第20話 せっかくだから
朝から、海の様子がおかしかった。
いつもなら青く穏やかな水面が遠くまで白く泡立ち、空には重たい雲が広がっている。まだ雨は降っていないものの、テラスに出ると湿った風が髪を揺らしたので、海を眺めながら眉を寄せた。
「なんか来そうだね」
隣で同じように空を見ていたロキが、しばらくして鼻を鳴らす。
「嵐だな。かなり大きい」
「台風みたいなやつ?」
「たいふうが何かは知らんが、夕方から夜にかけて、この辺りもかなり荒れるだろう」
なるほど。
もう一度、海を見る。
波は高い。雲も黒い。風も強くなってきている。
「じゃあ、結界広げとこ」
「それだけか?」
「それ以上なにすんの?」
とはいえ、ここは海沿いである。風と雨だけならともかく、あれだけ海が荒れるなら波まで押し寄せてくるかもしれない。
なので今回は、今まで使っていたものよりさらに強固な結界で、ヴィラと庭、プール、それから光遊草を植えた辺りまでまとめて覆うことにした。砂浜も少し入れ、雨も風も海水も通さないようにしておく。
これで終わりだ。
ロキも考えたあと、特に反論しなかったので、本当に終わりなのだろう。
せっかく台風みたいなものが来るなら、今日は家に籠もって眺めていればいい。雨の日に外へ出なくていいというだけでも素晴らしいのに、これだけ海が荒れるならちょっとした見世物にもなる。
昼食を済ませたあと、リビングのソファに戻り、さて午後は何をしようかと考えた。
「お菓子でも食べながら台風見よっかな」
そう思って収納を探ったものの、目当てのものが出てこない。
もう一度探す。
「……ない」
「何がだ」
「お菓子」
そうだった。
甘いものがなくなって騒いだあと、町で買った屋台のお菓子も、なんだかんだで食べきっている。
嫌な予感がして、今度は飲み物を探した。
「……お茶もないじゃん」
台風見物なのに、お茶もお菓子もない。
それではただ窓から悪天候を見るだけである。
「えー……」
少し考えたものの、答えは簡単だった。
「まあ、買いに行けばいいか」
転移があるのだから、悩むほどのことでもない。
***
最初に来た町は、島とは違ってまだ風もそれほど強くなかった。
それでも空模様は怪しく、少し早めに店じまいの準備を始めている屋台もあったので、私は以前ロキが見つけた店を中心に、焼き菓子や揚げ菓子、甘いものをまとめて買い込んだ。お茶も何種類か追加し、ついでに日持ちしそうなものも収納へ放り込んでおく。
「これでしばらく大丈夫かな」
「どうせまた食い尽くすだろう」
「そのときはまた買えばいいのよ」
なくなる前に補充するという発想もあるにはあるが、なくなってからでも買えるのだから、そこまで几帳面になる必要はない。
買い物を終え、さて帰ろうかと思ったところで、ふと思い出した。
「あ」
「今度はなんだ」
「人魚」
ロキがこちらを見る。
「そういえば、ギルに投げっぱなしだった」
「投げたのか」
「言い方の問題」
実際には転移させただけだ。
ただ、その後どうなったか一度も確認していない。
住むところも仕事も何も決まっていなかったのだから、たぶんギルが何とかしてくれたのだろう。そう考えると、さすがに一言くらい礼を言っておいた方がいい気がしてきた。
そのままギルのいるところへ向かうと、案の定、彼は仕事中だった。
「ギルー」
声をかけると、書類を見ていたギルが顔を上げ、私を見るなり露骨に嫌そうな顔をした。
「……今度はなんだ」
「この前ありがとねー」
「何の話だ」
「人魚」
それだけで通じたらしく、ギルは深く息を吐いた。
「元人魚なら問題ない。住む場所も仕事も決めた」
「おお。さすが」
「さすが、ではない。なぜ俺がそこまで面倒を見ることになった」
「でもちゃんとやってくれたじゃん」
「やらなければ、あいつが路頭に迷うだろうが」
やっぱりいい人である。
私は満足して頷いたものの、そこで手ぶらだったことに気づいた。
「……あ。お礼持ってきてない」
「いらん」
「じゃあ、うち来る?」
「は?」
ちょうどお茶もお菓子も買ったばかりだし、島ならゆっくりできる。人魚の面倒を丸ごと見てもらった礼としては、手土産を渡すより一度くらい招待した方がいいだろう。
そう思ったので、私はギルとロキを連れて転移した。
***
「待て!」
南の島のリビングへ着いた途端、ギルの声が響いた。
「俺はまだ何も言っていない!」
「まあまあ」
「まあまあ、ではない! 俺は仕事の途中だったんだぞ!」
「あとで戻すから大丈夫」
「そういう問題ではない!」
ギルはしばらく何か言っていたが、私は買ってきたお茶と菓子をテーブルへ並べながら聞き流した。
外はすでに朝とは比べものにならないほど暗く、海も大きく荒れ始めている。これからさらにひどくなるらしいし、少しくらい休んでも罰は当たらない。
やがてギルも諦めたのか、盛大なため息をついて周囲を見回した。
「……ここが、あの元人魚が言っていた島か?」
「そうそう。今はここに住んでる」
「家まで建てたのか」
「必要だったからね」
必要だったというより、快適に暮らしたかっただけなのだが、その辺りは細かい話なので省いた。
窓の外では雨が降り始め、風に煽られて斜めに流れている。海は灰色に濁り、波が何度も大きく盛り上がっては崩れていた。
