第27話 坊ちゃまとは
昼食後にテラスでぼんやり海を眺めていた私は、ふと思い出した。
「そういえば森の家、ずっと放置してる」
向かいで果物を食べていたロキが顔を上げる。
「結界は残っているのだろう」
「残ってるけど、家ってたまには見に行った方がよくない?」
「好きにしろ」
相変わらず興味があるのかないのか分からない返事だったが、一人で行く理由もないのでロキも連れていくことにした。
転移した先では、森の家が以前と変わらない姿で木々の間に建っていた。結界も問題なく機能しているらしく、庭はちょっとジャングル化してるが荒らされた様子もない。
久しぶりに扉を開けると、中もそのままだった。
「やっぱこっちも落ち着くね」
私はソファへ腰を下ろし、そのまま背もたれへ沈み込んだ。海が見えない代わりに窓いっぱいに森が広がっていて、これはこれで悪くない。
ロキは自分の部屋を見に行ったものの、しばらくすると戻ってきて窓の外へ目を向けた。
「……誰かいる」
「え?」
起き上がって外を見ると、結界の少し向こうに一人立っていた。
魔族らしい。
以前やってきた連中とは違い、武装して押しかけてくる気配はない。背筋をまっすぐ伸ばした老人が、黒っぽい上着をきっちり着込み、両手を前で重ねて静かにこちらを見ている。
隣でロキが固まった。
珍しい。
「知り合い?」
「……なぜ、ここに」
老人はロキの姿を見たまま、しばらく動かなかった。
やがて目元をわずかに緩めると、深く頭を下げる。
「ご無事でございましたか、坊ちゃま」
坊ちゃま。
私はロキを見る。
ロキはものすごく嫌そうな顔をしていた。
「その呼び方はやめろ」
「十歳でございます」
「そういう意味ではない」
どうやら知り合いらしいので結界を開けると、老人は中へ入り、家の前まで来てから改めてロキを上から下まで確認した。
「お痩せになりましたかな」
「なっていない」
「お顔色は以前よりよろしいようで」
「見るな」
どう見ても執事だった。
しかも普通の執事ではない。ロキが嫌がっているのを完全に無視して、服の襟まで直している。
「……誰?」
「昔から俺についていた執事だ」
「昔とは心外でございます。坊ちゃまがお生まれになった頃からでございます」
「十分昔だ」
老人はそこでようやく私へ向き直り、丁寧に頭を下げた。
「坊ちゃまがお世話になっております」
「うん」
「世話にはなっていない」
「住んでるじゃん」
「それとこれとは別だ」
とりあえず外で立ち話をするのも何なので、中へ入ってもらうことにした。
爺は室内へ入るなり、さりげなく周囲を見回した。
家具を見る。台所を見る。廊下を見る。さらにロキの部屋まで確認する。
「何をしている」
「生活環境の確認を」
「勝手に見るな」
「寝具は十分。衣類もございますな。室温にも問題はなし、と」
「聞け」
私はソファからその様子を眺めていたが、特に邪魔でもないので放っておいた。
ひと通り確認して満足したらしい爺は、ようやく向かいの椅子へ座った。
「それで、なんでここに?」
尋ねると、爺は少し姿勢を正した。
「坊ちゃまが魔王位を追われて以来、行方を捜しておりました」
「……ん?」
私は持っていたカップを止める。
「魔王?」
爺がこちらを見た。
「ご存じでは?」
「知らない」
今度は爺がロキを見る。
ロキは何でもないことのように答えた。
「言っていないからな」
「へえ。ロキ、魔王だったんだ」
「元だ」
「ふーん」
私はまたお茶を飲んだ。
爺だけが、少し何とも言えない顔をしている。
「……それだけでございますか」
「だって今は違うんでしょ?」
「まあ……左様ではございますが」
元魔王だからといって、今のロキが変わるわけでもない。相変わらずうちでご飯を食べて寝ている十歳だ。
「だから前に来た人たち、ロキのことで揉めてたの?」
「取り合っていたわけではない」
「概ねそのようなものでございます」
「違う」
爺はロキを無視して話を続けた。
ロキは本人の希望とは関係なく、血筋によって魔王位に就いたらしい。しかし周囲の派閥争いが激しくなり、最終的には政治的に追い落とされた。
追放が決まった時も、爺は表向き何もしなかったという。
「そう見えるようにしておりましたので」
監視の配置を変え、荷物の検査を担当する者を入れ替え、数日前から必要なものを少しずつ移していたらしい。
金、保存食、衣類、薬、それに最低限の魔導具。
「あの荷物は、お前だったのか」
「坊ちゃまを着の身着のままで放り出すわけには参りませんので」
「……菓子まで入っていた」
「必要でございました」
「必要ではない」
「よく召し上がっておられました」
爺は一歩も引かなかった。
どうやら魔王だったロキより強い。
「あと枕も」
「お持ちにならないと眠れなかったでしょう」
「いつの話だ」
「七歳頃まででございますな」
私はロキを見る。
「へえ」
「見るな」
「ちなみに、その頃の坊ちゃまは私をジージと」
「言うな」
「ジージ、今日は会議へ行きたくない、と」
「言うなと言っている」
「ジージ、お野菜は嫌だ、と皿をこちらへ」
「もう黙れ」
元魔王の威厳がものすごい勢いで消えていった。
