ボランティアで徳を積もうとしたら、隣の男子も同じ祈りを抱えていた
終礼の号令が終わり、放課後のざわめきが教室を包み込む中、私は机の横に掛けていたサブバッグから、家から持ってきた白い軍手を取り出した。
頭の奥から、呆れたような声が降ってくる。
『結衣先輩、本当に申し込んでたんですね』
(あんたが言い出したんでしょ)
『私が言ったのは、掲示板のチラシ見て「徳を積みましょう結衣先輩! 善行ポイントですよ!」って茶化しただけですよ!? まさか本当に全学年有志の地域美化清掃ボランティアに突撃するとは思いませんでした!』
(たまには身体動かそうと思ったの)
私はそれ以上答えず、ポケットの中に軍手を押し込んだ。指先で布地のざらつきをぎゅっと握りしめ、スクールバッグを肩に掛けて席を立つ。隣の席に目をやると、成瀬くんの姿はすでになかった。終礼が終わるや否や、誰とも話さずに教室を出ていったらしい。今日もきっと、あの長い一本道を歩いて病院へ向かったのだろう。
中庭に面した用具置き場の前には、すでに二十人ほどの生徒が集まっていた。学年ごとに適当な輪ができていて、運動部の男子や、談笑している女子グループの声が響いている。私が受付の長机へ近づこうとした、その時だった。
「……あれ?」
手洗い場のコンクリートの縁に、見慣れた制服の背中が立っていた。
前髪を少し長めに垂らした黒髪。ブレザーを羽織っただけの無防備な立ち姿。
その手元には、私と同じ白い軍手が握られていた。
「……成瀬、くん?」
思わず声が漏れた。
振り返った成瀬くんは、少し驚いたように目を丸くし、それからいつも通りの低めの声で言った。
「白川? ……お前、なんでここにいんの」
「それはこっちのセリフだよ。成瀬くんこそ、病院行くんじゃなかったの?」
「……これ終わってから行く。面会時間には間に合うから」
成瀬くんは視線をわずかに逸らし、軍手を両手で挟むようにして丸めた。どこか言い訳めいたその口ぶりに、それ以上踏み込むのをためらっていると、背後から軽やかな足音が近づいてきた。
「あ、結衣。来てくれたんだ」
振り返ると、腕に黄色い腕章をつけた水城京也くんが、青いゴミ袋の束を抱えて立っていた。癖のないさらりとした髪が風に揺れ、整った顔に柔らかな笑みが浮かんでいる。
「京也くん。受付、手伝ってたの?」
「うん。三年有志のまとめ役を押しつけられちゃってさ」
京也くんは苦笑交じりに肩をすくめると、私の隣に立つ成瀬くんに目を留めた。
成瀬くんもまた、相手が上級生だと気づいて足を止めている。
頭の奥で、葵ちゃんが短く息を呑んだ。
『うわっ……! 水城先輩とお兄ちゃんが遭遇した……!』
初対面の二人の間に、ほんの一瞬、奇妙な沈黙が落ちる。私は慌てて二人の間に立った。
「あ、ええと……京也くん、こっちは同じクラスの成瀬くん。成瀬くん、こっちは水城京也くん。三年生」
「水城です。よろしく」
京也くんは屈託のない笑みを浮かべて、自然に頭を下げた。
成瀬くんはほんの少しだけ背筋を伸ばし、低く硬い声で返す。
「……二年の、成瀬です。よろしくお願いします」
「うん。成瀬くん、参加してくれて助かるよ。……無理しないで、適当に手抜いていいからね」
京也くんの目は、成瀬くんの目元にある薄い疲労をわずかに捉えていたようだった。けれど成瀬くんは表情を変えず、淡々と言い放つ。
「手は抜きません」
「あはは、真面目だな」
京也くんは可笑しそうに吹き出し、抱えていた束からゴミ袋を二枚と、金属製のトングを二本抜き取って差し出した。
「頼もしいよ。結衣と成瀬くんは、正門から駅へ続く歩道沿いの植え込みをお願いできるかな。あそこ、ポイ捨てが多くてさ。よろしくね」
「はい」
京也くんが他の生徒への指示出しへ戻っていくのを見送り、成瀬くんは渡されたトングを一度だけカチカチと鳴らした。
「……行くぞ、白川」
「あ、うん」
◇
正門を出て、駅へと続く通学路の歩道。
夕方の冷たい風が街路樹の葉を揺らす中、私と成瀬くんは並んで植え込みの前にしゃがみ込み、奥に挟まった空き缶や吸い殻をトングで拾い集めていた。
カシャン、と乾いた金属音がゴミ袋の底で響く。
成瀬くんは黙々と、驚くほどの集中力で手を動かしていた。植え込みの枯れ枝を軍手をはめた手で押し分け、奥深くに捨てられたペットボトルを器用に引っ張り出していく。
「成瀬くん、袖、汚れちゃうよ」
「ん? ああ……洗えば落ちるだろ」
気にも留めずに泥混じりの落ち葉を払う彼に、私が小さくため息をついた、その時だった。
「成瀬くん、ちょっと手止めて」
不意に上から声をかけられ、顔を上げると、スポーツドリンクのペットボトルを何本か抱えて配って回っていた京也くんが立っていた。
成瀬くんはトングを持ったまま、怪訝そうに見上げる。
「……まだ大丈夫です」
「大丈夫そうな顔してないから言ってんだけど」
京也くんは苦笑いというよりは、少し呆れたような、ぶっきらぼうな調子で言った。
「ここで倒れられたら、まとめる側が困るんだよ。ほら」
腕の中から冷たいボトルを一本抜き取って押しつけるように渡され、成瀬くんは慌てて受け取った。
