第2話 森にリビングを作りました
森へ足を踏み入れると、町のざわめきはあっという間に遠ざかり、代わりに葉擦れの音と鳥の声が近くなった。頭上では木々の枝が重なり、その隙間から落ちる陽射しが地面にまだらな模様を作っている。
人の気配が消えていくのは悪くない。むしろ、こちらの方がずっと落ち着く。
ただ、木陰へ入って数歩も進まないうちに、耳元を小さな羽音が横切った。
「……あ、虫いるじゃん」
森なのだから当然なのだが、そこまで考えていなかった。
よく見れば草の間では小さな何かが動いているし、木の周りには羽虫も飛んでいる。静かなのはいい。涼しいのもいい。人がいないのはもっといい。
でも虫は嫌だ。
早々に森暮らしの問題点へぶつかり、神にもらった《万能魔法》を思い出した。たしか、結界というものが使えたはずだ。
そう意識した途端、使い方が自然に頭へ浮かんでくる。範囲を決めて、通したくないものを指定すればいいらしい。
「虫だけ入ってこないように……これくらいでいいか」
自分を中心に数メートルほどを思い描くと、空気がわずかに揺れた。
こちらへ飛んできた羽虫が途中でふっと進路を変え、草の上を這っていた小さな虫も、ある地点まで来ると向きを変える。
「おお」
しばらく眺めてから、満足して頷いた。
異世界へ来て最初にまともに使った魔法が防虫結界というのもどうかと思うが、必要なのだから仕方がない。
これで安心して歩ける。
そう思って一歩踏み出したところで、足の裏に小枝が刺さりそうになった。
「……靴」
そこでようやく自分の足元を見る。
大きめのTシャツに短パン、そして素足。
家のリビングから直接落とされたのだから当然だが、このまま森を歩くのはさすがに無理がある。
そういえば、自宅にあった物は全部収納へ入れてもらった。
《無限収納》と意識すると、視界の端に半透明の表示が現れ、その中には検索という項目まであった。
「検索まであるんだ」
スニーカー、と考えれば、自宅にあった靴がずらりと並ぶ。仕事用から普段履き、買ったもののほとんど使っていないものまで残らず入っていたので、その中から一番楽そうなものを選んだ。
次の瞬間には、目の前に靴が現れる。
「便利」
ついでにスマートフォンも取り出してみたが、当然ながら圏外だった。ただ時計もカメラも使えるので、ひとまず困ることはない。
スニーカーを履き、改めて森の奥へ進んだ。
結界はそのままついてくるらしく、歩いている間も虫は近寄ってこない。木漏れ日は柔らかく、風もほどよく涼しいので、虫さえいなければ避暑地の散歩道と大差なかった。
しばらく進むと、木々の間が少し開けた場所へ出た。
周囲を大木に囲まれた小さな空間で、地面は比較的平らなうえ、少し離れたところには細い川まで流れている。
「ここ、いいな」
誰もいない。静か。水もある。
虫も来ない。
当面の休憩場所としては十分だった。
木陰を選び、何か座れる物はないか収納を検索してみると、折り畳み椅子どころか、自宅のリビングに置いてあったソファまで普通に表示された。
少し考える。
「……ソファでいいか」
誰も見ていないのだから、遠慮する理由もない。
次の瞬間、森の中に見慣れたソファが現れた。
木々と草の中にぽつんと置かれたそれは、どう考えても場違いだった。
「まあ、いいでしょ」
靴を脱いで腰を下ろしてみると、やはり座り慣れたソファは落ち着く。背もたれへ身体を預けたところで、今度は飲み物が欲しくなった。
麦茶を検索し、グラスと一緒に取り出して一口飲む。
「……最高じゃん」
森の中で、冷えた麦茶を飲みながらいつものソファに座っている。
少なくとも、思っていたほど異世界は不自由ではなさそうだった。
そうなると、少しずつ欲が出てくる。
飲み物を置くためにサイドテーブルを出し、足を伸ばしたくなったのでオットマンも追加した。地面へ家具を直接置いているのが気になってラグまで敷き、そのうちローテーブルも出てきた。
気がつけば、木立の間に見慣れたソファとオットマン、ローテーブルにサイドテーブル、その下にはラグまで敷かれている。
テーブルの上には麦茶。
森の中に、リビングだけがあった。
「……変だな」
どう考えても変だったが、困っている人はいない。
それ以上考えるのはやめてソファへ横になり、いつものクッションを抱え込んだ。木漏れ日がほどよく差し込み、遠くから川の音が聞こえるうえ、虫の羽音がまったくしない。
少し休んだら、今後のことを考えよう。
寝る場所もいるし、トイレも必要になる。夜になれば明かりがいるし、雨が降れば屋根も欲しい。
考えることはいくらでもある。
でも、今日中に全部やる必要はない。
そもそも今日は、何もしないと決めていた日だった。
「……今日はもういいか」
異世界へ落とされたからといって、一日の予定まで全面的に変更する必要はないだろう。
クッションへ頬を埋め、そのまま目を閉じた。
◇
頬に冷たいものが落ちて、目を覚ました。
もう一滴が額に当たり、続いてラグの上にも小さな染みができる。空を見上げると、昼寝をする前まで木漏れ日を落としていた葉の向こうが、いつの間にか灰色に曇っていた。
