第1話 今日はもう何もしない
今日はもう何もしない。
田中由美、四十六歳。昼過ぎの時点で、そう決めていた。風呂も済ませ、必要な買い物も昨日のうちに終わっているので、あとは冷房の効いたリビングで好きなだけだらければいい。髪を乾かすのも途中から面倒になり、前髪ごと頭のてっぺんで適当に縛ってある。
着ているのは、何年ものか分からない大きめのTシャツに短パン。冷凍庫から一本だけ取り出したあずきバーを片手にソファへ身体を沈めると、ようやく一日の仕事を終えたような満足感に浸った。
「最高……」
仕事へ行く日なら、もう少し人間らしい格好もする。髪を整えて化粧をし、それなりの服を着れば、年齢を言った時に驚かれる程度には見栄えもするのだが、誰にも会わない家の中でまでそんな努力をする気はない。
冷蔵庫には食べ物も明日の分まであるし、洗濯も昨日済ませた。今日の私には、外へ出る理由も人と話す理由もない。
完璧だった。
だからこそ、リビングの床に突然、直径二メートルほどの真っ黒な穴が開いても、しばらく意味が分からず、あずきバーを口元に止めたまま眺めていた。
「……なに、あれ」
さっきまでラグが敷かれていた場所が消え、代わりに光を一切返さない黒い円がぽっかり口を開けている。どう考えても正常ではないし、好奇心で近づいていいものにも見えない。
四十六年生きていれば、それくらいの危機管理能力は身につく。
あずきバーをくわえたまま静かに立ち上がり、穴から距離を取った。警察なのか消防なのか、それともまず管理会社なのかは分からないものの、とにかく触らず近づかず、その場から離れるのが正解だろう。
そう考えて右へ動くと、床に開いていた黒い円が、すっと横へ滑った。
右へ逃げる。
穴も右へ来る。
左へ逃げる。
穴も左へ来る。
「ちょっと待て」
待たなかった。
黒い円が足元へ滑り込み、床が消えた。
「はぁぁぁぁ!?」
手から離れたあずきバーだけが一瞬遅れて視界を横切り、そのまま真っ暗な穴の中へ落ちていった。
◇
次に目を開けると、見知らぬ男が目の前で深々と頭を下げていた。
「このたびは、誠に申し訳ございませんでした」
床も壁も天井も見当たらず、ただ白い空間だけがどこまでも続いている。いつの間にか座り込んでいた身体を起こし、怪我がないことを確かめてから男へ視線を戻した。
状況はまるで分からない。
それでも、ひとつだけ気になることがあった。
「あの……私、アイス持ってませんでした?」
男が顔を上げ、きょとんとした。
「途中まで食べてたあずきバーなんですけど」
「少々お待ちください」
慌てて宙へ手を伸ばした男の前に、ほどなくして見覚えのあるあずきバーが現れた。受け取ってみればまだ冷たかったので、ひと口かじってからようやく本題へ戻る。
「それで……ここ、どこですか?」
男は神だと名乗った。
本来なら別の人物を異世界へ転移させる予定だったものの、そのために開いた転移門の座標を誤り、私の自宅リビングへ穴を出してしまったらしい。
黙ってあずきバーをかじりながら続きを待っていると、さらに問題はその先にあった。
私が穴を避けたため、神は慌てて転移門の位置を修正しようとした。しかし、その修正先まで誤り、よりにもよって私の真下へ移動させてしまったという。
「つまり、私が自分から落ちたわけじゃないんですね」
「はい……おっしゃる通りです」
申し訳なさそうに肩を落とす神を見て、小さく息を吐いた。相当へこんでいるようなので怒鳴る気にはならないが、だからといって、はいそうですかで済ませられる話でもない。
「じゃあ、元の家に戻してもらえます?」
神の表情を見た時点で、どうやら無理らしいと察した。
転移の際、身体はすでに異世界の環境へ適応するよう再構成されており、今から元の世界へ戻すことはできないらしい。詳しい理屈はよく分からなかったが、要するに神側の処理ミスで、本人の意思とは関係なく異世界行きが確定した。
今日こそ何もしないつもりだったのに、どうしてこんなことになったのだろう。
トラックに轢かれたわけでも、病気で死んだわけでもない。ただ家でアイスを食べていただけなのに。
「戻れないなら仕方ないですけど……せめて、向こうで生活に困らないようにはしてもらえます?」
「もちろんです。こちらの全面的な不手際ですので、可能な限りご希望に沿わせていただきます」