「……すみません。ありがとうございます」
「結衣も、お疲れ。無理すんなよ」
「あ、ありがとう、京也くん」
もう一本を差し出されて受け取ると、じんわりと冷たさが伝わってくる。
立ったまま蓋を開ける成瀬くんと、息をつく私の姿を、京也くんは足を止めてじっと見ていた。
それから、少しだけ探るように口を開く。
「それにしても……結衣と成瀬くん、結構息合ってたね。あんまり話してるところ見たことなかったから、ちょっと意外だった」
その言葉に、私の喉の奥がきゅっと締まる。けれど成瀬くんは表情を変えず、ボトルの水滴を親指で払いながら淡々と返した。
「席、隣なんで」
「そっか」
京也くんは小さく頷き、それ以上は何も言わずに、いつもの柔らかい顔に戻った。
「じゃ、適当なところで切り上げていいからね」
京也くんは残りのボトルを抱え直し、軽く手を振って、別のグループのところへ歩いていった。
その背中を見送りながら、成瀬くんが冷たいドリンクを一口飲み、ぽつりと呟く。
「……水城先輩って、もっと気取った人かと思ってた」
「え? そう?」
「三年で目立つやつって、だいたい偉そうにしてるだろ。……普通にいい人だな」
素直に感心している成瀬くんに、私は思わず笑ってしまった。
◇
集めたゴミ袋を集積所へ運ぶ頃には、夕日が住宅街の屋根を赤く染め上げていた。
ブルーシートの上に重い袋を下ろし、成瀬くんは軍手を外してフェンスに寄りかかった。擦れた手のひらが薄く赤くなっている。
沈んでいく夕日を見つめる横顔は、教室にいる時よりもどこか無防備だった。
「……成瀬くん」
「ん?」
「どうして、今日これに参加したの?」
私の問いに、成瀬くんの視線がふっと揺れた。
彼は丸めた軍手を両手の中でぎゅっと握り潰し、自嘲するように短く息を吐いた。
「……笑うなよ」
「え?」
「笑ったら、トングで小突くぞ」
ぶっきらぼうに前置きをしてから、成瀬くんは足元の影へ視線を落とした。
「……いいことしたらさ」
「……」
「なんか返ってこねえかなって」
「え……」
「……葵が起きるとか」
喉の奥から絞り出すような、掠れた声だった。
「そんなわけねえのは、分かってる。見返り欲しくてやってんだから、浅ましいよな」
成瀬くんは軍手を握る手に、さらに力を込めた。
「でも……何もしないで待ってんの、きついんだよ」
フェンスを通り抜ける夕方の冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。
頭の中が、しん、と静まり返っていた。
葵ちゃんは、息を殺したように一言も喋らなかった。
私は、自分の手にはめたままの軍手を見つめた。
土で少し黒ずんだ、白い布地。
「……浅ましくなんて、ないよ」
「白川?」
「私も……同じこと、考えてたから」
成瀬くんが驚いたように顔を上げた。
「私も、妹さんに何かしてあげたいのに、何したらいいか分かんなくて。だから……何もしないよりはいいかなって、思って」
成瀬くんは私の顔をまじまじと見つめ、それからぽかんと口を開けた。
数秒の後、ふっと張り詰めていた肩の力が抜け、小さく吹き出した。
「……なんだそれ。お前、ほんと変なやつだな」
「変って言わないでよ」
「変だろ。うちの妹のことなのに、なんでお前が願掛けしてんだよ」
成瀬くんは笑っていた。
呆れたような、それでも少し肩の力が抜けたような笑い方だった。
「……でも、ありがとな。白川」
低く落とされた言葉が、冷え切っていた耳の奥にじんわりと熱を残した。
「じゃあ、俺、病院行くわ」
成瀬くんはペットボトルを鞄に押し込み、トングを片付けると、短く手を挙げて校門へ向かって小走りで去っていった。その足取りは、いつもより少しだけ軽く見えた。
◇
一人になって、夕暮れの道を歩き出す。
遠くで電車の走る重い音が響き、冷たい風が街路樹の枯れ葉をカサカサと鳴らして通り過ぎていく。
頭の奥は、まだ静まり返ったままだった。
(……葵ちゃん?)
数秒して、ようやく返事が来た。
『……二人して、何やってるんですか!』
(え?)
『徳ポイント私に全振りとか、重すぎますよ! SSR成瀬葵の排出率アップイベントですか!?』
(重いとか言わないの)
『だってお兄ちゃんも先輩もバカ真面目なんだもん! ……でも、先輩たちがそこまで言うなら、さっさと起きなきゃですね』
少しだけ間があった。
『って、しんみりしてる場合じゃないですよ! 先輩、さっきの水城先輩の一言、聞きました!?』
(……一言って、息が合ってたってやつ?)
『それですよそれ! 「あんまり話してるところ見たことなかったから、ちょっと意外だった」ですって! 幼馴染の定石ですよ先輩! 「自分の知らないあいつの顔」に動揺して、無自覚に距離を測りに来てる顔でした!』
(深読みしすぎ。ただの世間話でしょ)
『世間話なわけないです! 撃破率はともかく、幼馴染のフラグセンサーがピコピコ鳴ってましたもん!』
騒ぎ続ける同居人の声を聞きながら、私はポケットの中で家の鍵を握りしめた。
夕闇の迫る帰り道。
胸の奥に残ったあの温かさは、玄関のドアを開けるまで、消えなかった。




