ベビーベッド引きこもりvs体力お化けの戦いは火を見るより明らか
俺の名は無患樹 楓。前世は享年47歳の独身男性だったが、今は1歳の女児である。
そんな俺は48年で最大の難敵と対峙していた。
奴の名は小鳥遊 雀。隣家に住む、同い年の幼馴染である。なんて可愛い難敵なんだ。
彼女は今日も元気だった。元気すぎた。
「あー!あー!」
奇声を発しながら、雀がハイハイでリビングを疾走する。その速度は、もはや赤ちゃんの域を超えている。前世はチーターかダチョウであると確信できる。
いや、マジで速い。何故そんなに速い。その小さな手足のどこにそんなパワーが?
俺より1ヶ月遅く産まれているはずなのに、パワー、スピード、体格、情けない事に全て負けている。
俺はベビーベッド(正確にはリビングの一角を間仕切りした空間)の柵に、疲れから寄りかかりつつ、その暴走を眺めていた。
いや眺めている場合ではないのだ。追いかけなければ行けないのだが、こちとら「赤ちゃんは食っちゃ寝するもの」と思い込んでおり、雀と違って健やかに過ごしていたため体力がないのだ。
しかし放置していたら彼女が何をしでかすか、この半年で嫌というほど学んでいる。
案の定、雀はテレビ台の下に手を伸ばしていた。
不味いぞ。何を見つけだんだ今回は……。
「すーちゃん、だめ!」
俺は叫んだ。いや正確には「あー!」という赤ちゃん語である。当然、雀には通じない。が、俺の声には反応を示し、嬉しそうに振り返る。
そして手にしたものを自慢するように見せびらかす。
それは、埃の塊だった。
「あー!あー!」
おそらく「とったどー!」と言っているのであろう。
俺の声が彼女に伝わらないように、彼女の声も俺には伝わらないが、多分合ってる気がしている。
俺は必死にハイハイで近づき、今まさに頂きますをしかけている彼女の手に必死でダイブ、なんとか埃を叩き落とす事に成功した。間に合った……やればできるやん俺。
ぜーぜー言いながら倒れ込む俺を、雀は不満そうに睨み「ふん!」と鼻を鳴らす。いや、1歳児が鼻を鳴らすな。誰に教わった。……俺じゃないよね?
「赤ちゃんはなんでも口に入れる」と聞いたことはあったが、それは「食べ物として認識できる範囲」でだと思っていた。
だってさ、動物ですら食べられそうなものと食べれないであろうもの区別するよ?
赤ちゃんといえど腐っても人間。そこはある程度判断できると思うじゃん。「食べられそうなものならなんでも」って認識しちゃうよね。拾い食いしちゃうから気をつけろ的な意味合いだと思うじゃん。
でも雀はとにかく何でも口に入れる。埃、ティッシュの切れ端落ちている米粒、果ては俺の足の指まで。先週はヘアゴムを口に含んでいて、危うく窒息しかけていた。俺が泣き叫んでママを呼び、なんとか事なきを得たがあの時は本気で寿命が縮んだ。生きた年数より、この半年で削れた寿命のほうが多いと思う。知らんけど。
あれ待って。これ雀がおバカなだけってことある?
名前に負けず、知能雀レベルなの?前世はダチョウで確定なの?
赤ちゃんとは、もっとこう、のんびりしているものではなかったのか。一日の大半を寝て過ごすものと聞いていたのに。雀は全く違う。彼女は常に動き続けている。まるで永久機関だ。いや、永久機関は物理学上存在しないはずだが、雀を見ているとその法則が揺らぐ。とりあえず、次の問題行動を防止するためにも、大人しくおもちゃで遊んだいてもらおう。
「あー、あー!(すーちゃん、こっち!)」
俺はおもちゃの鈴を振って気を引こうとする。雀のお気に入りのそれは、今までも気を引く事に成功し続けた、信頼と実績の詰まった最強アイテムだ。
音に反応して一瞬こちらを見る。成功にほくそ笑んだ瞬間、雀は一瞬で興味を無くし、今度はカーテンに向かって突進していった。
くそっ!最近頼り過ぎていたから、とうとう飽きられてしまった!回数制限あるなら最初に言って!これからどうすればいいんだ!
「あー!」
カーテンに掴まりそれを引っ張る。カーテンレールが悲鳴を上げる。このままではカーテンごと倒れてくる……ことは流石にないと思うが、結構ミシミシいってんな?この家古いから……。
というか捕まり立ち自体まだ安定してないのに、そんな状態で手を滑らせたら、その勢いで転んで頭打つことは確定。危険すぎる行為に気づいて雀!
