第17話 無人島とは
男は、何度目かも分からないほど砂に手をつきながら顔を上げた。
船が岩礁に乗り上げたのは夜明け前だった。船体はあっという間に傾き、どうにか小舟と漂流物へしがみついて岸まで辿り着いたものの、助かった人数を数える余裕すらなかった。海岸には壊れた樽や木片が打ち上げられ、沖には傾いた帆柱の先だけが見えている。
幸い、島には緑があった。
水さえ見つかれば何とかなるかもしれないと、動ける者たちで森へ入ったものの、濡れた服は重く、枝葉は容赦なく身体へ絡みついてくる。腹も減り、喉も渇き、どこまで歩けば反対側へ抜けられるのかも分からないまま進んでいると、先頭を歩いていた男が突然足を止めた。
「……何だ、あれ」
木々の隙間から白いものが見えた。
最初は岩かと思ったが、近づくにつれて形がおかしいことに気づく。真っ直ぐな壁があり、その上には屋根があり、さらに森を抜けると、目の前に現れた光景を前に誰も声を出せなくなった。
白い砂浜と青い海を背に、見たこともないほど立派な屋敷が建っている。
広い窓の向こうには家具が並び、屋根付きの空間には編み込まれた椅子や長椅子が置かれ、その先には海とは別に青い水を湛えた四角い池まであった。
そして、その長椅子には一人の女が寝そべっていた。
片手には色鮮やかな飲み物。
こちらが海で死にかけていたとは到底思えないほど、のんびりしている。
男は隣の仲間と顔を見合わせた。
***
「はぁぁぁ? なんで人いるの?」
テラスのソファで寝転がっていた私は、森の方からぞろぞろ現れた集団を見て思わず声を上げた。
数日前、人がいないからという理由でわざわざこの島へ引っ越してきたばかりなのに、目の前にはどう見ても十人近い人間がいる。しかも全員ずぶ濡れで、服は破れ、泥と砂まみれだった。
隣でジュースを飲んでいたロキは彼らを一度見ただけで、さほど興味もなさそうにグラスを置いた。
「難破者だな」
「いや、それは見れば何となく分かるけど。なんでこの島に来るのよ」
「船が沈めば、岸には流れ着くだろう」
ものすごく当たり前のことを言われた。
確かにそうなのだが、私としては人が来ない場所を選んだつもりだったので、数日でその前提を壊されるとは思っていなかった。
集団の中から年配の男が一歩前に出て、船が島の反対側で座礁したこと、仲間とどうにか岸へ上がり、この家を見つけたことを説明してくれた。
話している間にも何人かは立っているのがやっとという様子だったので、とりあえず結界を通し、水と食べ物を出した。テラスの椅子だけでは足りず、床に座り込む者までいたものの、しばらくすると顔色も少しずつ戻ってくる。
「それで、帰りたい場所はあるの?」
腹が満たされた頃を見計らって聞くと、彼らは近くの大きな港町の名前を挙げた。
それなら話は早い。
ただ、その中の一人が名残惜しそうに家とプールを見回してから、遠慮がちに口を開いた。
「もし許されるのであれば、この島で暮らすことは……」
「ここはダメ」
考えるまでもない。
せっかく人のいない島を選んだのに、遭難者を住まわせて人口を増やしてどうする。
相手が少し残念そうな顔をしたので、海の向こうに見えている小さな島を指さした。
「隣の島ならいいよ」
全員がそちらを見た。
木が生えているだけの、普通の無人島だ。
そしてもう一度、こちらの家を見る。
「……港へお願いします」
「だよね」
別にこの島そのものが気に入ったわけではなかったらしい。
行き先が決まれば、全員まとめて指定された港へ転移させる。さっきまで人でいっぱいだったテラスは一瞬で静かになった。
私は残った皿やグラスが勝手に片付いていくのを眺めながら、ソファへ戻った。
「無人島でも人って来るんだね」
「海に囲まれている以上、来るときは来る」
「次は来ないでほしいなあ」
ロキは何も答えなかった。
