間話 鬼じゃない
矢が飛んできた。
「伏せろ!」
声が上がるより早く、十数人の魔族たちは左右へ散った。一本目が頭上を抜け、二本目が木の幹へ深々と突き刺さると、続けざまに茂みの向こうから矢が降ってくる。
「またか!」
「だから街道には近づくなと言っただろう!」
ふ
「食えるものがないんだから仕方ないだろ!」
言い争っている間にも矢は飛んでくるので、若い魔族が苛立ったように片手を振ると、巻き起こった風が矢をまとめて弾き飛ばした。
その向こうでは、見慣れない形の鎧をまとった男たちが何かを叫んでいる。
相変わらず、何を言っているのかはよく分からない。
突然この土地へ飛ばされ、偶然通りかかった荷馬車の男へ話しかけたあの日から、それほど状況は改善していなかった。
いくつかの単語は覚えた。
水。飯。待て。行け。
そして、自分たちを見た者がかなりの確率で叫ぶ言葉も。
鬼。
意味までは正確に分からないが、少なくとも友好的な呼び名ではない。
「焼き払うか」
低い声で言ったのは、もともとロキを亡き者にしようとしていた側の男だった。
「やめろ」
反対側にいた壮年の魔族が即座に止めると、男は不満そうに眉を寄せた。
「あれくらいならすぐ終わる」
「そのあと倍になって来る」
それについては、誰も反論しなかった。
最初の頃、一度だけ派手に追い払ったことがある。
翌日には人数が増えた。
さらに追い払ったところ、その次はもっと増えた。
どうやらこの土地の者たちは、相手が強ければ諦めるのではなく、強ければ強いほど人数を集めて始末しようとするらしい。
「退くぞ」
壮年の魔族がそう言うと、敵対していた側の男は舌打ちしたものの従った。
以前なら、その指示ひとつで揉めていただろう。
今はそんなことに体力を使う者はいない。
走りながら一人が背後へ火球を落とし、街道脇の地面を大きく抉る。追ってきていた兵たちが足を止めたのを確認すると、それ以上は攻撃せず、そのまま山へ逃げ込んだ。
勝てないわけではない。
一対一なら、ここにいる魔族の大半があの兵たちより強い。
だが、勝ったところで飯は出ない。
住む場所も手に入らない。
まして元の大陸へ帰れるわけでもない。
その事実を理解するまでに、それほど時間はかからなかった。
山中に作った仮の野営地へ戻る頃には、すっかり日が傾いていた。
木の枝と葉を重ねただけの粗末な屋根の下では、留守番をしていた者たちが火を囲んでいる。誰かが手に入れてきた古い蓑を羽織っている者もいれば、編み方すら分からない笠を被っている者もいた。
角のせいで、笠はひどく収まりが悪い。
それでも雨は防げるので、今となっては誰も見た目を気にしなくなっていた。
「何かあったか」
「川で魚が五匹。あと、食えそうな草」
「食えそう?」
「昨日食べた奴がまだ生きている」
「なら食える」
判断基準も日に日に雑になっている。
鍋の代わりに使っている金属製の兜へ水を入れ、魚と草を放り込む。味付けに使えそうなものはとっくに尽きているため、出来上がるのは魚と草を煮ただけの何かだった。
敵対派の女が兜を覗き込み、露骨に顔をしかめる。
「またこれか」
「嫌なら食うな」
「食うに決まっているだろう」
少し前までなら、この二人も顔を合わせるたび、ロキを巡って言い争っていた。
今は違う。
誰が明日の食料を探しに行くかで揉めている。
飛ばされた当初は、数日もあれば戻る方法が見つかると思っていた。
転移の痕跡を探し、魔法で周囲を調べ、高い山へ登って遠くまで見渡した。
結果として分かったのは、元いた土地から途方もなく離れているらしいことだけだった。
海も見た。
町も見た。
高い石垣の上に築かれた巨大な建物も見た。
衣服も違えば、武器も違う。屋根の形も、食べ物も、道を行き交う乗り物も違っており、おまけにこの土地では、そこかしこで人間同士が戦っている。
昨日まで静かだった村が翌日には焼けている。
何もなかった平原で、突然何百人もの兵がぶつかり合う。
道を歩けば関所らしき場所で止められ、言葉が通じないまま角を見られ、結局また武器を向けられる。
こちらも好きで山に籠もっているわけではない。
だが町へ行けば騒ぎになる。
村へ近づけば逃げられる。
街道へ出れば追われる。
山へ戻れば、今度は飯がない。
壮年の魔族は薄い魚の汁をすすりながら、深く息を吐いた。
「明日は南を調べる」
「また村があるぞ」
「迂回する。川沿いなら食えるものもあるだろう」
それなら、と何人かが頷いたところで、森の奥から枝を踏み折る音が近づいてきた。
一斉に身構えたものの、姿を現したのは朝から偵察に出ていた仲間だった。
かなり急いで戻ったらしく、肩で息をしている。
「どうした」
「南はやめた方がいい」
「何かいたのか」
偵察役はしばらく呼吸を整えると、山の向こうを指した。
「兵が集まっている。五十はいた」
「また戦か?」
「分からん。ただ、皆で武器を持って、何度もこちらの山を指していた」
嫌な予感がしたのか、誰も口を挟まない。
偵察役はさらに顔をしかめた。
「それと、何度も聞こえた言葉がある」
「何だ」
「……鬼」
全員の視線が集まった。
山。
角。
妙な術。
最近この辺りに現れた、見慣れない一団。
思い当たるものが多すぎる。
「……我々のことではないだろうな」
誰かが呟いたが、答える者はいなかった。
「何人いた」
「五十ほど」
沈黙が落ちる。
偵察役はさらに続けた。
「まだ増えていた」
壮年の魔族は手にしていた器を置き、しばらく火を見つめた。
「……北へ行くぞ」
反対する者は、一人もいなかった。