俺は慌てて駆け寄り、手をカーテンから引き剥がそうとする。しかし、雀の握力は意外なほど強く簡単には離れない。お互い掴まり立ちでバランスをとりながらの、必死の攻防戦である。
「あー、あー!(すーちゃん、だめだって!)」
「あー!」
「あー!(だめ!)」
「あー!」
会話ってなんだっけ?いや、1歳児同士ではこれが正常なのかもしれないが……言語コミュニケーショって素晴らしいよねと再認識できる。
そんな思考なら時間を割く事は許さんと言わんばかりに、彼女はカーテンを諦めたのか俺の手を振り払い、今度は本棚に向かう。その小さな手が、抜き差し可能な棚板に伸びる。
「あー!あー!」
今度は破壊衝動に目覚めたらしい。棚板を抜こうとしている。掴んだ棚板の上にはそこそこ荷物が乗っている。そのため重いはずなのに、少しずつ引き出せている。さっきの奇声は「力こそパワー」と叫んでいたなら違いない。
ため息をついて、俺は必死に彼女の体を抱きしめて止めようとする。しかし、雀はそれを遊びと勘違いしたのか、キャッキャッと笑いながら暴れる。その細い手足が、意外なほど力強い。俺は押さえ込もうとするが、体勢を崩して転んでしまう。そして覆い被さってくる雀。そして後頭部を噛まれる。歯がそんなにないからなのか、ちゃんと加減して甘噛みなのかはわからないが、痛くはない。
「あー!あー!」
しばらく組み敷かれ食べられていたが、飽きたのか勝利!と言わんばかりの奇声をあげた後解放される。
よだれがたっぷりついた気持ち悪さを感じてげんなりしている俺を尻目に、雀は再び別の場所へとハイハイで去っていく。
体力の限界だった。俺は1歳児の体で1歳児の暴走を止めるという無理難題に挑んでいる。その結果がこれだ。もう体中が痛い。息も上がっている。何より、精神的に疲れた。
そこで俺は、最終手段をとる事にした。
そう。おやつという名の餌付けである。
母が用意してくれていた、みんな大好き小さなボーロ。それを差し出せば、雀も暫くは大人しくなるはずだ。
我が家のおやつ収納場所は、台所の棚の一番上。
俺の手に届かない場所に置かれている。流石にそこから回収することは不可能。そんなことはわかりきっている。だから俺は、渡されたおやつをこっそり隠し持っておく事にした。とあるおもちゃの中にね!
正直衛生的にあまりよろしくない気もするが、背に腹は変えられない。……雀なら大丈夫やろっていう根拠のない信頼感もある。
自分の顔を食べさせるヒーローを模したソフビ人形。
原作リスペクトのためか、顔をスポンと取り外せる。
頭も胴体も中身は空洞で、そこに白いブツを隠してある。1歳児用のボーロなため、所持、接種は合法です。
間違えて買ってきたのだろう。3歳からが対象年齢のボーロもこの家には存在するが、そちらの所持であれば言い逃れはできなかったであろう。
そんな思考の最中も、積み木をガジガジしている雀を止め、扇風機のコンセントを引き抜こうとするのをやめさせ、何が起こるか分かったもんじゃないシステムキッチンエリアあの立ち入りを阻止する。
文章にしたら「これだけ」だが、実際には途方もない体力が悪戯に奪われていっている。
パトラッシュ、僕はもう疲れたよ。
なんとか隙を見て、ボーロ入れとかした国民的ヒーローを回収。俺はそれを握りしめ、再びリビングへと急いだ。
雀は、今度はテレビのリモコンを口に入れようとしていた。さっきの積み木といい、口に入らないものも食べようとするものなの?前世ペリカン説も浮上なの?
「あー、あー!(すーちゃん、どうぞ!)」
俺はボーロを差し出した。雀は目を輝かせ、リモコンを放り投げ俺の手からボーロを奪い取る。そして、嬉しそうにそれを口に運ぶ。
やっと落ち着いた。これで安息が得られる。
俺はほっと一息ついた。
……しかし、冷静に考えれば、この作戦5分も持たなくない?10粒くらいしかないし。
食べ終わったら血糖値上がって眠くなってくれんかなぁ……はい、くれませんでした!
本当に束の間の平和だった。雀はボーロをあっという間に食べ終えると再び移動を始め、今度は部屋の外へと向かおうとする。
「あー!?あー!(なんでリビングのドア開いてるの!?オーマイゴー!)」
迷子案件なだけに!とか言ってる場合じゃない。
ちょうど赤ちゃんがすり抜けられるほどの幅でドアが開いている。俺は必死に追いかける。雀は笑いながら逃げる。強制的にハイハイレースが開催されるが、圧倒的に雀が速い。彼女がドアに辿り着き、脱走してしまうと思われたが……。
「あー!」
勢いがつき過ぎたのか、ハイハイするために伸ばした手でドアを押し込んでしまい、完全に閉まっていた。閉まってしまったドアを、雀は不満そうに叩く。俺は追いつき、彼女の体を後ろから抱きしめる。もう、これで止めるしかない。プライドを捨てた裏技だ。
「あー、あー?(すーちゃん、一緒に寝よ?)」
俺の声は、もう泣きそうだった。実際涙目になっていたかもしれない。そんな俺の必死さが伝わったのか、奇跡が起きる。
「あー……」
仕方ないなぁと言わんばかりに、ゴロンと転がる。
え?どしたん?なにがあったの?話聞こか?
言葉通じないけど。いや雀には通じてるのか?
信じられない光景を目の当たりにした。
だが、よくよく考えればただの偶然で、脱走失敗で心が折れて不貞寝したのだろう。
たまごボーロが効いたのかもしれない。
隣にこいよと言わんばかりにこちらを見て両手を伸ばしてくる。その笑顔が、可愛くて腹立たしい。
でもここドアの前だから。ここで寝たら危ないから。
ベビーベッドまで誘導したいとこだがついてきてくれるだろうか?
一難去ってまた一難。ため息をつきながら、のそのそと行動に移るのだった。




