第25話 ぷかーっ。
リヴァイアサンが温泉に居ついて、二週間ほど経った。
今日も雪は静かに降っていて、露天風呂の向こうには白い雪原と凍った海が広がっている。
そして私の隣では、海王種が腹を上にして浮いていた。
ぷかーっ。
「……リヴァイアサンって長いんだよね」
呼ぶたびに面倒だ。
本人は相変わらずジェットの前から動く気配もなく、気持ちよさそうに漂っている。
「リアでいい?」
なんとなくそう呼んだ瞬間、頭の中に聞き慣れた声が響いた。
《命名を確認しました》
《海王種リヴァイアサンとの従魔契約が成立しました》
「は?」
思わず声が出た。
少し離れたところにいたロキがこちらを見る。
「どうした」
「これティムした」
私は隣で浮いているリヴァイアサンを指した。
「名前縮めただけなんだけど」
「名前をつけたんだろ」
「リアって呼んだだけだよ?」
「高位の魔獣に気軽に名前をつけるな」
そんなことを言われても、もう成立してしまったらしい。
リアを見る。
ぷかーっ。
何も変わってない。
でも、さっきまでとは違って、なんとなく感情のようなものが伝わってくる。
言葉が聞こえるわけじゃない。ただ、何を思っているのかが、ぼんやり分かる。
気持ちいい。
そんな感じ。
「……なんでずっとここにいるの?」
リアが少しだけ顔をこちらへ向けた。
気持ちいい。
「それだけ?」
ここがいい。
「元いた場所とかないの?」
ある。
「帰らなくていいの?」
返事が来ない。
代わりにリアは少し横へ流されると、身体をもぞもぞ動かして、ジェットが一番よく当たる場所へ戻った。
ここがいい。
「……あ、これダメになってる」
「お前がしたんだろ」
「温泉作っただけなんだけど」
ロキの視線が冷たい。
私は悪くないと思う。
たぶん。
リアは再び腹を上にした。
ぷかーっ。
野生は戻ってこなかった。
◇
さすがに温泉に入り続けるわけにもいかないので、昼前には上がった。
休憩室で水を飲み、果物を食べながら身体を冷ましているうちに、少し暇になってくる。
窓の向こうでは雪が降り続けていた。
「……雪像でも追加しよ」
外へ出ると、以前作った竜、狼、ユニコーン、巨大な猫、それから妙に格好よく作ってしまったロキの雪像が並んでいる。
そこへ熊を追加し、なんとなく温泉に浸かっている猿も作った。
最後に目に入ったのは、露天風呂のリアだった。
ぷかーっ。
少し考えて、その姿も作ることにした。
雪を固めて胴体を作り、短くなった今の姿に合わせて脚と尻尾を整え、腹を上に向ける。
仕上がった雪像を見る。
ぷかーっ。
本物を見る。
ぷかーっ。
「そっくり」
「何を作ってるんだ、お前は」
ロキが呆れた顔で近づいてきた。
「温泉にダメにされた海王種記念」
「だからお前がしたんだろ」
そんな話をしていると、雪原の向こうに何か動くものが見えた。
人だ。
こんなところに?