爺は追放後も城へ残り、表向きは何事もなかったように働いていたらしい。ロキ寄りだった者が露骨に処分されないよう立ち回り、危なそうな者は先に城から遠ざけていたという。
「ずいぶん無茶するね」
「年寄りですので。多少疑われたところで、皆、昔からの執事としか思いません」
たぶん、それを利用して相当好き勝手やったのだろう。静かな顔をしているが、この爺も大概だった。
ただ、最近になって状況が変わったらしい。
「坊ちゃまを追って城を出た者たちが、まとめて消息を絶ちました」
「あ」
心当たりがある。
ロキも同時にこちらを見た。
以前、森で魔族同士が揉めていた時、面倒になったのでまとめて遠くへ飛ばした。
「……それ、私だわ」
爺の視線がゆっくりこちらへ動く。
「何が、でございますか」
「消えた人たち。別の大陸に飛ばした」
数秒、沈黙が落ちた。
「……全員を?」
「たぶん」
「坊ちゃまを支持していた者も?」
「一緒にいたから」
「敵対していた者も?」
「一緒にいたから」
爺は目を閉じた。
「なるほど」
納得が早い。
「現在、城では第三勢力の介入ではないか、坊ちゃまが密かに力を蓄えているのではないか、あるいは旧王家の支持者が動いたのではないかと、様々な憶測が飛び交っております」
「全部違うね」
「全部お前だ」
「だって森めちゃくちゃにしてたし」
爺はもう一度目を閉じた。
「なるほど」
二回目だった。
ロキを追放した側も一枚岩ではなく、今は内部でまた揉め始めているらしい。ロキを再び担ぎ上げたい者もいれば、このまま完全に排除しておきたい者もいる。
それを聞いても、ロキは特に表情を変えなかった。
「俺は戻らない」
「左様でございますか」
「魔王にも戻る気はない」
「承知いたしました」
爺はあっさり頷いた。
もっと説得するとか、国のために戻れとか言うのかと思ったので、少し意外だった。
「それでいいの?」
「坊ちゃまは昔から、魔王になりたいと一度も仰っておりませんので」
ロキは黙っていた。
「なら戻らなくていいんじゃない?」
私がそう言うと、爺はゆっくりこちらを見て、それから小さく頭を下げた。
「そのように言ってくださる方のお傍におられるのであれば、安心いたしました」
少しだけ空気が静かになった。
重くなりそうだったので、ちょうど夕方でもあるし、夕飯を作ることにした。
森へ戻る予定なんて今日までなかったので大した材料は置いていなかったが、収納にはいくらでも入っている。肉を焼き、野菜を添え、スープを作ってテーブルへ並べた。
爺にも出すと、最初は遠慮したものの、結局一緒に食べることになった。
ロキはいつも通り食べている。
肉を食べ、スープを飲み、付け合わせの野菜を口へ入れた。
その瞬間。
「……坊ちゃま」
爺の声が震えた。
ロキが嫌そうに顔を上げる。
「なんだ」
「いま……お野菜を……」
「食べたが」
爺の目に、みるみる涙が溜まっていく。
「坊ちゃまが……野菜を召し上がっておられる……」
「何を泣いている」
「幼き頃は、緑のものを見るだけで皿の端へ寄せておられたというのに……うう……」
泣いた。
本当に泣いた。
「生きてたって分かった時より泣いてない?」
「俺に聞くな」
「立派になられて……」
「野菜を食べただけだ」
そこ?
追放されて、生きているかも分からなかった子にようやく会えたというのに、一番泣くところがそこなの?
爺はしばらく目元を押さえていたが、やがて落ち着くと今度はロキの皿を見た。
「人参が残っておりますな」
「後で食べる」
「坊ちゃま」
「食べると言っている」
完全にオカンだった。
夕食を終えても、爺は帰る気配を見せなかった。
「爺、これからどうするの?」
「坊ちゃまのお傍に」
「帰れ」
即答だった。
「お断りいたします」
「なぜだ」
「ようやく見つけた坊ちゃまを、また一人になどできませんので」
「一人ではない」
「それは存じております」
爺はちらりと私を見る。
「ですので、なおさら安心してお傍にいられます」
「帰れと言っている」
私は周囲を見回した。
南の家なら空いている部屋があるけれど、森の家には爺が寝られる部屋はない。
「じゃあ部屋作る?」
ロキがこちらを向いた。
「なぜそうなる」
「だって寝る場所ないじゃん」
「帰ればいい」
「坊ちゃまのお部屋の近くであれば、ありがたく」
「決めるな」
「じゃ、その辺かな」
ロキの部屋の隣にちょうど空けられそうな場所があったので、壁を少し広げて一部屋作る。ベッドと収納、机、それに椅子を置けば十分だろう。
爺は完成した部屋を見渡し、満足そうに頷いた。
「昔と同じ配置でございますな」
「だから嫌なんだ」
南の島へ戻る時は、向こうのヴィラに余っている部屋を使えばいい。
これで問題ない。
「ありがとうございます」
「うん」
「俺は認めていない」
「別にいいじゃん。爺だし」
「俺に聞け」
爺は既に荷物を新しい部屋へ運び始めていた。
「坊ちゃま、明日の朝食は何時になさいますか」
「いらん」
「では八時に」
「話を聞け」
こうして、久しぶりに森の家へ戻っただけのはずが、一人増えた。
しかも元魔王の執事。
いや、オカンかもしれない。
私はソファへ寝転がりながら、廊下の向こうから聞こえてくるロキの「帰れ」と爺の「承知いたしかねます」を聞いていた。
まあ、爺ならいいか。




