第19話 遊んでるだけ
ようやく何も起きない日が来た。
朝から空はよく晴れていて、海も穏やかだった。難破者も来なければ、裸の元人魚が歩いてくることもない。テラスのごろ寝ソファに寝転がりながらトロピカルジュースを飲んでいると、波の音だけが一定の間隔で聞こえてくる。
これでいい。
私が欲しかったのは、まさにこういう生活だった。
「今日は本当に何もしないからね」
宣言すると、近くで朝食の残りを食べていたロキがこちらを見た。
「誰に言っている」
「世界に」
「意味が分からん」
分からなくてもいい。これまで散々勝手に何かが起きたので、先に釘を刺しておきたかっただけだ。
とはいえ、午前中いっぱい寝転がっていると、さすがに少し身体を動かした方がいい気もしてくる。食べて寝てを繰り返しているだけでは、いくら《完全生存》があっても体型まではどうにもしてくれない。
運動は嫌いではない。
運動しようと思ってするのが嫌なのだ。
「ちょっと島見てくる」
立ち上がると、ロキが怪訝そうに眉を寄せた。
「何もしないのではなかったのか」
「散歩は何かするに入らない」
自分でも若干無理があるとは思ったが、気にしないことにした。
家の裏手から森へ入ると、海辺とは空気が少し違った。強い日差しは葉に遮られ、湿った土の匂いがする。結界の範囲を島全体に広げたわけではないものの、危険なものが近づけば分かるようにはしてあるので、それほど警戒する必要もない。
しばらく歩いていると、森の先に岩場が見えた。
海岸線が入り組んだ場所らしく、浅瀬には色の違う岩や珊瑚のようなものが点々と並んでいる。その中に、妙に透明感のある塊があった。
「何これ」
しゃがみ込んで覗くと、淡い青紫色の珊瑚に似ているものの、表面がわずかに光っている。
触れてみると、目の前の空間がふっと揺れた。
「……え?」
薄い光の膜が広がったかと思うと、その中に海が映った。
今見ている海ではない。
帆船が一隻、沖を横切っている。
映像はほんの数秒で消れたが、もう一度触ると、今度は岩場で魚を追いかけている鳥が映る。その次には、釣り上げた大きな魚に逃げられ、両手を広げて何か叫んでいる男が現れた。
少し離れたところにいたロキが、こちらを見ながら近づいてくる。
「何をしている」
「これ、昔の映像が出る」
ロキも覗き込み、珊瑚をしばらく見ていたが、特に驚いた様子はなかった。
「幻映珊瑚か」
「知ってるの?」
「珍しくはあるが、海辺では見つかることがある。周囲の景色や音を溜め込み、魔力を与えると再生する」
「……テレビじゃん」
「てれび?」
「こっちの話」
《万能解析》で見れば、一定範囲の光景と音を断片的に記録し、魔力を流すと再生する性質らしい。何が出るかは分からないようだが、それならそれで面白い。
「これ、家に持って帰ろ」
「何に使う」
「観る」
ロキは意味が分からないという顔をしたが、私はもう収納へ入れていた。
映像と音が出せるなら、大きく映せるようにすればいい。
壁でも天井でもいい。
寝転がったまま見られれば、なおいい。
完全に目的が決まった。
そのまま少し歩くと、今度は地面近くに小さな草が群生している場所へ出た。細い葉の先に丸い実のようなものが付いており、地味な薄緑色をしている。
何となく近づいた瞬間、実の中から小さな光がふわりと浮かんだ。
「ん?」
手を伸ばすと、その光は少し先へ逃げる。
もう一歩近づけば、また逃げた。
「……何これ」
追いかけて三歩ほど進むと、今度は隣の株から別の光が浮かび、それまでの光と入れ替わるように遠ざかっていく。
私は少しだけ楽しくなってきた。
右へ。
左へ。
少し前へ。
また右へ。
気づけば、結構歩かされている。
「これ、完全に遊ばれてない?」
「お前が勝手に追っているだけだろう」
「そうとも言う」
解析すると、《光遊草》という植物らしい。人や動物が近づくと内部の光が浮かび上がり、一定の距離を取るように移動する性質がある。
逃げる意味までは分からなかったが、そんなことはどうでもいい。
私はもう一度、ふわりと逃げた光を追った。
「これはいい!」
何に使うかまでは決めていなかったものの、見ているだけでも妙に楽しいので、群生している一帯からまとまった数を持ち帰ることにした。