◇
しばらくして、私はまたテラスでトロピカルジュースを飲んでいた。
ようやく静かな時間が戻ってきたので、そのまま昼寝でもしようかと思っていたところ、砂浜の方から誰かが歩いてくるのが見えた。
長い髪に、華奢な身体。
遠目でも分かるくらい整った顔立ちをした、若い女の子だった。
ただし。
何も着ていない。
「…………は?」
真正面から堂々と歩いてくる。
私はグラスを置いて立ち上がった。
「ちょっと待って! どーなってんのよ! とりあえず服着て!」
相手はきょとんとしていたものの、そんなことはどうでもいい。収納から自分の大きめのTシャツと短パンを出して押しつけ、着替えさせてからようやくテラスへ座らせた。
服を着ても十分綺麗だったが、Tシャツと短パンになったことで、さっきまでの幻想的な雰囲気はだいぶ薄れた。
「で、何?」
話を聞いてみると、どうやら人魚らしい。
さっきの難破船が沈んだとき、一人の男を海から助け、島の裏側の浜まで運んだ。その男に一目で惹かれたものの、目を覚ます前に仲間たちが来てしまったので海へ戻り、その後を追ってここまで来たらしい。
そして人間の足を手に入れ、ようやく陸へ上がってきたところ、肝心の男たちは消えていた。
「あー。さっきの人たちなら港に送ったよ」
「港……」
肩を落とした姿を見ながら、私は昔読んだ話を思い出した。
「なるほどね。あの泡になるやつね。懐かしー」
「泡?」
「こっちの話」
相手は不思議そうにしていたが、説明すると長くなるので流した。
「で、どうしたいの?」
聞けば、やはりその男に会いたいらしい。
だったら行き先は決まっている。
「じゃあ同じ港に送るけど、いい?」
力強く頷いたので、そのまま転移させた。
姿が消えたあと、私は残ったジュースを飲みながら、ふと引っかかった。
人魚姫って、人間の足をもらう代わりに声を渡してなかったっけ。
あの子、普通に喋ってたけど。
「……何渡したんだろ」
まあ、別にいいか。
◇
夜、風呂から上がって、そろそろ寝ようかと思っていた頃だった。
窓の外から、妙な声が聞こえた。
波の音に混じって、女の泣き声のようなものがする。
「えぇ……今度はお化け?」
昼間は難破者、そのあと人魚、今度は幽霊まで来るのだろうか。
せっかく静かに暮らすための島なのに、ずいぶん賑やかである。
仕方なく外へ出て海の方へ向かうと、砂浜に誰かが座り込んでいた。
昼間の人魚だった。
「あ。泡にはならなかったのね」
顔を上げた相手は、涙でぐしゃぐしゃになったまま首を傾げた。
「……何の話ですか」
「いい。で、今度は何?」
聞いてみれば、話は簡単だった。
港で男を見つけ、無事に話すこともできたものの、その男にはすでに恋人がいたらしい。
「あー、それは残念だったね」
それ以上はどうしようもない。
相手はまた泣き始めたが、私はふと昼間から気になっていたことを思い出した。
「そういえばさ」
顔を上げた人魚に、私は首を傾げる。
「人魚姫って、足をもらう代わりに声を取られてたよね。あんた普通に喋ってるけど、何渡したの?」
途端に泣き声が止まった。
人魚は少し視線を逸らし、しばらく黙ったあと、小さな声で答えた。
「……竿です」
「……何?」
「雄だった頃の」
意味を理解するまで、数秒かかった。
「…………雄だったの!?」
思わず声を上げると、相手は逆に驚いた顔をした。
「そうですが」
「いや、だってどう見ても女の子だったじゃん!」
「勝手にそう思ったのはあなたでしょう」
正論だった。
言われてみれば、胸はほとんどなかったし、華奢で顔立ちが綺麗だったから女の子だと思い込んでいただけで、本人は一度もそう名乗っていない。
私は額を押さえながら、昼間から引っかかっていた疑問がようやく解けたことだけは理解した。
「そっち取る魔女いるんだ……」




