第二話 嘘と花束
仁志と彰吾は会社を出た後、一度別々に帰宅することになった。
仮とはいえ、これから最低一か月は“恋人”として同居する。
しかも相手は、つい数週間前までまともに会話すらしたことのなかった男だ。
少なくとも、心の準備くらいは必要だった。
◇
部屋に入った瞬間、まだ微かに残る水臭さに仁志は眉を寄せた。
「……最悪」
床材はすでに剥がされており、木の匂いと湿気が混ざっている。
とはいえ、不幸中の幸いだった。
ダメージを受けたのはフローリングだけ。家具も私物も無事だったし、仕事用の書類にも被害はない。
仁志は静かにキャリーケースを開き、必要最低限の日用品を詰めていく。
スーツ。
ノートPC。
充電器。
仕事関係のファイル。
一か月も家を空けるなら、重要書類も持って行った方がいい。
そう思い、普段ほとんど開けない棚の奥からファイルケースを引き出した。
その時だった。
「あ……」
一枚の写真が、書類の間から滑り落ちる。
高校時代の写真。
制服姿の自分と昭が並んで写っていた。
まだ全部が壊れる前。
まだ、自分が“普通”に恋をしているだけだと思っていた頃。
――親に見つかった日のことを思い出す。
怒鳴り声。母の泣き顔。父の失望した目。
『気持ち悪い』
『お前のせいで人生終わった』
『孫も見れないのか』
あの日から、家は家じゃなくなった。昭の家にも関係が知られ、学校では噂が回った。
視線。陰口。嘲笑。
結果的に、二人は別れた。
……とはいえ。
「今さらだな」
仁志は小さく呟き、写真をファイルへ戻した。
もう過去には戻らない。昭とも、親とも、全部終わったことだ。
それに今は、そんなことを考えている暇はない。彰吾が来るまでに荷造りを終わらせなければならない。
誰かと同居するのは、昭が今の恋人と付き合い始めて以来だから三年ぶりだ。
恋愛に至っては、高校二年から止まったまま。
本当に何故、自分はあんな漫画みたいな提案を受け入れたのだろう。
そんなことを考えているうちに、時間は過ぎていった。
◇
午後七時。
インターホンが鳴る。
仁志がドアを開けた瞬間、言葉を失った。
「……」
「こんばんは」
彰吾だった。
だが会社で見る姿とは全く違う。
黒のパーカーに柔らかそうな部屋着。
少し長めの髪は風呂上がりなのかまだ微かに濡れていて、石鹸の清潔な香りがする。
そして何より。
「……何ですか、それ?」
彰吾は花束を持っていた。
白と淡い青の、小さなブーケ。
「人生初の恋人と同居し始める日だから。スペシャルギフト」
「意味が分かりません」
仁志は即答した。
彰吾が笑う。
「ノリ悪いなあ」
「黒崎さん……」
「彰吾」
「いいえ、黒崎さん」
仁志は真っ直ぐ彰吾を見た。
「お母様を安心させたい気持ちは分かります。でも貴方、自分が今どれだけ大きな嘘をついているか理解していますよね?」
彰吾の笑みが少しだけ薄れる。
「それに私も巻き込んでる」
「……」
「もしバレたら、恥で済む問題じゃありません。社長に知られる可能性だってある。人として、私たちの価値観そのものを疑われる」
仁志はそこで一度息を吐いた。
「それ、ちゃんと理解してますか?」
静寂。
冬の夜気だけが二人の間を通る。
やがて彰吾は小さく笑った。
「ああ」
その声は、思ったよりずっと静かだった。
「田中の言う通りだよ。俺は馬鹿な嘘をついた」
彰吾は視線を落とす。
「他人のお前に、自分の問題押し付けてる」
「……」
「バレた時に俺ができることなんて、責任取って説明するくらいだ。お前の罪悪感を減らす努力をするくらいしかない」
そして。
彰吾はゆっくり頭を下げた。
「それでも俺、母さんを安心させたいんだ」
仁志は目を瞬く。
彰吾が、ここまで真剣に頭を下げるとは思わなかった。
「母さん、昔から俺をすごく大事にしてくれた」
低い声が続く。
「俺がアメリカ行ってからも、ずっと気にかけてくれてた。だから最後くらい、“幸せだ”って安心してほしい」
帰国子女。 社長のお気に入り。仕事ができる。顔がいい。女にモテる。だが、ゲイ。
仁志には、ずっと分からなかった。
なぜ彰吾がここまでするのか。
なぜ母親は、息子の恋人が男だと知って喜ぶのか。
死を前にした母親が、“孫”ではなく、“愛する相手と幸せに暮らしている息子”を見て安心したいと願うこと。その相手が男だという事。
理解できなかった。
仁志の親は違ったから。
恋人の存在は、絶望の象徴だった。
