間話 人はいない
景色が変わった。
ついさっきまでいた山も木々も消え、突然広い草原の真ん中へ放り出された魔族たちは、しばらくその場から動けなかった。
矢は飛んでこない。
怒号も聞こえない。
武器を持った人間が追いかけてくる気配もない。
「……戻ったのか?」
誰かが、恐る恐る口を開いた。
「元の大陸に……?」
その言葉が落ちた途端、張り詰めていた空気が一気に緩む。
「ようやくか……!」
「戻れたのか!」
見知らぬ土地へ突然飛ばされてから、長かった。
言葉の通じない人間には鬼と呼ばれ、水を汲みに行けば追われ、食べ物を探しに行けば追われ、ただ道を歩いているだけでも追われた。
ようやく、あの日々が終わる。
そう思ったのだが。
「……待て」
一人が足元の草を見ながら眉を寄せた。
「何だ」
「こんな植物、我らの大陸にあったか?」
言われて周囲を見回す。
見たこともないほど大きな葉。妙に背の高い草。幹の形まで馴染みのない木々が、草原の向こうに広がっている。
「……ないな」
「この花も知らん」
「俺もだ」
誰も何も言わなくなった。
改めて周囲を見渡してみれば、道もない。畑もない。煙ひとつ上がっておらず、どれだけ目を凝らしても建物らしきものさえ見つからない。
「……集落は?」
「見えん」
「ここは魔族領のどこだ」
「こんな場所、知らんぞ」
「…………」
どうやら、元の大陸ではないらしい。
「またか……」
低い声が漏れた。
とはいえ、前の土地とは少し様子が違っていた。
森へ入って間もなく川が見つかり、恐る恐る確かめてみれば水は澄んでいる。その中には魚も泳いでおり、周囲を探せば実のなった木もいくつか見つかった。
「水だ」
「魚もいるぞ」
「この実も食えそうだな」
前の土地では、水を確保するだけでも人間に見つかる危険があり、食べ物を探して山へ入ればまた追われた。
それに比べれば、ここは静かだった。
「……前よりはましだな」
「ああ」
水はある。
食べ物もある。
今のところ、人間の気配もない。
一人が川辺へ腰を下ろし、辺りを眺めながらぽつりと言った。
「もしかすると……今度こそ、我らのことを考えてくれたのかもしれんな」
「…………」
誰も否定しなかった。
確かに、また元の大陸へ戻してはもらえなかったらしい。
だが少なくとも、今度はいきなり矢を射られることもなければ、鬼と叫ばれて討伐隊を差し向けられることもない。
「……意外と悪い奴ではないのかもしれん」
「前の土地は、たまたま運が悪かっただけでは?」
「そうかもしれんな」
少しだけ、あの女を見直しかけた。
――ズン。
足元が揺れた。
「……何だ?」
――ズン。
今度はさっきより近い。
一斉に立ち上がって森を見ると、鳥の群れが木々の間から飛び立っていく。
「何かいるぞ」
全員が身構えた直後、森の奥で大きな枝が押し分けられた。
その隙間から、巨大な頭がぬっと現れる。
「…………」
見上げる。
まだ見上げる。
異様に長い首の先についた頭が、こちらなど気にも留めず、高いところにある葉をむしゃむしゃと食べ始めた。
「……でかいな」
「ああ」
さらにその後ろにも同じような生き物がいる。一頭どころではなく、二頭、三頭と、森の向こうを悠々と歩いていた。
「魔物……か?」
「襲ってはこないようだ」
「草を食っているな」
「ということは……」
一人が巨大な胴体をじっと見つめた。
「食えるのでは?」
「お前、まずそこなのか」
「一頭あれば何日もつと思っている」
誰も強く否定できなかった。
見知らぬ草を兜で煮て食べていた頃を思えば、肉が歩いているだけでもありがたい。
「問題は、どう仕留めるかだな」
「足を狙うか?」
「待て。まず食えるか確認してから――」
そのとき、森のさらに奥から腹の底まで震えるような咆哮が轟いた。
『グオオオオオオオオッ!』
目の前の巨大な生き物たちが、一斉に走り出した。
「……逃げたぞ」
「ああ」
「草を食う奴が逃げたな」
「…………では、今の声は」
木がへし折られた。
森の奥から現れたのは、さっきの生き物とは明らかに違う何かだった。
巨大な頭。
大きく裂けた口。
その中に並ぶ、どう見ても草を食べるためではない牙。
短い前脚。
そしてこちらを見ている目。
「…………」
「さっきの、食う話は忘れろ」
「言われなくても分かる」
巨大な口が開いた。
「走れぇぇぇぇぇ!!」
全員が一斉に駆け出す。
背後では木がへし折れ、地面が揺れ、咆哮がどんどん近づいてくる。
そして、ほんの少し前まで「あの女も意外と悪い奴ではないのかもしれない」と言っていた男が、走りながら空へ向かって叫んだ。
「あの女ぁぁぁぁぁぁ!!」
人はいなかった。
代わりに、やたらでかいのがいた。




