第51話 水槽です。
次の日。
東屋の水槽は、昨日より明らかに賑やかになっていた。
海藻の間を小さな魚の群れが横切り、水面近くでは細長い魚が勢いよく飛び出している。岩陰には蟹が何匹か集まり、その向こうを大きなサメ――だったらしいものがゆっくり泳いでいた。
水槽の真ん中には、いつの間に作ったのか小さな浮島まである。
「島まであるんだけど」
「水面付近の生態も必要だ」
レムは普通に答えた。
必要なのか。
よく分からないけど、昨日より水槽らしくなくなったことだけは分かる。
ロキは朝からまた水槽の前にいて、その後ろには爺がいる。フックも少し離れたところで、釣ってきたらしい魚をじっと見ていた。
また入れる気だ。
まあ、好きにすればいい。
私はソファへ戻ろうとしたところで、携帯が反応した。
『由美』
ギルだった。
「なに?」
『今からエステへ行く』
「どうぞ」
連絡はそれだけだった。
わざわざ言わなくても来ればいいのにと思ったものの、たぶん気を使っているんだろう。
少しして島に現れたギルは、今日は仕事ではないらしく、いつもの組合の格好より少し軽い服装をしていた。
「おはよ」
「ああ」
そのまま隣島のエステへ向かうのかと思ったが、途中で足が止まる。
視線の先には東屋があった。
「……あれは何だ」
「水槽」
「水槽?」
ギルは怪訝そうな顔のまま、ゆっくり近づいていった。
その時点では、まだ普通だった。
東屋へ入り、水槽を覗き込むまでは。
「…………由美」
「なに?」
「これは何だ」
「水槽」
「そうじゃない」
ギルは水槽の中を凝視していた。
アビスクラーケンが岩の上で触手を動かし、その頭上を巨大クラゲの縮小個体が漂っている。奥ではサメが小魚の群れを避けるように泳ぎ、浮島の近くでは飛魚がぴょんぴょんと水面を飛び越えていた。
その横では、ロキが本を開いたまま水槽を眺めている。
「これ、全部魔物か?」
「普通の魚もいるよ」
「そういう問題じゃない」
そうかな。
ギルはアビスクラーケンへ顔を近づけ、しばらく観察してから眉をひそめた。
「……幼体か?」
「成体だけど」
動きが止まった。
「今、何て言った?」
「成体」
そこへ水槽の向こうからレムがやってきた。
「正確には縮小した成体だ」
ギルの目が、今度はレムへ向く。
「……誰だ」
「あ、まだ会ってなかったね。レム」
「レムだ」
「昨日拾った宇宙人」
ギルが私を見る。
レムを見る。
もう一度、私を見る。
「……宇宙人って何だ」
「あ」
そうか。
そこからか。
「別の星から来た人」
「別の星?」
「うん。レムはウルタ星から来たんだって」
ギルが空を見上げた。
たぶん星を探している。
「……星って、夜に見えるあれか?」
「そう。ああいうののどっか」
「人が住んでるのか?」
「レムのところにはね」
「待て待て待て待て」
ギルが片手を上げた。
まだ水槽の説明すら終わっていないのに、もういっぱいいっぱいらしい。
「なんでお前は普通に分かってるんだ」
「私も地球から来たし」
ギルが止まった。
「…………何?」
「地球」
「何だそれ」
「私がいたところ」
「いたところ?」
「この世界に来る前に住んでた世界」
しばらく何も返ってこなかった。
やがてギルが、ものすごくゆっくり私を見る。
「お前、この世界の人間じゃないのか?」
「うん。異世界人」
「初耳だ!!」
「言ってなかったっけ」
「聞いてねえよ!」
そうだったらしい。
「ロキたちも昨日初めて知ったのよ」
「昨日!?」
「聞かれなかったし」
「聞くわけねえだろ!」
確かに。
普通は人に会って、どこの世界から来ましたかとは聞かない。
ギルは頭を抱えたまま、一度水槽を見て、レムを見て、最後に私を見た。
「待て。整理するぞ」
「うん」
「この水槽には、成体の海洋魔物が入ってる」
「入ってるね」
「そいつらは小さくされてる」
「うん」
「そこの女は、別の星から来た宇宙人」
「そう」
「お前は、別の世界から来た異世界人」
「そうだね」
「待て待て待て待てーぃ!」
今度は両手が上がった。
「一個ずつにしろ!!」
「私に言われても」
全部もう起きている。
レムはギルの反応など気にした様子もなく、水槽の中を確認していた。
