第八話 水曜日
田中仁志
水曜日。
初デートから数日。
俺たちの日常はほとんど変わらなかった。
朝食を作る。
弁当を受け取る。
一緒に出勤する。
昼休みに会う。
仕事をして帰る。
ただそれだけだ。
ただそれだけなのに。
最近はそれが当たり前になり始めている。
少しだけ怖いくらいに。
月末が近く、会計部は忙しかった。
午前中はクライアント先。
昼過ぎに会社へ戻る。
資料を作ろうと思いながらエレベーターに乗った。
すると。
「おお、田中君じゃないか」
社長だった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。少し時間をもらえるかね?」
来た。
いつか来ると思っていた。
思っていたが。
出来れば今日じゃない方が良かった。
社長室へ案内される。
何度来ても緊張する部屋だ。
豪華ではない。
だが重みがある。
積み重ねた年月そのものが圧力になっているような空間だった。
社長はソファに腰掛ける。
俺にも座るよう促した。
そして。
いきなり本題だった。
「彰が世話になっていると聞いたよ」
(単刀直入だな)
「いえ、僕の方がお世話になっています」
「そうか」
社長は笑った。
だが目は笑っていない。
「驚いたよ」
「……」
「会社ではほとんど接点がなかった二人が、清子さんが日本に来ると決まった途端に付き合い始めて」
「……」
「しかも同居までしている」
「……」
「人生何が起きるか分からないね」
完全にバレている。
むしろ。
最初から全部分かっている顔だった。
逃げ道はない。
社長はしばらく俺を見つめた。
そして。
「田中君」
「はい」
「君は彰を好きかね?」
頭が真っ白になった。
予想していた質問ではなかった。
好き。
嫌い。
そんな簡単な話ではない。
答えられない。
すると社長は小さく笑った。
「答えなくていい」
「……」
「答えられないならそれが答えだ」
そう言われると余計に困る。
社長はコーヒーを一口飲んだ。
「君は優しいな」
「そんなことありません」
「優しい人間ほどこういう嘘を引き受ける」
胸が少し痛んだ。
図星だったからだ。
俺は何も言えなかった。
しばらく沈黙が続く。
そして社長がため息をついた。
「全部話してくれるかね」
逃げられない。
俺は覚悟を決めた。
黒崎さんに頼まれたこと。
同居のこと。
清子のこと。
偽恋人のこと。
一通り説明した。
ゲイバーで殴られた話だけは伏せた。
話し終える頃には喉が渇いていた。
社長は大きなため息をつく。
「なるほど」
「……」
「つまり二人で清子を騙すと決めたわけだ」
「言い返す言葉もありません」
社長はしばらく黙った。
怒られると思った。
だが違った。
「私は反対だ」
静かな声だった。
「……」
「だが止めない」
思わず顔を上げる。
「人間にはな」
社長は窓の外を見た。
「正しいことより大切なことがある時もある。学校の宿題と違って事が終わってようやく何が正しい選択だったか分かる。」
「……」
「ただし責任は取れ」
その言葉だけが重かった。
「彰は昔から別れが嫌いでな」
「……」
「叔父さん」
振り返ると。
いつの間にかドアの所に彰吾が立っていた。
社長は肩をすくめる。
「おっと失礼」
それ以上は何も言わなかった。
だが妙に気になった。
別れが嫌い。
その一言だけが。
仕事を終えた頃にはもう定時だった。
いつもなら。
オフィスの外に黒崎さんがいる。
だが今日はいない。
少しだけ寂しいと思った自分に驚く。
スマホを見る。
メッセージが入っていた。
【14:36】
黒崎彰吾
『社長とのこと聞いた』
『本当にすまん』
『今日は少し遅れる』
『三十分だけ待ってくれないか?』
忙しくて気づかなかったらしい。
俺は小さく息を吐いた。
三十分。
なら仕事が出来る。
結局一時間後。
電話が鳴った。
「地下駐車場来れるか?」
「五分ください」
「ありがとう」
地下駐車場には。
黒崎さんと。
社長がいた。
そのまま三人で夕食へ向かう。
高級レストランだった。
だが味はあまり覚えていない。
緊張していたからだ。
会話も断片的だった。
仕事の話。
アメリカの話。
会社の昔話。
そして最後。
店を出る前に社長が言った。
「彰」
「うん」
「私は何も言わない」
「ありがとう」
「だが覚えておけ」
社長の目が真剣になる。
「嘘はいつか必ずバレる」
静かな声だった。
「その時どうやって相手を傷つけないか」
「……」
「それを考えるのが大人だ」
彰吾は黙って聞いていた。
「特にお前だ」
「うん」
「清子をこれ以上心配させるな」
長い沈黙。
そして。
彰吾が笑った。
いつもの笑顔だった。
「大丈夫」
「……」
「母さんは喜ぶよ」
社長は何も言わなかった。
ただ静かに車へ乗った。
帰り道。
俺と彰吾だけになる。
夜の街が流れていく。
しばらく沈黙が続いた。
そして。
彰吾がぽつりと言った。
「俺さ」
「はい」
「母さんには幸せになったって思ってほしいんだ」
俺は窓の外を見たまま聞いた。
「黒崎さんは幸せじゃないんですか?」
車内が静かになる。
信号待ち。
赤信号。
彰吾は前を見たまま答えた。
「分からん」
その声だけは。
いつもの彰吾じゃなかった。
家に帰る頃には。
またいつもの黒崎彰吾に戻っていた。
笑って。
冗談を言って。
冷蔵庫の牛乳を探していた。
だが。
今日の黒崎さんは。
少しだけ。
無理をしているように見えた。