それでも結界の内側は静かだった。
降りつける雨も風も、境界を越えた途端にぴたりと遮られている。
私はソファに座り、お茶をひと口飲んでから菓子をつまむ。
「いいねえ」
「何がだ」
「台風」
ギルがこちらを見た。
「お前は嵐を見ながら菓子を食うために、わざわざ俺を連れてきたのか?」
「お礼も兼ねてる」
「どこがだ」
ロキは何も言わず、普通に菓子を食べている。
味方はいないらしいと悟ったのか、ギルも渋々椅子に腰を下ろした。
◇
しばらく三人で菓子をつまんでいるうちに、外はますますひどくなっていった。
雨は結界の向こうを白く霞ませ、海面はもうどこが波でどこが空なのか分からないほど荒れている。時折、遠くで雷まで光り、押し寄せる波はとうとう砂浜を飲み込み始めていた。
けれど、海水は結界の境界で完全に止まっている。
外側では波が渦を巻いているのに、そのすぐ隣にある庭もプールも何事もなかったように静かなままだ。
「うわ、すご」
そのとき、海の向こうで魚が跳ねた。
ただし、大きい。
家一軒くらいありそうな魚が、荒れ狂う波から飛び出したかと思うと、そのまま横殴りの風に持っていかれた。
「……魚が飛んでった」
「飛んだな」
ロキは平然としている。
ところが、それで終わらなかった。
一匹、二匹ではない。遠くの海面から次々と巨大な魚が巻き上げられ、群れごと風に流されていく。
「ちょっと待って。めちゃくちゃ飛んでない?」
私が窓に近づくと、ギルもさすがに立ち上がった。
「この規模の嵐なら、沖の魔物も巻き込まれる。だが……」
「すごいねー」
「感想が軽い!」
だって結界の中は静かなので、いまいち実感がない。
巨大魚が空を飛んでいる光景を眺めながら、私は残っていた菓子を口に入れた。
「……あれ、食べられるのかな」
「お前はまずそこなのか?」
「魚でしょ?」
「魔物だ!」
「魔物でも食べられるやついるじゃん」
クラーケンだって美味しかった。
ロキに聞こうとした、そのときだった。
海の向こうから、さっきまでの魚とは明らかに違うものが飛んできた。
赤黒い巨大な甲羅。
左右に広がる脚。
そして、私の身体なんて簡単に挟み潰せそうな鋏。
「……カニ?」
巨大なカニは風に煽られながらものすごい勢いで飛んできて、そのまま結界へ激突した。
ドンッ、と低い音が響く。
もちろん結界はびくともしない。
カニだけが、その表面をずるずると滑り落ちていった。
「カニだ」
「見れば分かる!」
ギルの声を聞きながら、ロキを見る。
「あれ、食べられる?」
「食える」
「蟹味噌ある?」
「知らん」
「じゃあ調べよ」
「待て待て待て!」
ギルが止めるより早く、《無限収納》で巨大カニを回収する。
ほどなくして、食用可能であることも、しっかり蟹味噌があることも分かった。
窓の外はすでに夕方とは思えないほど暗い。
なら、ちょうどいい。
私は立ち上がった。
「今日はカニ尽くしだー!」
「なぜそうなる!」
「飛んできたんだからしょうがないじゃん」
「しょうがなくはない!」
でも食べられるものをそのままにする方がもったいない。
しかも、こんなに大きなカニである。
絶対に美味しい。
◇
夕食はテラスにした。
「なぜ外なんだ!」
料理が並び始めたところで、ギルがまた声を上げた。
「だって台風見えるじゃん」
「だからなぜ台風を見ながら飯を食う!」
「結界あるし」
「そういう問題ではないと言っている!」
外は、昼まで見えていた砂浜がほとんど消えていた。
押し寄せた海水が結界のすぐ向こうまで迫り、波がぶつかるたびに白い飛沫が巻き上がっているのに、一滴たりともこちら側には入ってこない。
テラスから見ると、庭の先に海があるというより、目の前まで海の中が押し寄せてきているようだった。
雨も暴風も海水も、すべて結界の向こう側。
こちらでは風一つなく、テーブルの上に並んだ料理から湯気がまっすぐ上がっている。
茹でガニ、焼きガニ、カニ鍋、カニ飯。
そして中央には、大きな甲羅をそのまま使った蟹味噌の甲羅焼き。
ぐつぐつと煮立った蟹味噌から香ばしい匂いが立ち上り、思わず身を乗り出した。
「これ絶対うまいやつ」
ギルはまだ何か言いたそうだったが、料理を見て口を閉じた。
ロキは最初から気にした様子もなく、焼きガニを手に取っている。
「ほら、ギルも食べなよ」
「……俺は仕事中だったんだぞ」
「食べてから戻ればいいじゃん」
「お前は本当に……」
言いながらも、ギルは結局席についた。
甲羅焼きをひと口食べたあと、しばらく黙る。
「どう?」
「……うまい」
「でしょ?」
「だからといって、勝手に連れてきた件がなくなるわけではない」
「細かいなあ」
「細かくない!」
結界の向こうでは雷が光り、目の前まで迫った海が大きくうねっている。そのさらに向こうでは、また何か大きな魚が風に巻き上げられていった。
私はそれを眺めながらカニ飯を口に運び、蟹味噌の甲羅焼きへ箸を伸ばす。
台風の日に、南の島のテラスで、目の前まで押し寄せた海と空を飛ぶ巨大魚を眺めながらカニを食べる。
我ながらよく分からない状況だったけれど、料理は美味しいし、雨にも濡れない。
なら、まあいいか。
「台風も悪くないね」
「お前だけだ、そんなことを言っているのは」
ギルは呆れた顔をしながら、二本目のカニ脚へ手を伸ばしていた。