近づいてきたのは女だった。
五十代くらいだろうか。短めの髪には白いものが混じり、日に焼けた顔と実用一辺倒の装備は、雪の中を長く歩いてきたことを感じさせる。
こちらを見つけたところまではよかった。
女の足が止まった。
雪の城。
大量の雪像。
露天風呂。
妙に格好いいロキの雪像。
温泉猿。
腹を上にした海王種の雪像。
そして、その向こう。
露天風呂では本物の海王種が浮いている。
ぷかーっ。
「…………」
女はしばらく黙っていた。
気持ちは分かる。
「ヴェラだ」
ようやく口を開いた女は、私とロキを順番に見た。
「海王種を探してる」
「あ、それならそこ」
私が指差すと、リアがジェットに押されて少し流れた。身体をもぞもぞ動かし、元の位置へ戻る。
ぷかーっ。
ヴェラはしばらくそれを見ていた。
「……二週間探したんだが」
「二週間?」
「北の海から消えた」
「へえ」
知らなかった。
ヴェラは露天風呂の縁まで近づくと、リアをじっと見下ろした。
「何があった?」
「温泉作ったら来た」
「それで?」
「入りたそうだったから、小さくなれるなら入れてあげるって言ったら小さくなった」
ヴェラの視線がリアへ落ちる。
「今日、名前つけたらティムした」
「今日?」
「うん」
また沈黙した。
ロキが頭を抱えている。
ヴェラは雪の城を見て、雪像を見て、温泉を見て、それからリアを見た。
「……まあ、もう起きたことは仕方ない」
「え?」
「酒あるか?」
「あるよ」
「飲もう」
「そこ割り切るの?」
「元に戻せるのか?」
私はリアを見る。
ぷかーっ。
「たぶん無理」
「なら騒いでも戻らん」
「待て」
ロキが口を挟んだ。
「なぜそこで飲む話になる」
「二週間、海王種を追って雪の中まで来たんだ。飲ませろ」
「それはまあ……」
「ロキまで納得するんだ」
◇
ヴェラは温泉にも入りたいらしい。
「水着ないでしょ」
「ないな」
「じゃあ作るよ」
サイズを見て、派手すぎない黒の水着を作って渡す。
ヴェラは一瞬それを眺めたものの、特に何も聞かなかった。
「助かる」
それだけ言って更衣室へ向かっていく。
こういうところ、楽だな。
私とロキはもう温泉から上がっていたので休憩室へ戻り、水と果物をテーブルへ置いた。
やがて水着姿のヴェラが露天風呂へ入っていく。
雪が降る中、湯気の向こうに凍った海が広がっている。
しばらく湯に浸かったヴェラが、深く息を吐いた。
「……いいな、ここ」
「でしょ?」
「海王種が帰らんわけだ」
当の海王種は少し離れたところで浮いている。
ぷかーっ。
「酒」
「はいはい」
小さな杯と酒を出してやると、ヴェラは湯船の縁へ腕を置き、雪景色を眺めながら一口飲んだ。
満足そうだ。
よかったよかった。
「で、あいつが消れてから北の海が荒れてる」
「……え?」
話が急に重くなった。
ヴェラは同じ調子で酒をもう一口飲む。
「大型の海棲魔獣が浅瀬まで出てきてる。普段なら沖から動かんようなのまでな。漁船も二隻ひっくり返った」
「え。人は?」
「死者は出てない。今のところは」
それならよかった。
いや、よくはない。
最初は深い海にいるはずの生き物が網にかかる程度だったらしい。それが数日経つと浅瀬で大型種が目撃されるようになり、一週間も経つ頃には海棲魔獣同士が縄張り争いを始めたという。
調べていくうちに、逆に不自然な場所が見つかった。
北の海だけが妙に空いていた。
「そこにいたのが、あいつだ」
ヴェラが杯を持ったままリアへ顎をしゃくる。
リアは浮いている。
ぷかーっ。
「……あれが?」
「一応な」
「今、完全に温泉のおっさんだけど」
「私にもそう見える」
否定されなかった。
「海王種はな、その海域にいるだけで大型の魔物が寄りつかん」
「何かしてるわけじゃないの?」
「別に」
「いるだけ?」
「いるだけだ」
なんだ。リアも働いてなかった。
ちょっと親近感が湧く。
いや、今そこじゃない。
「じゃあ、リアがこっち来ちゃったから、空いたところにみんな入ってきたってこと?」
「そういうことだろうな」
「……そんなことになってたの」
私は温泉を作った。
リアが来た。
入りたそうだったので入れた。
気に入って帰らなくなった。
今日、名前をつけたらティムされた。
それだけなのに、北の海では大騒ぎになっていたらしい。
「そんな話、温泉入りながらする?」
ヴェラは雪を眺めながら酒を飲んだ。
「今さら慌てても二週間前には戻れん」
「それはそうだけど」
「騒いだら海が元に戻るのか?」
「戻らない」
「なら飲め」
「私もう上がったんだけど」
「じゃあ水飲んどけ」
強い。
ロキが額を押さえた。
「……なぜこいつまで由美と馴染んでるんだ」
「知らない」
「私に聞くな」
当の原因は、こちらの話など気にもしていない。
ジェットに押されて少し横へ流れると、身体をもぞもぞ動かし、また元の位置へ戻る。
そして、
ぷかーっ。
「お前のせいなんだがな」
ヴェラがリアへ言った。
返ってきた感情は、
気持ちいい。
だった。
「……絶対分かってない」
「分かってても気にしてないんじゃないか」
「そっちの方がひどいんだけど」
私はリアへ意識を向けた。
「リア。元いた海、ちょっと戻ってきて」
ここがいい。
「帰れって言ってないよ」
ここがいい。
「ちょっと行くだけ。向こうの海をぐるっと泳いで、顔見せてきて」
リアがこちらを見る。
嫌。
「嫌じゃない」
嫌。
完全に駄々をこねている。
「温泉なくならないから」
少し間が空いた。
「戻ってきていいよ」
リアから伝わってくる感情が変わった。
戻っていい?
