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第三話 隣の部屋

「……」

 彰吾の部屋は、広かった。

 高層マンションの上階。

 間接(かんせつ)照明(しょうめい)の柔らかな光に、落ち着いた色味の家具。無駄に派手ではないのに、どこを見ても質が良いと分かる。

 育ちが良いとは知っていた。

 だが、ここまでとは思わなかった。

 大きな窓の向こうには長崎の夜景が広がっている。

(……一か月)

 仁志は静かに息を吐いた。

 どのみち、自分は一か月ここで暮らすのだ。

「風呂入りたいか? それとも先に夕飯?」

 コートを脱ぎながら彰吾が聞く。

「……先にお風呂に入りたいです」

「了解。そこ曲がって右。もう湯は入れてあるから、ゆっくり入れよ」

「シャワーだけで大丈夫です。十分くらいで終わるので」

「今日は忙しかっただろ。荷物整理は明日にしろ。疲れてんだろ?服は適当に俺の使っていいから」

 仁志は少し目を瞬いた。

(意外と気を遣うんだな……)

 もっと雑な人間かと思っていた。

 いや、雑なのは間違いないのだろうが、少なくとも他人への配慮がない人間ではないらしい。

「……ありがとうございます」

     ◇

 シャワーを浴びた後、借りた服に着替える。

 サイズは少し大きかった。

 黒いTシャツは肩が落ち、袖も余る。

 柔軟剤と微かな香水の匂いがした。

(……落ち着かない)

 他人の服を着るのが久しぶりすぎる。

 しかも相手は、“仮の恋人”。

 意味が分からない。

 そんなことを考えながらリビングへ戻ると、彰吾が料理を並べていた。

「お、ちょうどいい」

「……作ったんですか?」

「簡単なのだけな」

 テーブルにはパスタとスープ、それにサラダ。

 男の一人暮らしにしては妙に整っていた。

「座れよ」

「いただきます」

 食事が始まる。

 とはいえ、喋っているのはほとんど彰吾だった。

 仕事の話。

 海外時代の話。

 社長との変なエピソード。

 仁志は相槌を打ちながら静かに聞く。

(……話し上手だな)

 自然に空気を回せる人間だ。

 こうやって昭以外の誰かと落ち着いて食事をするのは、本当に久しぶりだった。

 しかも。

(食べ方、綺麗だな)

 箸の持ち方も、皿の扱い方も丁寧だった。

 育ちの良さが滲み出ている。

「聞いてる?」

 不意に声を掛けられ、仁志は我に返った。

「あ、聞いてます」

「ほんとか?」

「この間、社長とハイキング行った時に迷子になった話ですよね」

「迷子じゃねぇって」

 彰吾は不満そうに眉を寄せる。

「寄り道して歩き回ってたら、なんか熊出そうな道に入ってさ。そこで社長が帰り道分かんなくなっただけ」

「それを迷子って言うんですよ」

 彰吾が吹き出した。

(……案外面白い人なんだな)

「っていうか、なんで方向音痴二人でハイキングなんてしたんですか?」

「毎日会社と家の往復だけじゃ息詰まるだろ。それに運動になるし」

「黒崎さんの場合、会社とホテルと家の往復じゃないんですか? 充分運動してるでしょう」

 一瞬、沈黙。

 それから彰吾が目を丸くした。

「お前、冗談言えんじゃん」

「多少は」

「あと俺への印象ほんと最悪だな」

「それは黒崎さんのせいでしょう」

 仁志は淡々と言う。

「バーで恋人に殴られてる人なんて、ドラマか漫画でしか見たことないですよ。それを数週間後に公園で再放送されれば印象にも残ります」

「再放送って言うな」

 彰吾は苦笑した。

「……失礼ですけど」

 仁志は少し迷った後、静かに口を開く。

「何で、ああいう人たちとの関係を続けるんですか?」

 彰吾の手が止まった。

「……知ってても聞く?」

「多少は“相方”のこと知っておきたいので。答えたくなければ別に」

 少しの沈黙。

 それから彰吾は、グラスを指で回しながら口を開いた。

「別にトラウマとかじゃないんだけどさ」

 低い声だった。

「俺の両親、恋愛結婚じゃないんだ」

 仁志は黙って聞く。

「母さんが妊娠して、責任取る形で結婚した。幼馴染同士だったから仲は悪くなかったけど……二人とも、本当に好きな相手は別にいた」

 彰吾は少し遠くを見る。

「最初はちゃんと夫婦やろうとしてたんだと思う。でもだんだん限界来たんだろうな」

「……」

「喧嘩したわけじゃない。逆。お互い無視し始めた」

 静かな声だった。

「小学校入る頃には会話もなくて、部屋も別々。もう別居みたいなもんだった」

 仁志は胸の奥が少し痛んだ。

 その空気は、なんとなく想像できた。

「初めて離婚するって言われた時、俺なんて言ったと思う?」

「……」

「『絶対嫌だ』って泣いた。ガキだったよ」

 彰吾は自嘲気味に笑う。

「結局、説得してくれたの叔父さんだった。あの人いなかったら、俺、親のこと恨んでたかもしれない」

 そこで彰吾は肩を竦めた。

「結果オーライだよ。母さんは義父と再婚してアメリカ行ったし、父さんも今は好きな相手と生きてる」

「……それでも、恋人を作りたくない理由にはなってない気がします」

「あー……」

 彰吾は後頭部を掻く。

「最初は、両親みたいになりたくなかったんだよ。本当に好きな相手が分かるまで、色んな奴と付き合えば見つかるのかなって」

(……今と同じでは)

 仁志は思った。

「お前、今失礼なこと考えたな」

「いえ、全然」

「絶対考えた」

 彰吾は呆れたように笑う。

「でもさ。俺みたいに毎回相手変わってると、人のこと信じられなくなるんだよ」

「つまり、日頃の行いの悪さのせいで人を信じられなくなったと」

「……厳しくない?」

「整理した結果です。違いますか?」

 彰吾は数秒黙り込んだ後、深くため息をついた。

「……違わん」

 その顔が妙に素直で、仁志は少しだけ笑いそうになる。

「ですけど」

「ん?」

「偉いとも思います」

 彰吾が目を瞬く。

「何が?」

「黒崎さんも、ご両親も。ちゃんとお互いに敬意を持っていたからです」

 仁志は静かに続けた。

「関係が壊れても、相手を踏みにじらなかった。それって簡単じゃないでしょう」

 彰吾は黙って聞いている。

「……まあ、黒崎さんの今回の嘘はかなり問題ですけど」

「そこ強調する?」

「でも、お母様を安心させたい気持ちは本物なんでしょう」

 その瞬間。

 彰吾の表情が少しだけ柔らかくなった。

「……ああ」

 小さな声だった。

「本当に、俺のふざけた嘘に付き合ってくれてありがとな」

「それはもういいです」

 仁志は立ち上がる。

「こんな時間ですし、片付けて寝ましょう」

「あー、片付けは俺やる。仁志はもう休め」

「悪いですよ」

「いいって。客人扱いは今だけだから」

 彰吾は笑った。

「仁志の部屋、俺の隣な。さっき風呂あったとこの横」

「……分かりました。では、お言葉に甘えます」

 そう言って部屋へ向かう。

 扉を閉める直前。

 リビングで皿を洗う水音が聞こえた。

 妙に静かで。

 妙に温かい音だった。



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