なのに。
目の前の男は、それを母親に祝福されている。
「……はぁ」
仁志は深くため息をついた。
「黒崎さん。正直、今でもこれが正しいとは思ってません」
「うん」
「でも約束しましたから」
仁志は彰吾から花束を受け取った。
冬の花は少し冷たかった。
「今日からよろしくお願いします」
一瞬。
彰吾が、驚いたように目を見開く。
それから、ふっと笑った。
「……よろしく、仁志」
その呼び方に、仁志はわずかに眉を寄せたが、もう訂正はしなかった。
彰吾にとって、その日のドライブは妙に落ち着かなかった。
車内には静かなジャズが流れている。
だが、仁志も彰吾もほとんど喋らない。
助手席で仁志は窓の外を見ていた。
街灯が横顔を淡く照らすたび、彰吾は無意識にそちらへ視線を向けてしまう。
……まずい。
かなりまずい。
彰吾はハンドルを握りながら、二日前の自分と二時間前の自分を本気で蹴り飛ばしたくなっていた。
(何であんな提案したんだ俺)
いや、提案自体は仕方ない。
母のことを考えれば、あの場で誰かに頼るしかなかった。
それに田中仁志は、どう考えても理想的な“恋人役”だった。
真面目。
誠実。
仕事熱心。
会計部の上司――つまり社長の叔父からも、「田中は本当に優秀だ」とよく聞かされていた。
愛想がいいタイプではない。
だが、人付き合いを拒絶するわけでもない。
無駄な噂話もしないし、誰かを悪く言うこともない。
同僚から頼られているのも分かる。
正直、理想の社会人だ。
……そして。
(可愛いんだよなぁ)
彰吾は心の中で頭を抱えた。
仁志は自分より少し低い。百七十二くらいだろうか。
細身だが華奢すぎず、スーツが似合う体型をしている。
何より顔が整っていた。
派手ではない。
けれど静かな綺麗さがある。
睫毛が長く、考え事をしている時は少し眉間に皺が寄る。
今みたいに横顔を間近で見ると、その整った輪郭がよく分かった。
本人に自覚がないのも厄介だ。
恋愛に興味がないのか、単純に鈍いのか。
会社でも結構人気なのに、本人はまるで気づいていない。
あの日、ゲイバーで偶然見かけていなければ、彰吾も仁志がゲイだとは知らなかっただろう。
……いや。
問題はそこじゃない。
(俺の第一印象、最悪じゃね?)
ゲイバーで他人に殴られていた男。
公園でもまた別の男に暴力を振るわれていた男。
その上、“偽恋人になってくれ”と無茶苦茶な頼みをしてきた男。
冷静に考えて終わっている。
(普通に引くだろ)
彰吾は内心で呻いた。
しかも。
(なんでブーケ買ってんだ俺……)
信号待ちでハンドルに額を打ち付けたくなる。
意味が分からない。
いや、感謝の気持ちはあった。
同居初日だから空気を和らげたかった。
だが普通、もっと別の方法があるだろう。
食事を奢るとか。
高めの菓子を買うとか。
ホテル代を出すとか。いや何考えてんだ俺?
何故花束。
しかも小さめとはいえ、ちゃんと色合いまで悩んで選んだ。
(バカか俺)
助手席の仁志はそんな彰吾の葛藤など知らず、静かに窓の外を見ている。
その横顔が妙に落ち着いていて、余計に心臓に悪い。
しばらく沈黙が続いた後。
「……黒崎さん」
不意に名前を呼ばれ、彰吾は肩を揺らした。
「ん?」
「道、ナビゲーションが右だと」
「あ、悪い」
彰吾は慌ててハンドルを切る。
仁志が小さく息を吐いた。
「疲れてるんですか」
「まあ、ちょっと」
「事故だけはやめてください」
「善処します」
「してください」
即答だった。
彰吾は思わず吹き出す。
「田中ってさ」
「はい」
「結構厳しいよね」
「黒崎さんが緩すぎるんです」
その返答があまりにも真面目で。
彰吾はまた笑ってしまった。
すると仁志が少しだけ不思議そうにこちらを見る。
その瞬間。
彰吾はふと思った。
――こんな空気、いつ以来だろう。
誰かと並んでいて、無理に取り繕わなくていいと思えたのは。
セフレでも、遊び相手でもない。
ただ隣にいるだけで、静かでいられる相手。
その感覚が妙に心地よくて。
だからこそ彰吾は、自分に軽く嫌気が差した。
(……いやいや)
まだ始まってもいない。何か始まれば終わる可能性ができる。
これは契約だ。
一か月限定の、仮初めの恋人。
それ以上でも、それ以下でもない。
田中が辞めると言えば俺の嘘もそこまで。それだけはあってはならない。
そう自分に言い聞かせながら、彰吾は夜の長崎を走り続けた。