「……雨か」
問題は、むき出しで置いてあるソファとラグだった。
「ちょ、待って。濡れるじゃん」
慌てて身体を起こしたところで、《万能魔法》を思い出す。
雨を防げないかと考えれば、やはり方法はすぐに浮かんだ。ソファやテーブルまで覆うように結界を広げると、降ってきた雨粒が頭上でふわりと逸れ、その内側だけが乾いたまま残る。
「便利」
とはいえ、これを毎回やるのも何か違う。
雨の向こうに広がる森を眺めているうちに、答えはすぐ出た。
「……屋根はいるな」
収納には家具も家電も寝具もある。
でも、家そのものはない。
町へ戻れば宿くらいあるだろうが、受付で話をして、部屋を借りて、場合によっては身分証だの何だのと言われるかもしれない。
「作るか」
そう考えた途端、《万能生産》が反応した。
必要な広さや材料、建て方が一気に頭へ入ってくる。
豪邸はいらない。広ければ掃除する場所が増えるだけだ。リビングを少し広めにして、寝室は一つ。キッチン、風呂、トイレがあれば十分。
今いる場所では少し狭かったので、必要な範囲だけ木を使うことにした。
指定すると、木々が根元から切り分けられ、枝を落とされていく。使える部分はそのまま建材へ回され、あっという間に加工まで終わった。
「……すご」
どうやら、自分でやることはほとんどないらしい。
森の中なので床は少し高めにする。窓は大きく、段差は少なく、風呂だけはちょっと広め。
「こんなもんかな」
決定すると、敷地全体が淡く光った。
地面が整い、石の基礎が組まれ、その上へ柱や床、壁が次々と作られていく。
雨除けの結界の中から眺めているうちに、森の中へ木造の平屋が完成した。
「……ちゃんと家だ」
少し洒落た山荘のような外観で、意外なほど森になじんでいる。
中へ入ると、大きな窓の向こうに木々が広がり、リビングも十分な広さがあった。
ならば、と外に置いていた家具をそのまま移す。
ソファ、オットマン、ローテーブル、サイドテーブル、ラグ。
寝室にはベッドを置き、キッチンには冷蔵庫、電子レンジ、炊飯器、電気ケトルを並べた。
見慣れた物が収まると、さっき建ったばかりとは思えないほど一気に自宅感が出た。
「いいじゃん」
満足してソファへ腰を下ろしたところで、今度は別の問題がやってきた。
尿意である。
動きが止まる。
「……トイレ」
間取りにはある。
便器もある。
でも、ここには上下水道がない。
「そうじゃん」
これは明日でいい問題ではなかった。
すぐに《万能生産》を呼び出し、水回りもまとめてどうにかすることにした。
水は周囲のマナから作り、キッチンや風呂、トイレへ自動で供給。使った水も排泄物も内部で処理して、臭いも残らない。
そこまではよかった。
「汲み取りは絶対イヤ」
ここだけは譲れない。
ならば処理まで全部自動にすればいい。
最終的に残ったものは肥料として固形化し、地下の保管庫へ勝手に送る仕組みにした。
設定を終えると、視界の端に小さく表示が浮かぶ。
《肥料庫:0%》
「まあ、いつか使うか」
用途より、今はトイレである。
問題なく流れることを確認してから、収納からトイレットペーパーを出してホルダーへ置いた。
これでようやく落ち着ける。
ついでにキッチンの蛇口をひねると、透明な水が勢いよく流れた。ひと口飲んでみても普通においしい。
その頃には雨雲の向こうで日が傾き、室内も薄暗くなっていた。
「明かりもいるな」
光魔法を使えば照らせるらしいが、毎晩自分で出して消すのは面倒だ。
欲しいのは普通の照明だった。
周囲のマナで動く照明を作り、天井へ設置する。操作も慣れたものがいいので、壁にはスイッチまで付けた。
押してみる。
ぱちり、と部屋全体が柔らかく明るくなった。
「これこれ」
魔法の世界へ来たはずなのに、完成していく生活はどんどん元の家へ近づいていた。
その方がいい。
窓の外がすっかり暗くなった頃、今度は腹が鳴った。
「ご飯」
そういえば、異世界へ落とされる直前に食べていたあずきバー以外、昼からまともなものを食べていない。
料理をする気にはならなかったので収納を検索すると、買い置きしていた冷凍弁当がいくつか見つかった。
「今日はこれでいいや」
一つ取り出し、電子レンジへ入れる。
元の世界では電気で動いていたはずのそれが、ここではマナとやらを使って何事もなかったように回っている。
数分後、温まった弁当をローテーブルへ置いた。
「いただきます」
窓の外では雨が降り続いている。
森の中なのに、家の中は明るい。蛇口から水が出て、電子レンジも冷蔵庫も使える。
そのうえ家賃はない。
電気代も水道代も下水代もない。
箸が止まった。
「……異世界、固定費タダじゃん」
勝手に連れてこられた件については、もちろん別の話である。
ただ、この一点だけはかなり良かった。
食べ終えた容器を片づけ、飲み物を持ってソファへ戻る。
今日は家まで建てた。
もう十分だ。
「……もう動かない」
クッションを抱え、そのまま背もたれへ沈み込んだ。
こうして異世界初日の夜、私は冒険者にもならず、町の門すらくぐらないまま、森の中で冷凍弁当を食べて一日を終えた。