「で、縮小したって何だ!」
やっと水槽へ戻った。
「そのままの意味だ」
レムが水槽を示す。
「内部では縮小状態を維持している。外へ出せば本来の大きさへ戻る」
ギルの顔色が変わった。
「……全部?」
「ああ」
水槽を見る。
アビスクラーケン。
サメ。
クラゲ。
蟹。
よく分からない深海生物。
そのほか、いろいろ。
ギルが一歩下がった。
「これ全部出たらどうなる」
「元に戻る」
「災害じゃねえか!」
声が大きい。
ロキはちらっと見ただけで、すぐ水槽へ視線を戻した。
「大丈夫だよ。結界かけてるし」
「そういう問題じゃない!」
「縮小維持装置にも多重保護がある」
「だからそういう問題じゃない!」
レムまで同じことを言われていた。
爺は少し離れたところで静かに見守っているし、フックに至ってはギルの声など気にせず、また魚を水槽へ入れている。
ぽちゃん。
小さくなった。
フックの肩が落ちる。
「何してるんだ、あいつは」
「昨日からあれ」
「止めろよ!」
「楽しそうだから」
ギルが頭を抱えた。
そんなに大変なことだろうか。
私はもう一度、水槽を見る。
小魚の群れが海藻の間を抜け、その後ろを別の群れが横切っていく。浮島の下には小さな甲殻類が集まり、深い方では青白い光がいくつも瞬いていた。
昨日より、ずいぶん海っぽくなった。
レムも同じことを考えていたらしい。
「生態系が安定し始めた」
「作る気だったの?」
「いや」
「作る気なかったんだ」
ギルが勢いよく顔を上げた。
「そこに驚け!」
その時、今度はヴェラが島へ現れた。
私たちが東屋の前に集まっているのを見ると、そのままこちらへ歩いてくる。
「おや、ギルもいたのかい」
「ヴェラ」
「エステかい?」
「ああ。いや、その前に――」
ギルが何か言いかけたところで、ヴェラの視線がレムへ向いた。
「そっちは?」
「レム。宇宙人」
「宇宙人?」
「別の星から来た人」
「へえ」
終わった。
ギルがヴェラを見る。
「へえ、で終わるのか!?」
「だっているんだろ?」
「いるけど! その前に宇宙人が何なのか疑問に思え!」
「別の星から来たんだろ?」
「今聞いただけで納得するな!」
ヴェラはそれ以上気にする様子もなく、水槽へ近づいて中を覗き込んだ。
「ずいぶん集めたねえ」
「分かるの?」
「全部じゃないけどね」
ヴェラは浮島の下を指した。
「あの蟹は岩礁帯にいるやつだ。船の錨綱を切ることがある」
レムがそちらを見る。
「生息域は?」
「この辺なら島の南東側だね。潮が弱い時間に岩陰へ入るよ」
「参考になる」
そのまま話が始まった。
ギルが横で固まっている。
ヴェラは今度はサメへ目を向けた。
「そのサメは外洋の方だね。もっと大きいのもいるよ」
「もっと大きい個体がいるのか」
「ああ。北へ少し行けばいる」
「採取する」
「増やすな!」
ギルの声が響いた。
ロキが顔を上げる。
「大きいサメ?」
「いるよ」
「見たい」
「坊ちゃま」
爺が静かに止めた。
珍しい。
「昨日も長時間こちらにおられましたので、今日はほどほどになさってくださいませ」
「……あとで帰る」
「昨日も同じことを仰いました」
ロキが黙った。
そこは爺の勝ちらしい。
一方、ヴェラとレムはもう別の生き物の話をしていた。
「深いところなら、光るやつも多いよ。私も直接見たことはほとんどないけどね」
「観測範囲を広げる」
「なら西側の海溝も面白いかもしれない」
「ヴェラ」
「なんだい?」
「レムに教えると増えるよ」
「そうなのかい?」
「増える」
ヴェラはしばらく水槽を眺めた。
「まあ、面白いからいいんじゃないかい」
ギルが両手で顔を覆った。
味方がいないらしい。
でも、何か問題があるわけでもない。
水槽は壊れていない。
生き物は逃げない。
ロキは楽しそう。
レムは観察できる。
フックも魚を入れている。
ヴェラも興味がある。
困っているのは、ギルだけだった。
「……由美」
「なに?」
「俺が変なのか?」
少し考える。
「たぶん一番まとも」
「なら止めろ!」
「私、水槽作っただけだよ」
「お前が作るからだ!」
それはちょっと理不尽だと思う。
私は二メートルくらいの水槽を作っただけである。
中に海を作ったのは、私じゃない。