◇
夕方、家へ戻ると、まず幻映珊瑚から手をつけた。
もちろん私が何かを作るわけではない。
リビングの壁一面へ映像を映せるようにして、音も部屋全体から聞こえるようにする。操作は手元の道具すらいらず、止めたい、次にしたいと思えば切り替わるようにした。
試しに再生すると、壁いっぱいに夕暮れの海が映った。
知らない船が横切り、甲板で誰かが踊っている。
少しすると場面が変わり、今度は海鳥が誰かの食べ物を奪って飛び去った。
「これいいじゃん」
ごろ寝ソファに沈みながら眺める。
しかも天井にも映せるようにしたので、完全に寝たままでも見られる。
ロキが横から呆れたようにこちらを見た。
「そこまでして起きたくないのか」
「娯楽で疲れてどうすんのよ」
「普通は娯楽で疲れるほど寝転がらん」
聞かなかったことにした。
島の昔の景色や、海を通った船、たまたま記録された誰かの失敗まで勝手に出てくるので、意外と飽きない。何が始まるか分からないところも、それはそれで面白かった。
ひとしきり楽しんだところで、今度は持ち帰った《光遊草》をヴィラの周りへ植えていくことにした。
庭だけではなく、テラスから砂浜へ続く辺りやプールの周囲にも間隔を空けながら配置していく。まとまった数を持ち帰ってきたので、かなり広い範囲まで植えることができた。
昼は見た目ただの草だったが、日が落ちるにつれて、葉や実の奥に淡い光が溜まり始めた。
私が近づくと、そこから小さな光がふわりと浮かび上がる。
「うわ……綺麗」
思わず声が出た。
テラスから砂浜へ歩くだけで、足元の光が一つ、また一つと逃げていく。少し先では別の株が反応し、淡い光が次々と浮かびながら、私の進む先へ流れていった。
ランタンとは違う。
道を照らすほど明るいわけではないのに、人が通ったところだけがふわふわと輝いている。
これだけでも十分だった。
ただ、光が逃げると、どうしても追いたくなる。
一つに手を伸ばすと、少し離れた場所へ逃げたので、そこまで歩いて追いつく。今度は別の株が反応して横へ飛び、さらに先の光がふわりと浮かんだ。
私はしばらく追いかけてから、足を止めた。
「これ、ゲームになるじゃん」
ロキが嫌な予感でもしたようにこちらを見る。
「何をする気だ」
「ちょっと遊ぶだけ」
植物そのものには何もしない。
近づけば逃げる光を、ただ追いかければいいだけだ。
右へ数歩進んだと思えば、次は左へ向かい、低い位置へ手を伸ばしたあとには少し先まで走ることになる。どこへ逃げるか分からないので、思ったより忙しい。
「……これ、結構動くな」
「運動ではないのか」
「ゲームだから違う」
「同じだろう」
「違う」
そこは大事なので譲れない。
せっかくなので、一定時間のうちに何回光へ触れられたかだけ数えることにした。
試しにロキとやってみると、さすがに身体能力が高いだけあって、あっという間に記録を抜かれた。
数字を見て、少し腹が立つ。
「もう一回」
「運動は嫌なのではなかったのか」
「負けたまま終わる方が嫌」
もう一度やる。
少し記録が伸びる。
でもまだ負けている。
「もう一回」
ロキが笑った気がしたが、気にしなかった。
結局、何度か繰り返しているうちに身体が温まり、普通に汗までかいた。
運動しようと思っていたら、絶対ここまでやっていない。
遊んでいただけなら、なぜか続く。
「これだわ」
息を整えながら、私は確信した。
「運動って思うから嫌なのよ。遊んで痩せればいいじゃん」
「痩せるかどうかは知らんが、お前はさっきからずっと走っている」
「遊んでるだけ」
「好きにしろ」
そう言われたので、好きにすることにした。
普段は歩けば《光遊草》がふわりと逃げ、夜のヴィラを勝手に彩ってくれる。身体を動かしたくなったときだけ、その光を追えばいい。
リビングでは幻映珊瑚が昔の海を映し、外へ出れば光遊草が夜の庭を彩る。
疲れたらソファ。
暇なら映像。
身体を動かしたくなったら光を追う。
食事も家事もほとんど勝手に終わる。
テラスへ戻り、冷たい飲み物を受け取ってごろ寝ソファへ沈み込むと、庭のあちこちで淡い光がゆっくり逃げていった。
「……完璧じゃない?」
ロキは答えなかった。
まあいい。
ようやく、暇すら快適になってきた。