神が力強く頷いたので、少し考えた。
生活に困らない。
そう言われれば、欲しいものは案外はっきりしている。
「じゃあ、できれば一生働かなくても済むくらいで」
神の動きが止まった。
少し言い方が悪かっただろうかと思ったものの、今さら格好をつけても仕方がない。
「もう十分働いたので。異世界へ行ってまで毎朝決まった時間に起きて仕事するのは、ちょっと……」
それならば、と神が何かを書き留め始めたので、思いつくまま希望を伝えていった。病気や怪我はできれば避けたいし、痛いのも嫌だ。暑すぎたり寒すぎたりするのも困るし、歩き回らなくて済むなら、その方がいい。
虫も苦手だった。
「あと、家事もなるべく楽だと助かります。料理は嫌いじゃないんですけど、掃除とか洗濯とか、毎日やるのは面倒なので」
「なるほど……」
「注文、多いですかね」
「いえ。今回はこちらの過失ですので」
そう言いながらも、神の手はかなり忙しそうだった。
やがて目の前に、六つの光る文字列が浮かび上がった。
《完全生存》
《万能魔法》
《無限収納》
《万能生産》
《万能解析・成長》
《従魔・召喚》
「……結構ありますね」
「ご希望を整理したところ、この六系統が最も適切かと」
そこから自動回復だの全属性魔法だの錬金だの鑑定だのと説明が続き、最初の数分こそ真面目に聞いていたものの、次第にどれがどれだか分からなくなってきた。
どうやら、かなり色々できるらしい。
「使う時になったら分かります?」
「必要な情報は自然に理解できるよう調整いたします」
「じゃあ大丈夫です」
全部覚えなくていいなら、それで十分だった。
ただ、ひとつ忘れてはいけないことがある。
「あの、家に置いてきた物ってどうなります?」
神がまた止まった。
「服もそうですけど、冷蔵庫とかベッドとか、スマホもありますし。急に来たので、何も持ってないですよね」
どうやらそこまでは考えていなかったらしく、少し考え込んだ末、《無限収納》へ自宅にある私物をすべて移すことになった。家具も家電もまとめて格納できるという。
「冷蔵庫の中身もですか?」
「はい。食品もそのまま保存可能です」
「それは助かります」
さらに元の世界の電化製品も、異世界側のマナを電力の代わりに使えるよう調整してくれるらしい。
「じゃあ、電気代みたいなものは?」
「必要ありません」
「……それ、すごくいいですね」
異世界転移そのものはまったく嬉しくないが、そこだけは素直にありがたかった。
話がまとまると、神は最後に転移先について説明した。
送り先は、比較的安全な辺境の町のすぐ近くにある草原。到着地点から町までは歩いて十分ほどで、街道も見えるため迷う心配はなく、宿や市場、冒険者組合も揃っているらしい。
そこまで手配してもらった以上、文句を言う筋合いはない。
「色々ありがとうございます。まあ、行ってみてから考えます」
そう答えると、神はようやく少し安心したように笑った。
「今度こそ、穏やかな生活を送られることを願っております」
こちらも同じ気持ちだった。
本当に、静かに暮らせればそれでいい。
◇
足元に柔らかな感触が戻り、目を開けると、そこは一面の草原だった。
少し離れた場所には石壁に囲まれた小さな町があり、門へ続く街道には荷馬車や人の姿も見える。神の言った通り、歩いて十分もかからない距離だろう。
「近いな」
ずいぶん気を遣ってくれたらしい。
宿も市場もあるし、人が暮らしているなら食べ物にも困らないだろう。
ただ、町へ入れば門番と話す必要がある。宿へ行けば受付がいるし、冒険者組合とやらへ行けば登録も必要かもしれない。その先には、知らない人との知らない付き合いが待っている。
しばらく町を眺めたあと、何気なく反対側へ目を向けた。
街道の向こうには、深い森が広がっている。
木々の間を風が抜け、遠くで鳥の声がした。こちらには人の姿がなく、町とは対照的にひどく静かだった。
町と森を見比べる。
安全性だけを考えれば町なのだろうし、神もそのためにわざわざ近くへ送ってくれたに違いない。
ただ。
「……森の方が静かそう」
今日はもう、誰とも話したくなかった。
町へ続く街道に背を向け、あまり深く考えないまま森の方へ歩き出した。
神の気遣いが無駄になったのは、異世界へ降り立ってから、およそ三十秒後のことだった。




