第5話 結界の外に人がいる
翌朝、ソファでコーヒーを飲みながら窓の外をぼんやり眺めていると、木々の間に動くものが見えた。
ロキは朝食を食べ終えると自分の部屋へ戻っている。何をしているのかは知らないが、困っている様子もないので好きにさせていたし、こちらも今日は何を食べようか考えるくらいしかやることがない。
最初は動物かと思ったものの、よく見ると人だった。革らしき服を着た男が家から少し離れた場所に立ち、片手に弓を持ったまま、何もない空間へ手を伸ばしている。
「……何してるんだろ」
眺めていると、男は横へ移動して再び前へ進もうとしたが、また同じ場所で止まった。
そこで思い出す。
家を建てたあと、自分の周囲にだけ張っていた防虫結界を、家から三十メートルほどまで広げて固定したのだった。虫だけでなく、危なそうなものや知らない相手まで勝手に入ってこないようにしてある。
「あれか」
人が来ることまでは考えていなかった。
放っておくのも気になるのでコーヒーを置き、サンダルを履いて外へ出ると、こちらに気づいた男が空中へ触れていた手を下ろした。
「こんにちは」
声をかけると、男も少し戸惑った様子で挨拶を返した。
近くの町で狩りをして暮らしており、この辺りにも普段から来るらしい。数日前まで何もなかった場所で突然先へ進めなくなり、その向こうには見覚えのない家まで建っていたので、どうしたものかと調べていたという。
「それ、私の結界です。この辺、虫が多かったので家の周りまで広げたんですけど」
男が黙った。
もう一度結界へ触れ、それから家を見る。
どうやら虫除けという説明と、目の前にあるものがうまく結びついていないらしい。
「入ります?」
結界越しに話し続ける必要もないので、通していい相手として意識すると、伸ばしていた男の手がそのままこちら側へ抜けた。
「どうぞ」
促すと、かなり慎重な足取りで中へ入ってくる。
近くで見ると四十歳前後だろうか。使い込まれた弓と短剣を身につけ、服にも土や葉がついているので、森には慣れていそうだった。
名前はバルド。
「私は田中由美です。由美でいいです」
名乗ると少し妙な顔をされたが、姓と名の順番でも違うのかもしれないので、そのまま話を続けた。
森の浅い辺りまでは町の猟師や採取人も普通に利用するものの、奥へ進むほど魔物が増えるので、一人で深く入る者は少ないらしい。
「いるんですね、魔物」
口にした途端、今度ははっきり変な顔をされた。
森の中に家まで建てて暮らしている人間の発言としては、おかしかったようだ。
本当にここで暮らすつもりなのかとも聞かれたが、町に宿があると言われても、今さらこの生活を捨てて移る理由はない。
「こっちの方が静かなので」
それだけ答えると、なぜかまた結界へ視線を向けられた。
しばらく話したあと、バルドは町へ戻ることになった。このままだと何も知らずに来た猟師や採取人が同じように結界へ引っかかるので、冒険者組合には知らせておいた方がいいという。
「じゃあ、勝手に入れないって伝えてもらえると助かります」
それで済むと思ったものの、これだけの結界と家が突然現れた以上、組合から確認に来る者がいるかもしれないらしい。
「……来るんですか」
本音がそのまま出た。
申し訳なさそうにしながらも、おそらく、と返される。
帰っていく背中を見送り、結界を閉じ直して家へ戻ると、いつの間に部屋から出てきたのか、ロキが窓の外を見ていた。
「人、来ちゃった」
こちらを見上げるだけで特に何も言わないので、ソファへ戻って途中だったコーヒーを手に取る。
「まあ、来ても入れなきゃいいか」
そう考えることにした。
ところが翌日の昼前、窓の向こうにはまた人影があった。
「……来たか」
今度は二人いる。昨日のバルドと、その隣には革の鞄を肩から下げた見知らぬ男が立っており、どちらも結界の手前できっちり止まっていた。
玄関へ向かうと、こちらに気づいたバルドが片手を上げ、その隣の男も軽く会釈する。
「昨日言った組合の人だ」