「いいよ」
「待て」
ロキが反応する。
「それでは根本的な解決になっていないだろう」
「でも、ずっと向こうにいないとダメなの?」
ヴェラを見ると、彼女は湯船の中で少し考えた。
「いや。こいつが何か管理してたわけじゃない。海王種の縄張りだと分かれば、大型種はそう簡単には近づかん」
「じゃあ時々行けばいい?」
「姿を見せて回るだけでも違うだろうな」
「だって」
リアを見る。
渋々。
そんな感情が返ってくる。
「散歩だと思えばいいじゃん」
嫌そう。
「帰ってきたらジェット空けとくから」
行く。
「そこなんだ」
リアはようやく腹を下にすると、湯船から上がった。
身体をぶるっと震わせ、雪の上を歩いていく。
そして端まで来たところで、こちらを振り返った。
「ちゃんと向こう行ってきてね」
分かった。
次の瞬間、身体が一気に巨大化した。
雪原の向こうで見上げるほどの海王種へ戻ると、そのまま凍った海へ飛び込み、大きな水柱を上げる。
海面が割れ、巨大な影が沖へ消えていった。
静かになった露天風呂を見る。
「……ジェット空いた」
「そこか」
ロキが呆れた。
ヴェラは酒を飲みながら笑っている。
◇
その日の夕方。
休憩室でのんびりしていると、海の方から大きな音がした。
「ん?」
外を見る。
凍った海が割れた。
見覚えのある巨大な影が現れ、そのままこちらへ向かってくる。
「……早くない?」
海王種は岸へ上がる途中で身体を小さくすると、雪の上をまっすぐ歩いてきた。
目的地は迷わない。
露天風呂。
「リア?」
行ってきた。
「もう?」
行ってきた。
それだけ伝えると、リアは湯へ入った。
ジェットの前へ移動する。
身体をひっくり返す。
ぷかーっ。
「早っ!」
数時間しか経ってない。
「ちゃんと北の海まで行ったのか?」
ロキが疑わしそうに見る。
行った。
泳いだ。
見せた。
帰った。
簡潔だ。
ヴェラは露天風呂の縁からリアを眺めていたが、やがて肩を揺らした。
「まあ、姿さえ見せたなら十分だ」
「そんなのでいいの?」
「少なくとも、あいつらには海王種が戻ってきたと分かる」
「じゃあこれから時々行けばいいんだ」
「そうなるな」
リアを見る。
ぷかーっ。
海の王が、温泉のジェット前で腹を出している。
北の海へ行く。
縄張りをひと回りする。
そして温泉へ帰ってくる。
「……通勤じゃん」
「海王種を通勤させるな」
「私がさせたんじゃないよ」
「お前が温泉を作ったからだろ」
「温泉作っただけなんだけど」
ヴェラがまた笑った。
リアはそんな私たちを気にもせず、ジェットに押されてゆっくり流されていく。
少しすると目を覚まし、もぞもぞと元の位置へ戻った。
そして再び、
ぷかーっ。
野生は、たぶん北の海へ置いてきた。




