魚をかじりながら、抹殺派の男が呻いた。
「……恐竜のいない場所にすると言っていたな」
「ああ。確かに、ここにはいないようだが……」
「……そういう問題ではなかろう」
誰もが同じ気持ちだった。
「次に会ったら、ただでは済まさん」
一人が低く呻いた。
「やめて!!」
女性魔族の声に、全員が振り向く。
「またどこかへ飛ばされたら、今度こそ死ぬわよ!」
誰も言い返さなかった。
戦乱の国。恐竜の大陸。そして、ここ。
次は何が待っているのか、想像したくもない。
「……ひとまず、ここで生き延びることを考えよう」
壮年の魔族の言葉に、敵対する者たちも無言で頷いた。
そのとき、青空を一羽の美しい鳥が横切った。
全員が、一斉に岩陰へ身を隠した。
ここは実に美しい場所だった。
眺めている分には。




