第18話 頼んでない
翌朝、リビングへ行くと、人魚はまだごろ寝ソファの端で眠っていた。
昨夜はもう寝る時間だったので、話の続きは朝にすると決め、毛布だけ渡してそのまま寝かせた。さすがに失恋した直後の相手を夜中に放り出すほど薄情ではないものの、だからといって眠い時間に人生相談へ付き合う気もない。
朝食を出すと匂いで目を覚ましたらしく、人魚は借りたTシャツと短パンのまま、おとなしくテーブルについた。
「で、これからどうしたいの?」
食べながら聞くと、人魚は手を止め、困ったように視線を落とした。
「……分かりません。この足は、もう尾には戻りません。一度変えたものは元には戻せないと言われています」
恋した相手には恋人がいて、海にも戻れない。
なかなか思い切ったことをしたものである。
とはいえ、陸でどう暮らせばいいのかを私に聞かれても困る。この世界の仕事も制度もろくに知らないし、何より、そういう面倒なことを調べるために町へ通うつもりもない。
パンを一口食べながら考えていると、知っていそうな人間が一人だけ思い浮かんだ。
「……ギルに聞けばいいか」
向かいにいたロキが顔を上げた。
「なんでギルなんだ?」
「町で暮らすなら、町のこと知ってる人に聞いた方がいいでしょ。私知らないし」
人魚は話についていけていないようだったので、町で困ったときに何かと顔を出す男がいることだけ説明すると、それでも少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「ご迷惑では……」
「たぶん大丈夫」
たぶん。
本人に確認はしていないが、どうすればいいか聞くくらいなら何とかなるだろう。
朝食を食べ終えるのを待ち、昨日貸した服はそのままでいいことにした。今さら裸で送り出すわけにもいかない。
「じゃ、行ってらっしゃい」
「え?」
人魚が目を丸くした次の瞬間、その姿はリビングから消えた。
ロキが無言でこちらを見る。
「何?」
「……いや」
何か言いたそうだったが、結局それ以上は何も言わなかった。
***
ギルが机の上の書類へ目を通していると、部屋の中央に突然人が現れた。
反射的に立ち上がりかけたものの、相手に敵意はなく、むしろ突然知らない場所へ放り込まれた本人の方が戸惑っている。
華奢な体つきに長い髪、妙に整った顔立ちをした若者で、身につけているのは大きめのTシャツと短パンという、こちらではまず見ない格好だった。
「……誰だ?」
「あの、ユミさんに、こちらへ行けと言われました」
ギルはしばらく黙った。
「……またあの女か」
昨日は魔族をどこか遠くへ飛ばし、今日は見知らぬ若者を自分のところへ飛ばしてくる。
どうしてこう、一つ片づくたびに次が来るのか。
とりあえず椅子を勧めて事情を聞くと、さらに意味の分からない話が始まった。
「人魚?」
「はい」
若者は素直に頷いた。
海で難破した男を助け、その男に惹かれ、人間の足を手に入れて会いに行ったものの、相手にはすでに恋人がいた。しかも一度得た足は元の尾には戻らないので、もう海で以前と同じように暮らすことはできないらしい。
ギルはこめかみを押さえたくなるのを堪えながら、ひとつずつ確認していった。
「その由美とは、どこで会った?」
「島です」
「……島?」
「はい。ユミさんのお家がある島です」
ギルの手が止まった。
「家?」
「とても大きな家でした。海の前にあって、水を溜めた大きな場所もありました」
何の話だ。
ギルの知る限り、由美は森の中に家を構えていたはずだった。それも、つい先日まで間違いなくそこにいた。
「……由美は、その島に住んでいるのか?」
「はい。ロキさんも一緒でした」
いつの間に引っ越した。
そもそも、なぜ海辺なのか。
聞きたいことが一気に増えたものの、目の前の若者に尋ねても分からないだろう。仕方なく本題へ戻り、今後の生活について必要なことを確認する。
「その足は、本当に元へ戻せないんだな」
「はい」
「何か代価を払って得たのか?」
「払いました」
「代価として何を?」
「竿を」
ギルは黙った。
「……何を?」
「竿を」
聞き間違いではなかったらしい。
目の前の華奢な若者を改めて見ながら、ギルは数秒かけて言葉の意味を飲み込んだ。
「……雄だったのか?」
「はい」
本人は、なぜそんなことを聞くのか分からないという顔をしている。
ギルは一度息を吐いた。
「……そうか」
それ以上、詳しく聞くのはやめた。
問題は、この先である。
海へ戻れず、陸で暮らした経験もなく、住む場所も仕事もない。金もなければ、町で生活するための知識もほとんど持っていない。
由美が自分のところへ送ってきた理由だけは、嫌というほど理解できた。
そこからは、完全に現実的な話になった。
当面泊まれる場所を探し、町で生活するうえで必要になる手続きを確認し、働くなら何ができそうかも聞く。幸い、元人魚だからといって会話が通じないわけでもなく、陸のことをほとんど知らない以外は普通に受け答えできたので、今日明日で路頭に迷うことだけは避けられそうだった。
ただ、その手配をしている間にも、ギルの頭の隅には別の疑問が居座り続けていた。
由美は、いつ島へ引っ越した。
なぜ自分には何の連絡もない。
そして、なぜ海にいるはずの人魚と出会っている。
夕方近くになり、ようやく一通りの段取りがついた頃、元人魚は何度も頭を下げて部屋を出ていった。
静かになった執務室で、ギルは椅子の背にもたれる。
元人魚の今後の生活まで手配したのに、頼んだ本人は、どこかの島にいる。
しかも、その島がどこなのかすら知らない。
しばらく天井を見上げたあと、ギルはぽつりと呟いた。
「……なんで俺なんだ?」
***
夕方の海は、昼間より少しだけ色が柔らかかった。
私はテラスのごろ寝ソファに身体を沈め、冷たいトロピカルジュースを片手に、ゆっくり沈んでいく夕日を眺めていた。プールの水面には橙色の光が揺れ、軒先のランタンもぽつぽつと灯り始めている。
静かだ。
誰も来ない。
何もしなくていい。
「あー……やっと望んでた生活だわ」
隣でロキが何か言った気がしたものの、聞き流してそのまま目を閉じた。
波の音だけが、ゆっくり聞こえていた。