「冒険者組合のギルです。バルドさんから話を聞きまして、一度確認だけさせてもらえればと」
「こんにちは。どうぞ」
許可すると二人は結界を抜け、ギルは境目を越えたところで一度だけ後ろを振り返った。
「……本当に通れましたね」
「許可した人は通れるみたいです」
「みたいですか」
「細かいところまでは把握してないので」
虫と危なそうなものと知らない相手を入れたくなくて張っただけなので、詳しい仕組みまでは知らない。ギルは何か言いたそうな顔をしたものの、そのまま家へ視線を移した。
「この家も、あなたが?」
「はい。住むところがなかったので作りました」
「どれくらいで?」
「その日のうちですね」
答えると、ギルだけでなくバルドまで黙って家を見上げた。
何かおかしかったらしいが、この世界の家づくりに何日かかるのか知らないので、それ以上は何とも言えない。
「中も見ます?」
「可能なら」
二人をリビングへ通すと、ロキがダイニングテーブルで果物を食べていた。来客を見て手を止め、黙ったまま軽く頭を下げる。
「その子は?」
「ロキです。一緒に住んでます」
「角があるから魔族ですね」
「らしいですね」
「……らしい?」
「本人から詳しいことは聞いてないので」
果物を渡したらそのままついてきた、という話まで始めると長くなるので省いた。
ギルはロキを少し見たものの、それ以上は踏み込まず、持っていた手帳を開いた。
ここへ住み続けるつもりなのか、町や街道へ危害を加える意思はないか、森を利用する猟師や採取人を締め出すつもりはないかと確認されたので、特にそのつもりはないと答える。
「ここで静かに暮らせれば、それでいいです。結界も家の周りだけですし」
ギルは頷きながら何かを書き込んでいたが、その姿を見ているうちに昨日から少し気になっていたことを思い出した。
「そういえば、この森って誰かの土地なんですか?」
「この辺りですか?」
「はい。勝手に家建てちゃったので」
今さらではあるものの、あとから出ていけと言われるのも面倒だ。
町と周辺の農地までは辺境領だが、この森はその外にあり、浅い場所を猟師や採取人が利用しているだけで、正式に領地として管理されている土地ではないらしい。
「じゃあ、領主はいない?」
「少なくとも、この辺りには」
「土地代とかは?」
「ありませんよ」
「税金も?」
「領民ではありませんからね」
思わず小さく頷いた。
家賃も土地代もなく、電気代も水道代も下水代もない。
ここで暮らしている限り、固定費はほとんどかからない。
異世界、そこはかなり優秀だった。
「ただし国の管理外なので、何かあっても領兵が守ってくれるような場所ではありません」
「それは大丈夫です」
結界があるので困らない。
ギルも同じことを考えたのか、窓の向こうへちらりと目をやったあと、手帳を閉じた。
「こちらとしては今のところ問題ありません。周辺の利用者を妨げるつもりもないのであれば、組合から何か言うこともありません」
「よかったです」
これで帰ってくれる。
玄関まで見送ったところで、ギルが足を止めた。
「ただ、町へ入ることがあるなら、身分証は作っておいた方がいいですよ。冒険者組合でも発行できますし、宿を取ったり、まとまった取引をしたりするときに便利です」
宿は使わないし、今のところ買い物へ行く予定もない。
「今のところ町へ行く予定はないです」
「……そうですか」
「必要になったら行きます」
「分かりました。そのときは組合へどうぞ」
バルドも軽く手を上げ、二人は森の木々の向こうへ消えていった。
姿が見えなくなってから家へ戻ると、ロキが果物を食べながらこちらを見る。
「問題なかった?」
「うん。ここ、誰の土地でもないって。税金もない」
冷蔵庫から麦茶を出してグラスへ注ぎ、そのままソファへ戻った。
最高である。
身分証という余計な情報は増えたものの、今すぐ必要ではない。必要になったときに考えればいいので、横になって目を閉じる。
今日はもう、誰も来ませんように。




