間話 海王種、行方不明
最初の数日は、誰も異変とは思わなかった。
北の海で漁をしていた船の網に、深い海に棲むはずの生き物が混じった。それだけなら、潮の流れか何かで迷い込んだのだろうと片づけられる程度のことで、漁師たちも気味悪がりながら網を捨て、その日の漁を切り上げただけだった。
数日後には、別の船が沖でもない場所で巨大な背びれを見た。
それも、一度きりなら珍しい話で終わった。
ところが一週間ほど経った頃から、似たような話が急に増え始めた。
本来なら深い海から出てこない魔獣が浅瀬を泳ぎ、これまで別々の海域に棲んでいた大型種が同じ場所で争うようになった。沿岸近くで起きた縄張り争いに巻き込まれ、小さな漁船が二隻ひっくり返ったこともあった。
幸い死者は出なかったものの、助け出された船乗りたちは揃って同じことを言った。
「こんなところまで来るやつじゃない」
それでも、まだ海そのものが異常だと考える者は少なかった。
海は広い。
魔獣の気まぐれもあれば、潮も変わる。
だが、十日を過ぎても異変は収まらず、むしろ目撃される魔獣の数は増えていった。
***
二週間が経つ頃には、北方の港町から沖へ出る漁船の数が目に見えて減っていた。
酒場では漁師たちが海の話ばかりするようになり、商船の船長たちは出航前に冒険者組合へ立ち寄って、航路の安全を確かめるようになった。
「昨日は東で大型が三頭出た」
「三頭?」
「しかも縄張り争いしてやがった。あんな場所でだぞ」
組合の受付台には、この二週間で届けられた海上の目撃報告が積み上がっていた。
最初のうちは季節的な移動ではないかとも考えられていたものの、現れる種類も場所もばらばらで、共通しているのは、本来もっと沖や深い海にいるはずのものまで浅い場所へ出てきていることだけだった。
調査に出た冒険者たちから戻ってきた報告も、状況を良くするものではなかった。
「追われてるな」
地図の上にいくつもの印をつけながら、海に詳しい古参の冒険者が言った。
「何に?」
「何かに、じゃない。居場所を奪い合ってる」
いくつもの魔獣がこれまでの縄張りを離れ、その空いた場所へ別の魔獣が入り込み、さらに押し出されたものが浅瀬へ流れてきている。
まるで海の中で、巨大な席替えでも始まったようだった。
受付の職員が地図を見つめた。
「原因は?」
古参の冒険者は答えず、北の海域へ目を向けた。
そこだけが、不自然なほど空いている。
「……まさか」
その場にいた何人かも気づいたらしく、部屋の空気が変わった。
北方海域には、船乗りならば誰でも知っている存在がいる。
近づかなければ何もしない。
船を追うこともなければ、わざわざ人を襲うこともない。
だが、その存在がいるために、他の強大な魔獣はその一帯へ寄りつかなかった。
海王種。
リヴァイアサン。
「最近、見たやついるか?」
誰も答えなかった。
そもそも頻繁に姿を現す生き物ではない。ただ、その海域には確かにいる。それだけで、長いあいだ海の秩序が保たれていた。
念のため過去の目撃記録が引っ張り出され、船乗りたちへの聞き取りも始まった。
一か月前には目撃されている。
三週間前にも記録があった。
そして最後に姿を見たという船があったのは、二週間前。
それ以降、一件もない。
「……いないのか?」
誰かが呟いた。
その言葉に答えられる者はいなかった。
***
翌日、冒険者組合から調査船が出た。
海王種と戦うためではない。
そんな依頼を受ける者はいない。
遠くから生息域を確認し、本当に姿が消えているのかを確かめるだけの仕事だったが、それでも乗船者は出航前から全員が妙に無口だった。
船は慎重に北へ進み、普段なら誰も近づこうとしない海域の手前で速度を落とした。
波は穏やかだった。
海面には何もいない。
遠くまで見渡しても、巨大な背も、角も、海面下を通る影すら見えない。
しばらく待っても状況は変わらなかったので、船長が顔をしかめた。
「……本当にいねえぞ」
同行していた冒険者の一人が、海を見たまま言った。
「海王種って、引っ越すのか?」
「聞いたことねえよ」
「じゃあ死んだ?」
「それこそ誰が殺すんだよ」
誰も答えられなかった。
ただ一つ確かなのは、これまで北の海にいたはずのものが、少なくとも二週間、姿を見せていないということだけだった。
そして、その日のうちに冒険者組合へ一通の報告書が届けられた。
北方海域。
海王種リヴァイアサン。
所在不明。
***
その頃。
そこから遠く離れた、雪に覆われた海辺では、静かに雪が降っていた。
白い城と巨大な雪像に囲まれた露天風呂から、湯気が立ち上っている。
その中央。
海王種リヴァイアサンは腹を上に向け、ジェットの水流を受けながら浮いていた。
ぷかーっ。
尻尾が一度、ゆらりと揺れる。
少し流されジェットから離れた。
目を開ける。
もぞもぞと泳いで元の場所へ戻る。
そして再び、
ぷかーっ。
二週間前から海中で何が起きているのかなど、もちろん知る由もなかった。




